悠久の魔導王 第三話 黒蛇の依頼

『それはそうと、ユニ。

 せっかく水があるんだ、日のあるうちに水浴びをしておいた方がよくないか?』

 ライガの言葉で、ユニは自分が汗と埃まみれであることを思い出した。


「それもそうね。

 お風呂嫌いのあんたにしては、珍しくいいこと言うじゃない」

『ああ、今のお前は少し匂いが強い。用心するに越したことはない。

 オークはあまり鼻の利く種族じゃないが、あいつらはメスの匂いには敏感だからな』

 ライガは大きなあくびをして両目を閉じた。


 ユニは思い切りしかめ面をして舌を出した。

 自分が汗臭いのは自覚しているし、嗅覚が人間よりはるかに鋭敏なオオカミにとってはなおさらであろう。

 ライガに悪意がないことは十分に分かってはいるが、乙女心は傷つきやすいのだ。


 ユニは周囲を見回してから、服を脱いでいく。

 もちろん誰かに見られているのではないかという心配からではない。オークに対する警戒心は、羞恥心以上にユニの身体に染みついた本能のようなものだ。

「……やっぱりここ、オークの臭いがするの?」


『ああ、格好の水場だ。仕方あるまい。

 まぁ、ハヤトとトキからまだ何の連絡も入らないってことは、差し迫った脅威ではないだろう』


 ユニは一糸纏わぬ全裸になると、脱ぎ捨てたシャツや下着を拾って沼へと向かった。

 汗を流した後に洗濯をするつもりで水辺に衣類を置くと、素足をそっと水面に下ろす。

 ユニは色白の方だが、年中陽光にさらされている顔は浅い小麦色に灼けている。逆にそれ以外の肌は夏でもめったに出すことがないため、脱ぐとその身体は驚くほど白い。


 今は九月の半ばなのでまだまだ日中は暑い。水は温まっていると思ったが、湧き水のためだろうか思ったより冷たく、火照った肌に心地よかった。

 数歩足を進めてもあまり水深は深くない。せいぜいユニの膝上くらいまでだ。底は砂地で水草は少なく、あちこちからぽこぽこと水が湧き出ている。

 柔らかい砂に腰を下ろすと、大きくはないが形のよい白い乳房がちょうど隠れるくらいだった。


 ユニは手足を伸ばしてくつろいだ。

 何度か手で水をすくって顔を洗ってから、「ほうっ」と溜め息をついて狭い青空を見上げる。身体を洗うのはもう少しのんびりしてからでいいだろう。

 ぼんやりと空を眺めていると、さっきのライガの言葉が蘇ってくる。

「〝一人で帝国へ潜入〟かぁ……。どうしてこんなことになっちゃったんだろう?」


      *       *


 赤城市で吸血鬼と化した魔人ナイラと戦った数日後、ユニは赤龍帝とアリストアに対して暇乞いをした。

 ナイラとの戦いに貴重な助言を与えてくれた黒蛇ウエマクに、報告と感謝を伝えるため黒城市に向かうとユニは説明した。

 もともとユニは赤龍帝リディアから、吸血鬼事件の調査を依頼されたのである。その役目は十分すぎるほど果たした。

 吸血鬼の中でも最も恐ろしい真祖であるナイラを倒すには、黒蛇ウエマクから与えられたアスカの宝剣が必要だという情報を引き出し、当のアスカを赤城市まで連れてきたのだがユニだ。

 ユニ自身がナイラと直接戦ったわけではないが、その功績の大きさは誰もが認めるものだった。


 ただ、事が済んだ以上、軍人ではないユニの行動を縛ることはできない。

 赤城市の主人であるリディアはもっとユニを歓待して感謝の意を示したかったし、参謀本部の実質的な責任者であるアリストアはもっとユニから情報を引き出したかった。

 アリストアは、ユニが黒蛇ウエマクから得た情報を全て明かしたわけではないと睨んでいたし、実際そのとおりだったのだ。

 しかし、四神獣の一柱であるウエマクと黒蛇帝ヴァルターに礼を尽くすべきというユニの主張は当然であり、彼女を引き留めるわけにはいかなかったのだ。


「ならばアランを呼んでまたロック鳥で飛べばよいだろう。手配させるぞ」

 アリストアの一見親切そうな提案を、ユニはあっさりと拒絶した。

「それではオオカミたちを置いていくことになりますから、また赤城市に戻ってこなければなりません。

 ライガはともかくとして、うちの子たちは二度と空は飛ばないって言い張っていますから」


 ユニはユニでアリストアを多少警戒していた。黒蛇ウエマクから「魔人の心臓をアリストアに触らせてはならない」と注意されたことが、どこか心に引っかかっていたのだ。実際、アリストアはナイラから回収した魔人の心臓に強い興味を示したのでなおさらであった。


      *       *


 赤城市を出立したユニとオオカミたちは、その四日後には黒城市に姿を現した。赤城市と黒城市は南北の両端にある都市で、直線距離で五百キロ以上離れている。普通の旅人なら十日はかかる距離である。

 もっとも、幻獣であるオオカミたちだけなら大変ではあっても、決して不可能な日程ではない。驚くべきはオオカミに騎乗するユニの体力だ。

 全速で疾駆するオオカミに鞍もなしでしがみついたまま一日百キロ以上走り抜けば、まず普通の人間なら半日で全身がガタガタになるはずである。

 年中ライガの背に乗っている慣れもあるが、魂のレベルで結びついている両者は、無意識のうちに一体化することができるのだ。


 黒城を訪ねたユニは、出迎えた黒蛇帝直々の案内ですぐさまウエマクの待つ城の最深部へと案内された。

 王都同様に四古都の城それぞれにある召喚の間が、四神獣の居室となっているが、黒城のそれはウエマクの体格に合わせたのだろう、他の召喚の間に比べるとずいぶんと狭い(それでも人間の感覚では〝広間〟と言っていい程度の広さはある)。


 部屋の主である黒蛇は、太い大理石の石柱にぐるりと巻きついていた。どうやらそれが〝くつろいだ〟姿勢らしい。

 ヴァルターとともに召喚の間に入ってきたユニを認めると、ウエマクはするりと石柱から滑り降りて客人を出迎えた。


『ご苦労でした、ユニ。

 その様子だと、どうやら上手くいったようですね。

 もっとも、私の宝物庫に魔人の心臓が転送されてきましたから、あなたたちの勝利は知れていたのですが。

 何はともあれ王国の安寧が保たれたのです。あなたとアスカには感謝しなくてはなりませんね』


 男とも女ともつかない不思議な声色が頭の中に直接響いてくる。

 その姿は体長五メートルを超す大蛇だが、他の三神獣のような化物じみた巨獣ではない。ただ、全身がカラスのような黒い羽毛に覆われていて、それが虹色の金属光沢を帯びていて非常に美しく、またその大きな目に知性の光を湛えているという点では、やはり〝神獣〟と呼ばれるにふさわしい威厳があった。


 ユニはその場に片膝をつき、深々とこうべを垂れた。

「ウエマク様の助言でどうにか敵を討つことができました。

 王国の民の一人として感謝の言葉もございません。

 ただ、その功績は身を挺して戦ったアスカのもの。私は何もできませんでした。そのお褒めの言葉は、どうかアスカに与えていただきたく存じます」


 ウエマクの大きな瞳がわずかに細められた。

『そうですね、あの娘アスカも大したものです。私はよくて四分しぶろく――つまりアスカの勝ち目は四分ほどと見ていたのですよ。

 それでアスカは無事なのですか?』


「はぁ……その、無事と言えば無事なのですが……。軍医の言葉を借りれば〝絶対安静〟の重傷だそうです。

 ただ、その割に本人はいたって元気で、すぐに動き回ろうとするものですから、私が最後に会った時には拘束具でベッドに縛り付けられていました」

『うふふ、あの娘らしいですね』

 いつもながらウエマクの笑い声を聞くと、あの蛇の口でどうやって笑っているのか不思議で仕方がない。


『それでは、ことのあらましを教えていただきましょうか。

 ヴァルター、このお嬢さんに椅子を……あ、いやクッションを用意してくださいな。

 長い話になると思います。床に座ってくつろいだ方がお互い話しやすいでしょう』

 黒蛇帝は頷いて扉の外の衛兵に大きなクッションをありたけ持ってくるように伝えにいった。

 衛兵はそんなものを何に使うのかと、さぞかし混乱したことであろう。


      *       *


 ユニの体験談が終わるまでは、一時間以上を費やした。

 ウエマクは興味深そうに黙って聞いていたが、胡坐あぐらをかいて側に座ったヴァルターはそれ以上に熱心で、特にナイラとアスカの死闘に関しては何度も質問をして、自分の脳内に戦いを再現しようと努めているようだった。

 ナイラの肉体が消滅し、残った魔人の心臓をウエマクから預かった宝物箱に入れて転送したところで、ユニは話を終わらせた。アリストアが魔人の心臓を見たがったことは、何となく言い出せなかった。


 黒蛇帝は頬を紅潮させ、自分がその場にいなかったことを口惜しがった。「アスカが回復したら、蒼龍帝に掛け合って一度試合をしたいものだ」とまで言い出したのを見ると、よほど彼女の戦いに心を動かされたのだろう。


 ユニはしばらく口をつぐんで考え込んでいたが、唐突に顔を上げた。

「ウエマク様は、もう事の次第を知っておられたのですね?」


 黒蛇は少し首をかしげた。

『さっき言ったように、魔人の心臓が送られてきましたから、あなた方が勝利したことは知っていましたよ?』

「そうではなく……赤龍ドレイク様をとおして、その……リディアの見たことを知っておられたのではないかと……」


 少し間を置いて、ウエマクは静かに訊ねた。

『私が遠く離れた神獣たちと連絡ができる――あなたはそう思っているのですか?』

 ユニは黙って頷いた。


『ふふふ……面白い、実に面白いですね!

 ユニ、あなたは興味深いお嬢さんだと思っていましたが……私はあなたがますます気に入りました』

 楽しそうに目を細めて笑うウエマクを、ユニは呆気に取られて見つめていた。

 蛇は器用にも片目でウインクをしてみせた。

『残念ですが、それにはお答えできません。ヒ・ミ・ツなのですよ』


 それで話はおしまいだと言わんばかりにウエマクは突然口調を変え、真面目に話し出した。

『ユニ、私は黒龍野会戦の前に〝一度だけ知恵を貸す〟と約束しました。そうでしたね?』

 ユニはこくりと頷く。

『そして先日、あなたは〝吸血鬼を倒す方法を教えてほしい〟と頼み、私はそれに答えました。

 それで私はあなたへの約束を果たしたと思っています。

 でも、あなたはそれ以上に多くのことを知りたがり、私に質問しました。

 それは約束の範囲外だったと私は思うのですが、違いますか?』


 ユニは「おっしゃるとおりです」と答えざるを得なかったが、内心「そう言うのなら、質問に答えなければいいだけの話じゃない?」と思った。

 突然ウエマクが深い溜め息をついたので、ユニは自分の思考を読まれたかと心臓が凍りつきそうになった。

 黒蛇は悲しそうな顔をして首を振った。


『実はあの後、私はヴァルターに酷く叱られたのです。〝あれは四帝だけの秘密〟だと。

 あなたも知ってのとおり、四帝はいずれ私たち神獣の意識に同化される運命です。だから本来人間が知るべきでない知識に触れることを許されているのです。

 私はつい、あなたにその秘密を洩らしてしまった……。なんと軽率だったのでしょう!』

 ウエマクは天を見上げ、悲しそうに目を閉じた。


 ユニは呆れた。

『なに、この臭い芝居は? 絶対嘘だわ!』

 同時にぞわぞわした悪寒が襲ってきた。そして唐突に理解した。

められた!」


『ヴァルターに叱られて、私は考えました。

 約束をちゃんと果たしたのに、それだけでなく大変な秘密を教えたのです。

 ならば私はそれに見合う対価を求めてもよいのではないかと……そうは思いませんか?』


 ユニは片手を挙げてウエマクの言葉を制した。

「……もういいです、ウエマク様。

 失礼ながらウエマク様は役者には向いておりません。これ以上の三文芝居は結構です。

 さっきから笑いを必死でこらえているヴァルター様がお気の毒ですわ。

 それで、私は何をすればよいのですか?」


 ウエマクはにっこりと笑った。爬虫類だというのに、実に満足げな表情を浮かべている。

「話が早くて助かります。

 実は来月、ある人物が帝国に密入国する予定です。

 その人物は強力な力を持っていますが、さすがに一人で目的を果たすのは困難でしょう。

 そこで、あなたには同じく帝国に潜入して、その人物の手助けをお願いしたいのです。

 ――と、まぁ、ここまでは建て前です。

 本音を言えば、実際にその人物が目的を果たせるかどうかはあまり問題ではありません。

 あなたはその過程で見たこと、知り得たことを私に報告する――それだけでよいのですよ」


 ユニはずきずきするこめかみを片手で抑えながら挙手をした。

「あのぉ、帝国へ潜入するって……本気で言ってるのですか?

 いや、本気なんですよね?

 そりゃ私一人ならどうにかなるかもしれませんけど、あのバカでかいオオカミを連れていたら、一発で王国の召喚士だってバレませんか?」


 ウエマクは涼しい顔で答える。

『心配いりません。ちゃんと対策を考えています。

 潜入の手立てもこちらですべて手配しますから、あなたが悩むことは何もないのですよ』


 ユニは溜め息をついた。

「分かりました……私には拒否権がないってことがですけど。

 まぁ、ウエマク様がお膳立てをするのなら、多分大丈夫なのでしょうね。

 それで、その〝人物〟って誰ですか? その人の目的って何ですか?」

『それは会ってからのお楽しみです。事前に知っていて、もしあなたが帝国に捕えられたら大変なことになりますからね』


「捕まる前提ですか? それ全然大丈夫じゃないじゃないですか!

 もういいです!

 とりあえず私はどうしたらいいのですか?」

『まずあなたには指定の日までに東の港町カシルに行ってもらいます。

 極秘の行動ですから(あ、もちろん軍やアリストアにも秘密ですよ)、街道は使わずにタブ大森林を抜けてください。

 あなたとオオカミたちにとっては雑作もないことでしょう?

 カシルに着いたら〝海馬の穴〟という店に行ってもらいます。

 その店はご存知ですよね?』


 ユニは黙って頷いた。そこは以前、獣人たちが住む帝国領の中之島に潜入する際に利用した情報屋だった。

 ユニはアスカとともにそこでフェイと出会ったのだ。


『そこで帝国領へ入る手筈を整えています。その指示に従って対岸の帝国領・北カシルに渡ってもらいます。

 そうそう、ある人物とはその前に南カシルで落ち合うことになっています』

「せめて〝その人物〟の名前だけでも教えてもらえませんか?」


 ウエマクは少し首を傾げていたが、小さく頷いた。

『名前だけならいいでしょう。

 その者の名は〝龍の灰〟ドラゴンズ・アッシュと言います』

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