終末の花園- Garden of The end -

朝比奈 志門

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 この世界は地獄だ。

 救いなんてどこにもない。

 救済に見せかけているものは、往々にして虚像でしかなく、そのことは史実から考えても明らかだろう。

 大体、人間が人間を救おうだなんて発想がおこがましいのだ。

 救えるわけがない。誤魔化すことは、できるかもしれないけど。

 だからこそ、かつて神という存在がもてはやされた。

 人間を超えた存在。人々はそれに救いを求めたのだ。

 しかし、幻影は幻影。数々の失敗から学び、今日超人的な偶像を信じる者は殆どいない。

 すると何が起こったか。「敵」を仮定することによってコミュニティが形成され、「敵」を攻撃することによって精神の安定を保とうとする方向にシフトしだした。そうすることが、一時のストレスから解放されるためにひねり出された現実的な解決策なのだろう。

 いや、思えばこの手のパターンは昔からある。シフトと呼ぶのは誤謬だ。それらは強かに共存していた。

 正しくは、メディアの発達によって諸々の問題が目につきやすくなったというだけのことなのだろう。

 とかく、どうにせよ、

「救われない」

 ぽつり、と夜空に向かって呟いてみる。

 師走のビルの屋上。肌を突き刺すような寒さは、不思議と心地よく感じた。

 眼下には異常なまでに高度に発達した交通網。こうして上から見てみると、なんとちっぽけなのだろうか。人々が必死に積み上げてきたものなんて、自然が猛威を振るえば簡単に崩れてしまうだろうな、と実感せずにはいられない。例えば、隕石が降ってくるとか。

「無常だなあ」

 無常という言葉は存外気に入っていた。昔の人は、よくこの感情を言語化してくれたものだ。

「よし」

 一歩、足を踏み出してみる。

 少しだけ、死に近づいた。

 このまま身を投げ出してしまえば、私は間違いなく死ぬだろう。

 潰れたトマトのように、それはもうぐちゃぐちゃになって。

 想像するだけで吐き気がするほど酷いが、一方でそんな素晴らしい姿になれる空想の自分に嫉妬していた。

「ああ、今回はもうダメなのか」

 激しい頭痛と共に、意識が遠のいてゆく。

 たまらず膝をつき、倒れこんだ。

 鉛のように重くなった体は、すでに自由がきかない。

 あとちょっとなのに。

 どうして、いつも邪魔をしてくるのだろう。

 自分の死に方くらい、自分で決めれる時代に生まれたかった。

 なぜこんなにも死ぬことが難しいのだろう。

 くだらない。

 本当にくだらない。

「くそ……くらえ」

 誰に向けたわけでもない言葉が、口から漏れ出る。

 じきにまた、回収員が来るのだろう。

 優しさとやらをひっさげて。

 あの気色の悪い笑顔を考えるだけで、ムカムカしたものが胸にこみ上げた。

 最後のあがきとして手を死の淵に向かって伸ばそうとするが、その意志はたちまち曖昧になる。脳髄に埋め込まれたチップが、自殺欲求を感知するとプログラムを発動するのだ。

「……ふっ」

 乾いた笑いを浮かべ、徐々に重くなった瞼を閉じる。


 そして糸が切れたように、私の意識は途切れた。




 えぐりだしたい。

 今すぐ、このチップを。

 特別精神病棟のこの無機質な白い天井を見るたびに、そう思う。

 だが、そんなことは無論できない。

 本気でやろうとしたら、たちまち体の自由が奪われ、あげく操られてしまうだろう。

 意に反して手に持ったナイフを床に置き、回収員が来るのを眠ったまま待つことになる。

 急激な自殺率の向上により導入された、自殺防止チップ。

 自殺をしようとする意志を感知すると、体の自由を奪い、回収員を呼ぶ電波を発する。

 出生後間もなくに脳髄に埋め込まれ、別の要因で死ぬまで、全力で自殺を妨害してくるのだ。

 私はこのチップが大嫌いだった。

 直接的な害は無いにしても、あまりに不自由だから。

 現代の窮屈さを如実に物語っている。

 だが、こんな意見は世間では少数派だ。

 人々はこのチップのことを経済の救世主ともてはやし、同調する。

 埋め込まれていない人を見ると、「なんて可哀想なんだ。自殺する可能性が消されていないなんて」と嘆くだろう。衆愚と言わざるをえない。

「目覚めはどう? 問題ない?」

 この台詞を聞くのは何回目だろうか。

 前回までと寸分違わない女性の声がした。

 視線を向けるとベッドの脇に、白衣を着た眼鏡の女性がいた。

 特別精神病棟に勤務する医者だ。

 回収員と同様、気色の悪い笑みをニマニマと浮かべている。

 自殺に関わる職種の人間は皆大抵そんな感じだ。

 何度も会ってはいるが、名前は知らない。覚える気もさらさら無い。

 ただ、心の中では赤眼鏡と密かに綽名をつけている。

 私が無視を続けていると、赤眼鏡は勝手に話を進めた。

「話したくないなら、無理に話す必要はないわ。だけど、そうね。少しだけ耳を傾けてちょうだい」

 赤眼鏡は問診票のようなものに筆を滑らせ、

「これであなたがここに来たのは十回目。だいたい半年に一回くらいのペースで運び込まれてきている。そろそろ、学習する必要があるわ」

 とのたまった。

「現代では自殺は不可能なのよ。もう諦めなさい。その上で、どう生きるか一緒に考えましょう」

 現代では自殺は不可能という文言に、泣きたくなるような衝動を覚えた。

 ここには逃げ道がない。

 生きることを強要される。

 自殺をこんな方法で止めたところで、根本的な解決には至っていないというのに。

「私は生きたくないんです」

「窒息しそうだから、だっけ」

「ええ」

「分からないわ。あなたはまだ若い。輝かしい未来があるかもしれないのに」

 たしかに、将来を諦めるにはまだ早い年齢だ。それに、自分は格差が深刻化した現代でも比較的裕福な家庭に生まれている。輝きとやらを放つポテンシャルは、傍目からしたら十二分だろう。だが、

「頑張ったところで、何になるというのです」

「それは視野が狭窄よ」

 そうは指摘したものの、赤眼鏡は具体的にどうして狭窄なのかまでは説明しなかった。

 随分と都合のいいことだ。

 しかし、だからといってそのことに対して言及する気分にはなれなかった。

 また色々と屁理屈をこねるに決まっている。

「あなたは輝けるわ。自分を信じて」

 思わずそういう問題じゃない、と叫びそうになった。

 輝けるとか、輝けないとか、そんなのは自分にとって些細なことだ。

 どうして誰も理解してくれないのだろう。

 私はただ、生きるのに疲れたというだけなのに。

「……どうでもいいので、死なせてください」

「まだそんなこと言ってるの? あなたは大切な社会的リソース。絶対に死なせるわけにはいかないのよ」

 それは分かっている。少子化に歯止めがきかなくなり、未来ある若者の価値が高騰したという何ともバカげた顛末だ。

 人権だのなんだのと未だにうるさい世の中だが、このチップこそ最大の汚点ではなかろうか。

 まるで「良いこと」をしているかのように人々は振る舞うけれど、実態は資本主義の成れの果てにすぎない。

 私たちの意志を勝手に操ることができるなら、いっそのこと脳内を快楽物質で満たして、ロボットみたいに扱えばいいのに。まだそちらの方が、幾分か幸せに思える。

 でも、そんなことはしない。大義名分が必要なのか、資本家が悦に浸りたいだけなのか。

 いずれにせよ現状は中途半端。その事実が、余計に不安感を抱かせている。

 無論、この世界に不安を抱いているのは私だけではない。

 だからこうして、特別精神科なるものが成り立っている。ここで自殺願望のある人々はリハビリという名の矯正を施され、また馬車馬のごとく働けるように社会に送り返される。

 リハビリは真面目にやればそれなりに効果が出る。それは間違いない。

 一時メンタルは非常に安定し、生きる希望で満ち溢れた状態になるのだ。

 だが、私は同じことを十回も繰り返している。折角回復したメンタルも、数か月すれば元通りボロボロ。どうやら、このような症例は珍しいらしい。

 同じことを繰り返し、繰り返し、繰り返し。さすがに私も学習しなければならない。

 明日からまたリハビリが始まるだろうが、決して誤魔化されないようにと誓う。

「あれ。前回も同じことを考えた気が……」

「え?」

「いや、なんでもないです」

 あまりはっきりと覚えていないが、再びこうして固いベッドで寝ていることを考えると、おそらくそうなのだろう。じわりと、学習性無気力にさいなまれる。自分はいつまで同じことを繰り返したら気が済むのだろう。発狂しそうだ。

 正気を保つためには――やはり死ぬしかない。諦めてはいけない、と自分を奮い立たせる。

 どうにかして、今回で終わらせるんだ。

「明日からリハビリが始まるわ。忘れないようにね。今日の所はゆっくり休んで」

「はい」

 リハビリを拒否しても無駄なことは身をもって知っている。だから、できるだけ従順で真面目な患者を装うことにした。

 ほだされ、曖昧にされてしまうまで経験上、約三日といったところか。それまでに光明を見つけなければ。


 絶対に、死んでやる。




 意気込んだのはいいものの、今できることは限られている。

 というのも、チップに眠らされた後は起きてもなおしばらく軽い麻痺が残るからだ。

 つまり、病棟を出ることは叶わない。

 病棟を出なければ、自殺はまず不可能だ。

 棟内は監視の目が行き届いているし、何より回収員が常駐している。

 どうしたものか。

「ううむ……」

 頭を悩ませるが、良い方法は思い浮かばない。

 裏を返すと、チップさえなければ容易なのだが。

 取り出すか、機能を停止させるか。

 現実的には後者だ。

 しかし、チップを止めるなんてことができるのだろうか。

 うだうだと閉塞感のある病室で考えても、アイデアは降ってきそうになかった。

「そうだ」

 気晴らしに屋上に向かうことにした。

 解放感のある空間にいる方が、幾分マシだろう。

 屋上に着くと、白いシーツが何枚も干されているのが目に入った。

 淡い色調の寒空。真冬の凍てつくような空気が、まだ痺れる足を刺激する。

 病院の屋上には一昔前は飛び降り防止のために、厳重な柵が設けられていたらしい。

 しかし、今はそんなことはない。

 あるのは不慮の事故を防ぐための簡易的なものだけだ。

 あの低い柵は、少しでも予算を削減したいという思いとチップへの信頼が凝縮されていると言えるだろう。

「大切な社会的リソース、か」

 幼い頃からそう教育されてきたが、自覚は無い。

 自己への過小評価とかではなく、実際問題自分にそこまでの価値があるとは思えなかった。

 むしろ、社会が私のことを過大評価している。

 その期待が、重圧が、私が死にたい理由なのかもしれない。

「あーあ」

 腹いせにシーツを悉く倒してやろうかと思ったが、面倒なのでやめた。

 その代わり、ごろんと大の字になって横たわる。

 流れる雲を眺めながら、自分の人生について振り返った。

 裕福な家庭に生まれ、衣食住に困ることなく生きてきた。

 日本の治安は安定していて、特に大きな事件に関わったこともない。

 つまるところ、ぬるま湯だ。

 こう言えば、「十分幸せじゃないか。贅沢言いやがって」と謗りたくなる人がいるかもしれない。その意見は妥当だ。これ以上、求めるものは何もない。

「なんで生まれちゃったんだろうなあ」

 こんな生き地獄に囚われるくらいなら、初めから生まれてこない方がよかった。

 どうしてと神様に問い詰めたい気分だが、現代では生憎死んでしまっているらしい。

「あれっ!」

「……ん?」

 溌溂とした少女の声を聞き、私は体をゆっくりと起こした。

 訝し気に顔面を確認する。

 肩まで伸ばした黒いセミロングと、病的なまでに痩せた体躯。

 そして瞼の上にある痛々しい、花のような痣が特徴的な、同年代の女の子だ。

「なにか用?」

 少々ぶっきらぼうに尋ねる。

「用とかは別にないんですけど……そこで何やってるんですか?」

 興味津々といった視線を向けられ、私はおののいた。 

 何をやっている、というわけでもない。何もしていないというのが正しい。

 だが、そのことをそのまま伝えるのは気が引けた。だから、

「さてね」

 と誤魔化す。

「そうですか! まあ、そういう時もありますよね」

「……あんたこそ何しにきたんだ」

「えへへ。それはちょっと秘密です」

 少女は人懐っこい笑みを浮かべ、私のそばに腰を下ろす。

 図々しい奴だな、と思った。

 純真無垢なのか、バカなのか。おそらく、そのどちらもだろう。

「私、桐原弥生って言います! あなたの名前は?」

「……及川蓮華」

「蓮華……蓮華……。はい! 覚えました!」

 そんなこといちいち言わなくてもいいのに。

 私は不快感と、得体の知れない怒りを感じた。

 思わず、顔を歪める。

 これは嫉妬だ。目の前の少女の純真さに、嫉妬しているのだ。

 私はこんなに苦しい思いをしているというのに、なんでこの子は爛漫なのだろう。

 そんな不毛で、非生産的な感情に駆られる。

「あれ? もう行くんですか?」

 頭痛がしてきたので立ち上がり、どこかに行こうとすると、不思議がられた。

「ああ」

「もう少しお話しませんか? 私はしたいです」

「……うるさいな!」

 声を荒げ、拒絶する。

 能天気と仲良くなる気なんてさらさら無い。 

 それに、私の時間は限られている。

 三日。それまでに何とかしなければ。

 構っている精神的な余裕なんか、残されていなかった。

「やめて……。殴らないで……。お願い……」

 へらへらと受け流すかと思っていたが、弥生の反応は意外なものだった。

 体を縮こませ、涙を浮かべ、びくびくと怯えている。

 演技などではない。彼女は本気で恐怖していた。

 目の上にある痣から推測するに、暴力沙汰にはしょっちゅう巻き込まれていたのかもしれない。配慮が足りず、つい感情的になってしまった自分を責める。そもそも、簡単に生きてきた輩が、精神病棟なんかにいるはずないじゃないか。悪いことをした。

「ごめん」

 素直に謝る。少し落ち着いたみたいだが、それでもなお弥生の呼吸は荒かった。

 傍に寄り、おそるおそる背中に手を伸ばすと、一度びくりと体を震わせたものの、ついには受け入れてくれた。完全に落ち着くまで、謝罪の意を込めて背中をさする。

「……あはは。私こそごめん。その、怒鳴り声とかが苦手で」

「そうなんだ」

 弥生はにへらと笑う。

 儚さを感じさせる、押したら折れてしまいそうな、そんな危うい笑い方だった。

 私たちはどこか似ている。

 どこか、というのはうまく言語化できないけど、似ていると思った。

「桐原さん。嫌なら別に答えなくていいんだけど、その痣はどうしたの?」

 自分でもいきなり失礼な質問だと思う。まず間違いなく弥生のデリケートな部分に触れてしまうだろう。だけど、そのことを圧して知りたいと思った。弥生の背景を。

「これは、パパにね。やられたの」

「パパ……」

 ということは虐待か。今日に至るまでそれなりに多くの人と知り合ってきたが、虐待されていた人というのは初めて会う。虐待という野蛮な行為が二十二世紀になっても根絶されていないという事実を突きつけられ、肺が凍り付いたような気分になった。

 ここにいるということは、父から虐待を受け、弥生は自殺未遂を起こしたということだ。

 つまり、弥生は父を憎んでいるに違いない。しかし、短い問答の中で、その口調の中から怒りのようなものは感じ取れなかった。そのことが不思議で、

「……どう? お父さんは好き?」

 と尋ねてみる。

「好きですよ。殴るのは、やめてほしいですけど」

 そりゃそうだ。

「でも、逃げた」

「そうですね。そうなります」

「どうして?」

 殴られるのは痛いが、自殺未遂を起こすほどでもないだろう。まして、父親が好きであれば。

 なのにどうして、自殺という選択をしたのか。

「パパが私を殴りたくなる気持ちは理解できるんです」

「ほう」

「仕事がうまくいかなかったりして、フラストレーションが溜まっているんでしょうね」

「それで、何か小さなことをきっかけにして殴る、と」

 ありがちな話だ。

「そうです。で、私を殴るまでは我慢できるんですけど……。

 その後、泣くんですよね。抱きしめながら。毎回」

 弥生の父親は心から弥生を殴りたがっているわけじゃないのか。

 これは複雑な問題だ、と思った。

「それが耐えられなくて」

「えーと、どういうこと?」

「殴った後に泣かれると、どう気持ちを処理したらいいか分からなくなるんです。

 ただ、なんというんでしょうね。絶望感というか、無力感というか、そういう漠然としたものだけが胸に残るんです」

「なるほどね」

 ここまで聞いて、弥生が自殺未遂を起こした理由は何となく理解できた。

 暴力と介抱が続き、その本当の原因が父親に無いことを知ってしまったのだろう。

 そして、誰のせいで自分が苦しんでいるのか、誰を恨めばいいのか、曖昧になってしまった。

 頼るあてもなく、一人で永遠に苦しみをため込まなければいけない。そう想像した時、自殺という手段に及ぶのは無理もない話だ。

「蓮華ちゃんはどうして自殺を?」

「私? 私は……」

 弥生の後に話すのはあまりに滑稽だと思った。なぜなら、私の理由はそこまで深刻ではないからだ。いや、私自身にとっては深刻極まりないが、客観的にはそうではないだろう。かといって嘘を吐くのもためらわれた。

「私は、世界が嫌い」

 悩んだあげく口から出た言葉は、自分でも驚くほどにシンプルだった。

 世界が嫌い。そうだ。嫌いなんだ。

「あはは。私も、嫌いです」

 弥生は微笑する。

 その表情を見て、私は一人感動していた。

 彼女は荒野に咲いた一輪の花。もしくは砂漠のオアシスか。どちらにせよ、初めて自分の考えに賛成してくれる人に出会えた。そんな喜びが、暗闇を照らす一筋の光のように射し込んだ。

「蓮華ちゃんになら、言ってもいいかな」

「何を?」

「絶対に、ぜーーったいに、他の人に言わないっていうなら、教えてもいいですよ。私がここに来る理由」

 ここ、というのは屋上のことだろう。

「言わないよ」

「うん。よかった」

 そう言うと、弥生は袖からガラス瓶を取り出した。

 中には白い錠剤がぎっしり詰まっている。

 怪しい。これは巷で言う違法薬物というものではないだろうか。

「ちょっと……」

 予想外のものが出てきたため、内心焦る。

 違法薬物の刑罰は重い。刑務所から出てこれなくなることもある。

 見つかったらと思うと、冷や汗が滲んだ。

「大丈夫大丈夫。ばれっこないですから」

「そういう問題じゃなくて……」

「ハイになれますよ?」

「……要らない」

「どうしてですか?」

 理由を訊かれ、少し考える。

「想像すると、怖いから。一瞬の幸せなんか、要らない」

 幸せは持続しない。上りきったら、落ちるしかないのだ。

 まして薬物による人工的な快楽。その落下を想像するだけで、足が竦むような気がした。

「一緒だ!」

 弥生は目を輝かせる。

「私も落ちるのが怖くて、飲めないんです」

「えっ、飲んでないの?」

 なんだ、と安堵する。あたかも常用しているかのような口ぶりに、踊らされてしまった。

 改めて考えたら、生きることを諦めている人間が逮捕なんてちっぽけなものを恐れているのは変もしれないが、拘束されるというのは往々にして嫌なものだ。

「飲んでないですよ。眺めるだけ」

「眺める?」

「そう。こうやって」

 すると弥生はうつ伏せになり、肘を立て、ガラス瓶を眺め始めた。

「……何してるの?」

 思わず、怪訝な視線を向ける。

「もし、飲んでね。幸せになった時のことを考えてるんです」

「考えて、どうするの?」

「どうもしない。ただ、眺める。そして、空想にふける」

 私は絶句した。同時に、これが彼女にとっての娯楽だと思うと、胸が締め付けられた。

「楽しい?」

 そんな遊びが楽しいとは到底思えない。いっそのこと飲んでしまった方がマシだろう。

「楽しくはないですね。だけどまあ、幸せについて色々考えられるし」

「……そう」

 試しにうつ伏せになって、弥生と同じ格好をしてみる。

 幸せ、か。私にとっての幸せってなんだろう。

 自問自答してみるが、明確な答えは導き出せなかった。

 もし、目の前の薬を飲んだら。私は幸せになれるだろうか。

 なれない。……本当に?

「……分からないものだね」

「何がですか?」

「幸せって」

「そうですね。分からない。分からないから、生きている人が多いのではないでしょうか」

「かもね」

 何が幸せなのか、明確にできた時、人は歩むことをやめてしまうのかもしれない。

「……違う。逆だ」

「?」

「足を止めたいから、幸せをはっきりさせたがるんだ」

 思考することと生きることは似て非なるものだけど、殆ど同義だ。

 つまり、目的は幸福像の明確化というよりも足を止めたいという欲求の方にあるのではないか。私たちは無意識に自殺願望を抱えているのではないか。

「言いたいこと、何となく分かります。もう、歩きたくないんですよね」

「うん」

「私も、です」

「だから、私は死ぬよ。絶対に」

 誰に何と言われようと、決意は固い。私は歩き疲れたのだ。幸福を定義できないこの世界に。

「死ぬ方法があるんですか?」

 弥生は驚き、尋ねた。

「いや、具体的にはまだ……。とにかく、まずはここから出る」

 具体的にどう死ねばいいのか、いまだに見当がつかない。

 自殺という手段を禁じられただけで、人はこんなにも死ねなくなるのかと途方に暮れていた。

「えーっと」

 弥生は言葉を選び、

「もしここから出れるなら、方法はあります」

「えっ」

「それも、ふたつ」

 驚愕と歓喜が入り交じり、思考が一瞬止まった。

 死ぬ方法があるって? 嬉しい誤算だ。でも、それを知っている弥生はなぜここに?

「知りたいですか?」

 私は即座に首肯した。

「じゃあ、条件として、私も連れて行ってください。この外に」

 連れていきたいのは山々だったが、その条件を飲み込むのは容易ではなかった。

 一人でさえ至難の業なのに、二人だとより可能性は低いだろう。

 連れいくべきか、否か。いざとなれば裏切ってしまえばいいじゃない、と私の中の悪魔が囁く。美味しいところだけ奪って、甘い蜜をすすって。その一方で、天使がそれを諫めた。裏切りは、自分が大嫌いな大人たちとやっていることが同じだぞ、と。

「……いいよ」

 結局、連れていくことにした。そちらの方がメリットが大きいと思ったからだ。

「やった! 決まりですね!」

 弥生は私の手を取って、喜ぶ。

「やめて。離して。遊びじゃないんだから」

 冷たくあしらうことに一抹の罪悪感がこみ上げたが、これでいい。

 私の目的はあくまで死ぬこと。中途半端に仲良くなることは危険だ。

「そ、そうですよね」

 明らかに落ち込む弥生。ちくりと胸が痛む。

「でも、どうして一緒に? 死ぬ方法を知ってるなら、一人でやればいいじゃない」

 死ぬ方法を知っているのに、わざわざ私と一緒に逃げてリスクを背負う必要があるのだろうか。

「やっぱり、一人だと怖いじゃないですか」

 一人で死のうが、二人で死のうが、別に変わりはないと思ったが、弥生にとってはそうではないらしい。刹那、その臆病さでなぜ自殺に至れたのかと不思議に思うが、愚問であることに気づく。おそらく、その時は彼女のもてる限りの勇気を振り絞ったのだろう。精神的な限界を迎えており、理性でどうこうできる状態になかったのかもしれない。要は、今は余裕があるのだ。余裕があるが故に、不安を抱えている。迷っていて、踏ん切りがついていないと言ってもいい。そんな曖昧な人間を連れ出してもいいのかと悩んだが、本人が連れ出してほしいと言っている以上、むげに断ることができなかった。私はそれができるほど、立派な人間じゃない。

「で、死ぬ方法なんですが」 

「うん」

「一つ目は、互いに互いを殺す、という方法です」

「つまり、殺し合うっていうこと?」

「はい」

 なんとも凄惨な方法だ。だが、たしかに理論上可能ではあった。

「だけど、そんなにうまく行くかなあ?」

 かなり難易度が高いように思えた。同時に殺し合うという行為は、それ相応の度胸を要する。

 私は人を殺せるのか? 彼女は人を殺せるのか?

 たぶん、そもそもそれができる人間は自殺をしないと思う。

「さあ、どうでしょうね」

 確実性は低い。そのうえ、リスクは非常に高い方法だ。

 私自身、あまり人を殺したくはない。甘いことを言ってられる立場ではないが、やはりどこかでセーブがかかってしまう。

「二つ目は?」

「二つ目は、殺し屋に依頼する、という方法です」

 殺し屋。物騒な名前だ。

「なに? それ」

「お金を払ったら、自殺の代行をしてくれる人、ってところでしょうか」

「殺してくれるっていうこと?」

 弥生は黙って頷く。

 なるほど。そんなのがあるのか。世も末だな。

 自殺が禁止されれば、殺しもサービスとなりうる。救われない話だ。

「……分かった。現状では、二つ目が良いと思う」

 素人同士が殺し合っても、良い結果が得られるとは思えない。

 なら、多少のお金を払ってでもプロに委託する方がベターだ。

「殺し屋の場所は分かるの?」

「はい」

「よし、決まり」

 病棟から出て、殺し屋に依頼する。私たちの当面の目標が決まった。

「あの、提案しといてなんですが、お金って……」

 弥生が不安そうな表情を浮かべる。

「大丈夫。私の口座に、それくらいなら入ってるわ」

 本来は学費の予定になるお金だが、どうせ死ぬなら使ってもよいだろう。

 親不孝この上ないな、と自分でも思う。だが、まあ、生んでほしいと頼んだ覚えはないし、と月並みな言い訳を反芻した。

「そう、ですか」

 複雑な表情の弥生に同情しつつ、私はシール型の腕時計を確認する。

 手首に直接映し出されたように見える、デジタルの数字は午後三時を指そうとしていた。

「……そろそろメンタルケアの時間ね。行かなくちゃ」

 明日の朝、再びここに集合することを約束し、私たちは別れた。




 メンタルケアの時間は苦痛だ。

 なにせ自分の一番良い思い出を、嫌でも掘り起こされる。

 そうやって人生捨てたものじゃないと刷り込むのだ。

 頑張れば報われる。あれができた自分を思い出して。

 考えすぎ。思いつめなくていいのよ。

 そんな甘い言葉が、私を誘導する。

 甘い。甘い。綿菓子よりも甘ったるい。

 その手口に何度騙されてきたことか。

 今度は、今度こそは、必ず騙されない。

 だが、私のそんな反逆精神は見透かされているようで、処方された抗うつ剤は多いような気がした。これを飲まない、という選択肢はとることができない。

 吐き捨ててもどうせバレる。だったら、大人しく飲んでおいたほうがいい。

 私にできることは、どうか誤魔化されませんようにと祈ることだけ。

 あまりに無力で、泣きそうになった。

 薬が効いているのか否かは、自分では判別しずらい。

 ただ、幾分かは気分が落ち着くような感じはする。

 自分の感情が化学物質によって左右されているのを実感し、それはそれで鬱だった。




「おはよう」

「おはようございます」

 弥生は眠たげな目をこすり、小さなあくびをした。

 その所作は可愛らしく、あどけない。

「まず、状況確認をしよう」

 私はペンとメモ用紙を取り出す。

「病棟は返しの付いた高い塀に四方を囲まれている。これを乗り越えたりするのは困難」

 さらさらと、簡易な図を書いた。

「まあ、難しいでしょうね。抜けるには、二か所ある門をくぐるしかない」

「そう」

 東と西に、門を表すばってんを書き加える。

 この門にはカメラが四六時中回っているはずだ。

 それに、チップに反応する記録用のセンサーもある。

 まともに抜けたら、たちどころにバレてしまうだろう。

「どうしましょう……」

「どうしようかねえ」

 私たちは鳥かごの中の小鳥も同然だった。

 ぱっと思いついた方法で簡単に抜けられるなら、苦労はない。

 脱走者は毎日絶えないはずだ。

「知ってそうな人に訊きますか」

「……それがいいかもね」

 もちろん、他人に訊くのは一定のリスクがある。

 信頼できる人かどうかは傍目には分からない。

 それに、抜け道を知っている人が見つかる可能性は限りなくゼロ。

 だが、時間があまり無いのも事実だった。

 手段を選んでいる暇はない。

 私たちはひとまず、病院のロビーに向かった。




 病院のロビーでは、十人ほどが思い思いのことをしていた。

 数人で談笑する人、ボードゲームに興じる人、タブレット端末を凝視する人。

 その中で、複数回見たことのある人を選別する。

 私と同様、複数回ここに来ている人の方が、病棟の構造には明るいと考えられるからだ。

 そんな人、滅多にいなかったと記憶しているが……。

「ん……?」

 仲間と笑っている大柄で禿頭の男性。

 あの人はたしか、前々回でも見かけた。

「あの。いいですか」

「お? なんだ嬢ちゃん」

 禿頭は気さくな笑みを浮かべ、尋ねてくる。

 第一印象通り、良い人そうだ。

「私たち、病棟の構造に詳しい人を探していて」

「なに、脱走でもする気か? 逃げてどうするんだ」

 殺し屋の所に向かうと正直に話してもよかったが、人の視線が集まっているこの状況で言うのはさすがに憚られた。

「逃げるだけ、です。とにかく、ここから出たいんです」

 もっともらしい嘘を吐く。バカみたいな理由だが、年相応の少女らしいと言えばらしいので、なんとか誤魔化せるだろう。

「ふうん。ま、逃げたところですぐに回収員が来るだけだと思うがな。

 自殺なんてするもんじゃないぜ」

 御託はいい、という言葉を飲み込み、私は反論する。

「じゃあ、なんであなたは何回もここに来ているんですか?」

「ぐっ。それは……」

 禿頭に言われても、まるで説得力がない。

 自殺をしていけない理由とやらが分かっているなら、そう何度も行動に移さないだろう。

「色々あるんだ。大人には」

「大人? へえ……」

 そうやって大人と子供を区別する大人が、私は一番嫌いだった。

 だから、少し熱くなってしまう。

 禿頭を睨みつけ、表情を窺った。

 ぐぬぬという台詞が似合いそうな表情だ。

「嬢ちゃん、そこらへんにしといてやりな。コイツ、切れないからさ」

 さっきまで禿頭と話していた人が、割って中に入る。

 目の細い、中肉中背の中年男性。

 人当たりは良さそうだが、底の知れぬものを感じさせた。

「切れない?」

 切れない、とはどういうことだろうか。

「そ、切れない。怒れないんだよ、コイツは。だから色々と溜め込んじまうのさ」

「はあ……」

 納得はできなかったが、禿頭が繰り返しここに来てしまう訳は理解した。

 怒れない、というのはたしかに辛いだろう。

 それを聞いてか、後ろでビクビクと委縮していた弥生が、少しだけ緊張を解いたような気がした。

 弥生からしたら「男の怒り」というのはトラウマ以外の何者でもないから、仕方ない。

「なあ、そんな話はもういいだろ?」

「そうですね。私が訊きたいのは病院の抜け道です」

 私は淡々と答える。

「だったら、よね婆に訊いてみな。あの人、脱走で有名だから」

 脱走で有名な人がいるという事実に心躍らせる。

 つまり、抜け道があるということだからだ。

「その人は今、どこに?」

「この時間だったら上のオープンスペースにいるんじゃないかな」

 上のオープンスペース、と聞いてピンときた。

「もしかして、あの人がよね婆……」

 複数回見たことのある人の中に、心当たりがある。

 精神病棟内では珍しい、高齢の方だったので非常によく覚えていた。

 脱走を繰り返すような人間には思えなかったが、往々にして人は見かけにはよらないらしい。

「分かりました。ありがとうございます」

「おう」

 禿頭に別れを告げ、オープンスペースに向かおうとした時、私は咄嗟に足を止めた。

 目が痛くなるような、オレンジ色の制服。

 そして、ニマニマと気色の悪い笑み。

 回収員だ。

 自殺志望者を回収しに行くのだろう。

 五人ほどが、一糸乱れぬ動きで隊列を成し、目の前を横切った。

「ほう……」

 先頭に立ち、一際並々ならぬ雰囲気を醸し出していた男が、私の存在に気づき立ち止まる。

「蓮華サン。あなた……何かよからぬことを考えていますね?」

「っ……」

 自分の心を見透かすように凝視してくる回収員。

 その気色悪さといったらなかった。

 思考を読み取る権限なんて回収員は持っていないはずなのに。

 どうしてバレたのだろう。いや、持っていないというのは建前で、実際は持っているのかもしれないが。もしそうでないとしたら、理不尽なまでの洞察力だ。

「いいですか。死ぬ必要なんかないんですよ。あなたには立派な足腰があるんです。

 逆境から立ち上がるための足腰が」

 回収員は定型句をつらつらと述べる。

 足腰だと? ふざけるのも大概にしてくれ。

 その優しさに、何度騙されてきたと思っているんだ。

「いえ、よからぬことなんて、とんでもない。早く病気を治して、ここから出たいと思っています」

 バレようが、構わない。一応取り繕ってみる。

「嘘はよくないですねえ。別に咎めませんよ。人間、誰にだって死にたくなる時はあるものです。実際、死のうとするのは褒められたものじゃありませんけど」

 案の定バレたので、顔が引きつった。

 反応を見つつ、回収員は続ける。

「いかにして死ぬかを目標にしてはなりません。現代では、どうせ死ねないのだから。いかにして生きるか。それだけを考えればよいのです」

 いかにして生きるか。そんなこと、とうの昔に考えるのをやめている。

 だが、改めて考えてみると、悪くないかもしれないと思ってしまった。

「……分かりました」

 口ではこう言ったものの、内心では強く否定しつつあった。

 悪いとか、良いとか、もはやそういう次元の話ではないのだ。

 そのことを思い出せずにいたら、危なかった。

「私たちは忙しいので、もう行かなければなりません。何か悩みがありましたら、担当医の方に相談してくださいねえ」

 回収員はそう言って、この場を去った。

 また一人、彼らは天国を目指した人間を回収してしまうのだろう。

 だが、彼らのやっていることの根本に「絶対的な善」が根差していることを考えると、報われない。よかれと思ってやっているのだ。人の気持ちを考えず、ではなく充分に考えた上でだから、余計に性質が悪い。

「蓮華ちゃん」

 弥生は不安そうに声を震わせた。

「ほら。よね婆とやらを探しに行くよ」

 微かな迷いを察されないよう、できるだけ気丈に振る舞う。

 私たちは不安を掻き消すように、足早にオープンスペースに向かった。




 オープンスペースに着くと、そこにいたのは一人の老婆。

 窓際で、静かに読書をしている。

 今時珍しい、紙の本だ。

 白髪と深い皺から年齢は感じさせるものの、その知的な瞳からは思わず畏敬の念を抱きたくなるような聡明さが見て取れた。

「あの、よね婆……さんでよろしいでしょうか」

「……そうだけど、何か?」

 しわがれた声で訊き返す老婆。

 私は一瞬関わってはいけないものに触れた気がして、怯んだ。

「た、単刀直入に言います。ここから出る方法を教えてください」

「……いいよ。だけど、その前にふたつ質問がある」

 よね婆は読みさしの本を畳み、私たちに向き合った。

「あんた、病院の周りは実際に見て回ったかい」

「いえ、実際には……」

 病院の構造に関しては、窓から見える範囲と、案内版に載っているようなものしか知らない。

「ふん。実際に見てみたら、出ること自体は簡単だって気づくはずなんだけどね。

 まあ、病院の人間に勘づかれるのを嫌っているんだろうけど」

 その通りだった。無暗に探索しなかったのは、それが理由だ。

 にしても、出ること自体簡単とはどういうことだろうか。

「抜け道なんていくらでもある。裏の藪からでも、地下からでも。無論、どこにもそんなこと書いてないけどね」

 やはり、脱走の常習犯の言うことは違った。

 私はこの病棟が完璧な要塞ではないことを知り、安堵する

「私が何度も出ているのにも関わらず、頑なに対策しないのは彼らの驕りだろう。一見すると、出ることが難しいように作ってはいるが、実のところは杜撰だ」

 出ることが難しいように作ってあるのは、回収員のキャパシティを超えないようにするためだろう。また、よね婆が未だここにいるということは、脱出のその先がいかに難しいかを意味している。それを見て、我も我もと脱出を試みる人は滅多にいない。だから、病院側からしても、対策する必要性が無い。

「えっと、二つ目は……?」

 もう既に訊きたいことはあらかた訊いたような気がするが、念のため質問を促す。

「二つ目は、絶対に後悔しないと誓えるかい?」

 その答えは明白だ。後悔なんてするわけがない。このまま死ねずにずるずると生きる方が後悔するだろう。そう答えようと思った時、よね婆と視線がぴたりと合った。

 吸い込まれそうな瞳で、こちらを見つめてくる。私は瞬時に、よね婆が言いたいことを理解した。

 後悔ができるのは、生きている時だけ。死んだら絶対に取り返しがつかない。

 おそらく、そう言いたいのだろう。

「それでも、私はっ……」

「あー分かった分かった」 

 意思表明をしようとすると、よね婆は興味無さそうにあしらい、

「私はね。ただ、忠告をしたいんだ。あんたが死んだところで世界は何も変わらない。でも、あんたが生きて、あがいて、訴えれば、何かが変わるかもしれない。そうだろう?」

 私は言葉に詰まった。その通りだ。このまま問題を提起せずに放棄して、死んで、果たして本当にいいのだろうか。死んだところで何も変わらない。ただ、一人の少女が死んだという事実が残るだけだ。それはとても悔しいことなのではないだろうか。

 だが、それはあまりにも正論すぎる。正論すぎて、手が届かないところにある。完全な円など描くことができないように、まったくの理想論でしかない。

「……私はそれができるほど、立派じゃありませんし、余裕もありません」

「どうだか。未来は誰にも分らない」

 ここで初めて、その仏頂面を僅かに崩す。

「じゃあ、よね婆さんはどうなんですか。なぜ自殺なんか」

 そこまで自殺に反対するのに、なぜここにいる。

 私に言ったことをそっくりそのまま返したいくらいだった。

「私は死にたいんじゃなくて、知りたいんだよ」

「?」

 私と弥生は首を傾げた。

「私には息子がいた。気立てがよくて、自慢の息子だった」

 よね婆は淡々と続ける。

「結婚をして、昇進して。順風満帆に見えた。でも、ある日突然死んだ。首を吊って、妻子を残して。そんな素振りは全く無かったのに。何が不満だったかは分からない。死んだ理由は知ることが出来ない。死人に口は無いからね」

 その話を聞いて、愕然とした。

 首を吊って自殺? そのようなことが可能なのか。

「なんで自殺をしたのか、というより、どうやって自殺をしたのか、を知りたいんですね」

 弥生が話の流れをくみ取り、まとめる。

「そういうこと。だから、私は未だに自殺をするのさ。死にたいだけだったら、安楽死すればいい。もう充分年寄りなわけだし」

 特別精神病棟に年配の方が少ないのは、安楽死制度があるからだ。

 だからこそ、なぜここにいるのか一層疑問だったわけだが、この答えを聞いて氷解した。

「でも、それって他殺の可能性がありますよね」

 現代では基本的に自殺はできない。それでもなお、自殺ができたということは自殺に見せかけた他殺であるという可能性の方が高いように思えた。

「本当の所は誰にも分らない。だけど、現代の技術を駆使して調べたんだ。その結果を見て、他殺の線は無いと思っている」

「そうですか……」

 自殺ができた人間がいたということ。それは殺し屋のところに向かおうとしている自分たちにとっては、すでに有益な情報とはなりえなかったが、興味深くはあった。

 何年前の話なのかは想像がつかない。だが、そう遠くもないだろう。今の今まで、自殺ができた人間がいたなどとは聞いたことがなかった。広まっていないということは、事実が踏みつぶされていることになる。あるいは、不明と処理されたか。どちらにせよ、チップの信用を失わないよう犠牲となってしまったはずだ。よね婆が執着するのも頷けた。

「自殺する理由は分かりました。でも、だったらなぜ脱走をするんです……あっ」

 話している途中で気づく。

「そう……まあ、それで合ってるよ」

 よね婆は面倒くさそうに、解釈をこちらに投げた。

 つまり、よね婆は自殺を繰り返したいのだ。私や禿頭のように繰り返してしまうのは特殊な事例。普通、リハビリをまともに受けたら「また自殺したいなあ」などという発想は泡沫となって消えてしまう。それを防ぐために、脱走しているのだ。

「よし。ひとまず訊きたいことは訊いた。あとはあんたたち次第だ。

 今日の丑三つ時、一階の東口に来なさい。場所は分かるね?」

 私は病院の構造を思い出す。一階の東口とは、たぶんあそこのことだろう。

「はい」

 私が素直に答えると、今度は弥生が怪訝そうに尋ねた。

「えーっと。よね婆……さんも連いてくるんですか?」

「あんたたちが行こうと行くまいと、今夜出ていくつもりだったんだよ。運が良かったね。それに、一人でも多い方がいいだろう。回収員の初動が遅れるはずだ。まあ、こんなおいぼれよりあんたたちの回収を優先するだろうが」

 老人よりも若者を。命に優先順位がつけられてしまうというのは、悲しい事実だ。

 だが、それがこの社会の本質に他ならない。なんでもかんでも価値を見出して、より自分が楽になる方向へと誘導する。それで残るのは虚しさだけとも知らず。

 私たちはよね婆に別れを告げ、オープンスペースを後にした。

 丑三つ時に、一階の東口。その短い文言を、呪文のように反芻しながら。




「よね婆って、怖い人でしたね」

「……そうね。だけど、悪い人じゃかったみたい」

 仄暗いリノリウムの廊下を歩きつつ、私たちは感想を言い合う。

 弥生は目を泳がせ、

「死んでしまって、本当に大丈夫でしょうか」

 と迷いを口にした。

「大丈夫よ。怖いの?」

 この世界に未練などない。それどころか、何もないと言っても過言ではないだろう。そこに広がっているのはまっさらで、ひどく平坦で、虚無な気持ちだ。

「……ちょっとだけ、怖いです」

 言い分は理解できる。なにせ、取り返しのつかないことだ。一度死んでしまったら、二度と生き返ることはない。

「死んだら取り返しがつかないとか考えてるんだったら、それは誤謬よ。。死ねば、取り返しがつかないことを後悔する脳みそすら無くなるんだから」

「死ねば全てリセット……」

「そう」

「なんというか、なんというか、ですね……」

 突然、弥生はボロボロと泣き出した。

 私は一瞬びっくりする。なぜこの子は泣いているのだろう。

 その理由は彼女自身もあまり把握していない様子だった。

「ごめん……なさい。もう、分からないんです」

 声を上げずに、ただ涙を流す弥生。やがてぺたりと座り込み、手で顔を隠してしまった。しきりに震える小さな体。こういう時、どう接すればいいのだろう。

 私は同じように隣に座り、背中をさする。泣いている子の対処法は、これで合っているのか。自信はない。すると、弥生は強く抱きついてきた。無機的な入院着ごしに、彼女の体温が伝わってくる。私はその図々しさに対する不快感から、思わずはねのきそうになったが、実行には移さなかった。大声で怒鳴りつけて、拒絶して、怯えられたのが脳裏をかすめたからだ。そして、この涙が積年の懊悩によるものだと気づき、拒絶しなくてよかったと回顧する。

 弥生はもともとそういう人だ。純粋で、子どもっぽい。それを否定することは簡単だが、彼女だって望んでそうなったわけではないだろう。殺し屋の場所を知っているのは弥生だけ、という打算的な思考からではなく、私は心の底から受け入れてみることにした。

「……弥生は一人じゃないわ。安心して」

 そう言って、弥生の髪を撫でる。そうしているうちに、不思議と自分の中に愛しさのようなものが湧いてくるのを感じた。

 弥生は、自分より弱い。頼られて、初めてそのことを認識した。つまり、これは一種の庇護欲求だ。我ながらこの期に及んでそのような感情を抱くのかと呆れたが、私にとっての彼女もまた、自分の弱さを埋め合わせる丁度の良いピースだったのだろう。

「でもね。最終的には私と行くかどうか、自分で決めなさい。約束を破ったって、あなたが罪悪感を感じる必要はない。あなたの命はあなたのものよ」

 唆した張本人が言うのもなんだが、私には弥生の命の責任はとれない。自分はそんな大それた人間じゃない。だから、たとえ殺し屋の居場所が分からなくなったとしても、不本意な人間を連れていくことはしたくなかった。

「……………うん」

 長い沈黙の末に、弥生は同意する。反応を見る限り、やはりまだ迷っているようだ。

「さ、じきにメンタルケアの時間よ。もし、心変わりが無かったら、また深夜。着替えてくるのと最低限の貴重品を忘れずにね」

 弥生は黙って頷き、やがて名残惜しそうに離れる。目は赤く腫れ、涙痕が目立っていた。

「? なに? どうしたの?」

 じっと顔を近づけたままこちらを見つめてくるので、訝しむ。

 少しだけ、心臓が跳ねる思いをした。

「…………いえ、なんでもないです」

 おかしな子ね、と冗談めかして笑い、私は立ち上がった。

 そして、半ば逃げるようにして弥生と別れる。

 気持ち悪いとか、そういう拒絶の感情からではない。単純に、気持ちの準備ができていなかったのだ。然して、既に私たちの関係は友達ではなく、

「依存関係……」

 死という目的を共有した、歪な依存。それはあまりに甘美で、儚く、悲しいものだった。もし、この場所以外で出会えていたら、きっと違うものになっていただろう。どうしてこうなってしまったのかと、何かを憎まずにはいられなかった。

「私はどうしたいんだ……」

 一人、自問自答する。答えは明白だった。弥生をこの世界から守りたい。このくそったれで、理不尽で、残酷極まりない世界から。これ以上、純粋で、清廉で、無垢な弥生を汚させはしない。彼女は鏡の向こうの私だ。境遇は違えど、本質は同じなのだ。

「バカだな、私」

 弥生を守る手段は、死しかない。それしか思いつかない。ただ、私が弥生と死にたいだけなのかもしれないけれど。まあ、それでもいいだろう。自分勝手だが、それを否定する人間はここにはいないのだから。

 弥生が来るかどうかは五分五分だ。抗うつ剤の効き目もあるし、考えが変わってしまうこともままある。そうなった時はどうしようか。私は様々な可能性を考慮しながら、診察室の扉をノックした。




 深夜二時半。

 私は久しぶりに私服に着替え、予め用意しておいたバッグを持ち、一階の東口に向かった。僅かに人気は感じられたが、足音を立てないようにして歩き、かいくぐる。

「こんばんは」

「来たね」

 よね婆と軽い会釈を交わし、とりあえず場所は間違えていなかったと安心する。

「もう片方は一緒じゃないのかい」

「はい」

 弥生はまだ来ていなかった。漠然とした不安が芽生える。

「十分待って来なかったら行くよ」

 私は返事をしなかった。いや、できなかったという方が正しい。最後の最後まで、粘りたいという頑固な意志の表れだ。

「あんた、あの子のことはどう思っているんだい」

 その質問に、体はぴくりと反応した。感謝はしているが、それに正直に答えるほどの義理はない。

「……ただの協力者です」

 そう答えた自分に、憤る。だが、この答えは未だ弥生のことを協力者として認知していたい自分がいることの証明だった。私は死ぬ。どんな手段を使っても。だから、邪魔になるようなものは極力排除したい。でも、だからといって弥生を裏切れるだろうか。相反する二つの感情に揺れていた。

「協力者、か。いい答えだ」

 よね婆は満足そうに頷き、

「これはアドバイスだが、あまり入れ込むのはやめときな。死ねなくなる」

「そんなことは……」

「あるんだよ。ただでさえ、あんたが思っている以上に、今のあんたの精神は落ち着いているんだから」

 認めたくはなかったが、一理ある。自覚症状が薄いだけで、薬の効果は確実に効いているはずだ。冷静な思考と、大切な存在。死ねなくなる理由としては充分だった。

「気をつけます」

「はっ。これじゃまるで私が悪者みたいだねえ」

 自殺を唆のかした自分を皮肉るよね婆。

 私たちは半ば落ち着かずに、弥生を待った。

「そろそろ時間だが……おっ」

 よね婆が行こうとした時、ちょうど弥生の姿が見えた。

 小走りで駆け寄ってくる。

「すみまぜん、遅れました」

 息を切らし、膝に手をつく。直前まで迷っていたのか、それとも寝てたり忘れてたりしたのか。その表情から、なんとなく後者のような気がした。

「えへへ。ちょっと寝すぎちゃいました」

 あたり。あまりに分かりやすかったが、それでも嬉しい。だけど、

「私たちはこれから死にに行くの。後戻りはできない。いい?」

 私がそう言うと、弥生は満面の笑みを浮かべ、

「蓮華ちゃんが生きるっていうなら、私も生きますし、死ぬっていうなら、私も死にます。それだけです」

 と重みのある言葉を吐いた。嬉しかった。と同時に、彼女の命を握っているという恐怖もあった。そして、それはまた私の命が私だけのものでないことを意味する。

「ふん」

 よね婆は居心地が悪そうに鼻を鳴らし、

「とっとと行くよ。見つかったらおしまいだからね」

 と扉のパスワードを入力しはじめた。どうしてそれを知っているかを改めては訊くまい。なにせ脱走の常習犯だ。知る方法なんていくらでもあるのだろう。

「開いた」

 一分もしないうちに扉が開かれる。私たちは再び閉まらないうちに外に出た。

 肌にまとわりつくような冷たさの外気。真夜中のしじまが焦燥を駆り立てる。

 よね婆は外に出ると足早に建物の裏に回った。私と弥生はそれについてゆく。

「こんな所……」

 着いた先はまず誰も近寄らないような場所だった。焼却炉の裏。そこにたしかに抜けられそうな藪がある。

 抜けられそう、とは言っても間は狭い。一人ずつしか通れないその間を、緑葉を突き破りながら抜ける。少しだけ肌に切り傷が出来た。

 私たちは黙々と進む。やがて再び建物の裏に出て、そこから道路の方に向かった。

 街頭が煌々と光る道路に出ると、自分が病院の外にいるのだと実感した。

 閑散とした住宅街を速足で歩き、よね婆についていく。年の割に体力があるのか、私たちは何度か距離を空けられた。坂を下り、十字路を曲がり、また坂を下り――そして、

「ここは……駅?」

 駅前にたどり着く。大きな駅だ。よね婆は一仕事終えたような顔をし、

「じゃ、ここでお別れだ。さようなら」

 と簡潔な言葉を残して、立ち去ろうとした。私は慌てて呼び止める。

「あっ、あの、ありがとうございました!」

 私がそう言うと、よね婆はきょとんとし、苦笑した。

「いいよ。お礼なんか。褒められたことをしたわけじゃないし」

 たしかに、彼女は褒められたことをしたわけではない。治療を放棄し、脱走し、少女の自殺を促しているのだから。ただそれでも、私たちにとっては立派な恩人だ。

「自殺……うまくいくといいですね」

 よね婆は答えなかった。柔らかな笑みを浮かべ、一方で何か思いつめたような瞳でこちらを見つめてくる。私はやってしまったのではと焦った。

「ち、違うんです。別にそういう意味じゃなくて。いや、そういう意味ですけど。ええと……」

「あはは。いいよ。どうせうまくいかないのは私も分かってるから。学習しないねえ」

 ぽつりと寂しそうに嘯くよね婆。私は掛ける言葉を失くした。この状況で、何を言っても励ましにはならない。だったら、何も言わずに別れるのが正解だったと後悔する。

「二度と、あんたには会いたくないね」

 よね婆は優しい口調でそう言うと、くるりと踵を返し、そのまま夜の闇に消えていった。

 私はしばらく、茫然と立ち尽くす。よね婆の言葉は、鋭いナイフだった。それもただ切りつけるだけだはない。毒の盛られたナイフだ。じわじわと私を苦しめる。

「行っちゃいましたね」

「ええ」

 駅にいるものの、終電はとっくに過ぎている。弥生に殺し屋の場所を訊くと、丁度この沿線の駅の名前をあげたので、私たちは始発の時間まで線路の近くをずっと歩いていくことにした。

 気持ちの良い夜風が、頬を撫でる。濃紺に染まる空は早朝を予感させるものだったが、まだ静かに寝息を立てていた。

「ねえ、死後の世界ってどんなところだと思う?」

 私はふと尋ねる。弥生は逡巡し、

「死んだことないので分かりませんけど……無、であってほしいです。幸せも、苦しみも、要りません」

「どうして?」

「だって、辛くないですか? よく『辛い』に一本足して『幸せ』だーってのがありますけど、私にとってはどっちも大差ないです」

「そうだね」

 無であってほしい。幸せも苦しみも要らない。その意見には全面的に同調せざるをえなかった。死後の世界なんて実際死んでみないと分からないが、最初に想像した人はさぞおめでたい脳みそを持っていたと思う。

「疲れた?」

「疲れました」

「少し、休もうか」

 回収員が追ってくるのはまだ先だろう。余裕がある。私は二十四時間営業のコンビニを見つけると、そこで肉まんを二つ買った。湯気の立つ肉まんを、コンビニの前でかじる。

「温かいですね」

「うん」

 私たちは黙々と食べ進める。溢れる肉汁と、ぼそぼそとした生地。寒い中で食べる肉まんは、より一層美味しく感じた。

「ちょっと不思議です」

「何が?」

「私たち、これから死ぬっていうのに、ご飯を食べてます」

 言われてみればたしかに、と思った。普通だったらこんな回りくどいことはしないだろう。そこまでして死にたいなら、餓死を選択すればいいだけなのだから。しかし、現状はそう簡単ではない。以前一度試したことがあるのだが、餓死をしようと行動に移した瞬間にチップは作動するのだ。無駄に精度が高い。だから、お腹が空いた時からものを食べないという選択肢は意識せずとも排除していた。

「生きるための営みなのにね」

 肉まんの中に練られた豚たちは無念であろう。しかし、これも人間が勝ち取った権利である。踏みにじられたくなければ、競争に負けなかったら良いだけの話だ。競争、競争、競争。世の中には競争があふれている。生きるということは奪い合うということであり、何人もそのカルマから逃れることはできない。逃れることができないのを認めた上で、議論する必要があると思うのは私だけだろうか。

(どうでもいいか、そんなこと……)

 考えるだけ時間の無駄だ。特別、私が何かをしたところで変わることもない。それは連綿と続くただの結果でしかないのだから。

 私たちは肉まんを食べ終えると、再び歩き出した。そうこうしてるうちに夜が明け出し、まばらに人が活動を始める。始発の時間になったので、電車に飛び乗り、目的地を目指した。

 人工的な光に照らされた車内。外はそうはいってもまだ暗く、対照的だった。そこには私たちしかいない。無人の電車というのは、なぜこうも不気味なのだろう。一定のリズムで揺らされながら、軽いデジャヴを覚えていた。

 ふと、肩に重みを感じたので見てみると、弥生がもたれかかっていた。よっぽど眠かったのか、船を漕いでいる。可愛らしい寝顔だ。とてもこれから死ぬ少女のようには思えない。

 もしかしたら、弥生と生きるのもありなのかもしれない。弥生とだったら、生きれるのかもしれない。

 自分の中に迷いが生じた。私は、私の一任で、弥生をどうこうして本当にいいのだろうか。この愛らしい生き物を壊してしまっていいのだろうか。ともに死ぬことが守ることになるのだろうか。そういう思いが、ぐるぐると頭の中を駆け回る。遠い異国で二人暮らすことを想像し――うん、悪くない。会って三日と経たない人間にそんな感情を抱けるとは、思ってもみなかった。できるだけ繋ぎとめておきたい。長い時間を過ごしたい。死ぬことが全てではないのでは?

(毒されたな……)

 しかし、私の決意は固かった。よね婆の忠告通りになって癪に障ったのもあるが、同じようなことを何度も繰り返してきたからだ。結局、死という選択は変わらなかった。私は死ぬ。どんなことがあっても。ついてくるというなら、それは彼女の選択だ。私が気に病むことじゃない。

 そもそもなぜ、自分は死のうとしているのだろう。私の悩み事なんか、実際はとてもちっぽけなものなのではないか。食べることにすら困っている人々に比べたら、とてつもなく幸せだ。動機の根本を揺るがしかねない疑問が湧く。そこで、自分の精神が安定しだしていることに気が付くのだった。




 朝日が車内に差し込みだした頃、私たちは目的地に着いた。

 駅を出ると、きりりと冷え込んだ朝の空気にあたった。体を震わせながら、弥生の後をついていく。ここは有名なネオン街だ。酔い潰れや落書きが散見され、治安の悪さを物語っている。夜には絶対来たくない。自分の性には合わないだろう。

 やがて、弥生はとある公園で足を止めた。公園と言っても、ちょっとした広場のような、小ぢんまりとした場所だ。ベンチで座っている人や、新聞を読んでいる人、じろりとこちらを睨んでくる人――その中に明らかに異色な人間がいた。カーキの外套に身を包んだ、長身の男性。前髪は目が隠れるくらい長く、不潔な印象を受けた。その人は何をするでもなく、公園の端で突っ立っている。弥生は躊躇なく近づき、そして話しかけた。

「金、緑、スカル、壊れかけのピアス」

 謎の呪文。合言葉みたいなものだろうか。男はその言葉を聞き取ると、

「……分かった。そういや嬢ちゃん、前も来たな」

 視線を向け、こちらの姿を確認する。

 私はこの時、ぞっとした。全身を嘗め回すような視線。それは明らかに変態的だった。

 もちろん、それ以外に怪しい部分などない。口調は淡々としているし、表情はこれでもかというくらいに無だ。だが、私はその一瞬で男がいかなる人物なのかを悟った。

 要するに、ケダモノだ。説明するのが躊躇われるほどの邪悪。そもそも殺しを生業にする奴に、まともなのがいると考えた私がバカだった。自殺を代行してくれると期待を持っていたが、実物を目の前にしてその夢は揺らいだ。

「えへへ。前はお金が無くって。すみません」

 微笑する弥生。やめろ。そいつにそんな顔を見せるな、と思わず口に出そうになる。

「いいよ。今日は持ってきたんだな?」

「はい。彼女が」

「オーケーだ。早速だが、交渉といこうじゃないか。ついてくるといい」

 そう言って、男は歩き出す。

 もしかしたら、私の勘違いかもしれない。密室に連れ込まれる前に、確認しておかなければ。

「待って」

「?」

 男は足を止め、怪訝そうに見つめてきた。

「あなた、本当に殺しだけが目的なの?」

 私は周りを一切気にせずに言い放つ。男はばつが悪そうに顔をしかめ、

「周りに人がいるんだぜ。あまりそういう言葉を出すな」

 構うものか。どうせこっちは死にたがりなんだ。いかなる脅迫も怖くはない。

「まあ、いい。それで。何が言いたい?」

「分からない?」

「分からないなあ」

 僅かに男の口角が上がる。どうやらこの状況を楽しんでいるようだった。

 詰問されて喜ぶ、あの感情はなに? 必死に答えを探す。

「どうしたの? 蓮華ちゃん」

 弥生が不安そうに尋ねてきた。すると、

「へえ、蓮華っていうのか」

 と男は私の名前を記憶する。気色悪い。気色悪い。気色悪い。私の名前も、男にとってはスパイス程度のものでしかないのだろう。これは疑心ではない。確信だ。

 私は弥生の手をとって、走り出した。火薬が爆発したみたいに、気持ちを抑えることができなかった。あんな下種に弥生を傷つけられてたまるものか。私たちの命が、最後まで弄ばれてたまるものか。悔しい。世界はなぜこうも残酷なのだろう。

 これは表明なのだ。世界の不条理から逃れるために死ぬのに、世界の不条理に殺されるのは違う気がした。どんな方法でも死ねればよいと考えていた自分は、すでにそこにはいなかった。結局、大事なのは自分で自分を殺すという行為そのもの。それだけが、唯一の救いだ。だが、自殺願望が叶うことはない。

「どうしろっていうんだ……」

 唇を噛みながら、ネオン街を走り抜ける。周囲の目など、もはやどうでもいい。とにかくこの腐った場所から逃げ出すんだ。男は追いかけてくるような真似はしてこなかった。充分離れたところでそれを確認し、足を止める。商店やビルが立ち並ぶ、ごく普通のオフィス街。互いに息を切らし、弥生と向き合った。

「蓮華ちゃん、急にどうしたんですか?」

「……あいつは信用できない」

「殺し屋が? たしかにちょっと胡散臭くはありましたけど」

「弥生。今から言う事をよく聞いて」

 私たちは死ぬチャンスを棒に振った。じきに回収員が現れるだろう。時間はあまり残されていない。できることは限られている。

「私は死ぬ。これは絶対だ」

「うん」

「だから、私の首に手をかけて。私も、あなたの首に手をかけるから」

 すると、弥生は私を恐る恐る押し倒した。非力だったが、私もそれに抵抗しない。好都合なことに早朝だからか、人気はなく、道の真ん中で押し倒されても通報されるようなことにはならなかった。

 弥生の細い指が首にかかる。私も弥生の首に手をかけた。体勢的には弥生の方が有利だが、果たしてどうなるか。ぐっと力がかかる。

 男に殺されるのは嫌だった。それなのに、どうして弥生に殺されるのは不快にならないのだろう。それはたぶん、彼女が私と同類だからだ。実質的な自殺? 慰め合い? まあ、そんなところ。彼女に殺されるなら、本望でしかない。

 爪が食い込み、頸動脈が圧迫される。かひゅっと、息が漏れ出ると同時に、私の手は弥生の首を離れた。離したつもりはない。力が入らなくなったのだ。私こうなることを最初から予想していた。このままこの体勢が持続すれば、私の意識は落ち、弥生は生きる。彼女は私の真意を汲んで、手を離すかどうか本気で迷っているようだった。

「…………………無理ですよ」

 弥生は力を緩めた。私の体は望んでもないのに、呼吸を始める。

「ごめん。勝手なことをしたね」

 首がひりひりと痛みだす。これは確実に痕になるな、と思った。

 よく考えれば、なんで私は首を絞め合うなどという手段をとったのか。とても最善だとは思えない。焦って、動揺していたのか。冷静になれ、私。なにか他の方法が――。

「いいですよ。許します。でも、たぶん、これではっきりしました」

「……?」

「私たちは死ねない、って」

 それは最終通告に近かった。私たちは死ねない。認めたくなかった。こんな形で終わることを。私は死にたい。何があっても、生きていたくない。その衝動は、もはや意地と言って差し支えないものだった。

「あの、よければなんですけど……生きてみませんか? 二人で。私は生きてみたくなりました」

 思ってもみない提案。悪くはない。が、良くもない。

 生きる? なんのために? 苦しい思いをして、嫌な思いをして。その先に何があるっていうの? 

「嫌だ」

 拒絶。たとえ弥生と一緒だろうが、嫌なものは嫌だ。

「そう……ですか」

 弥生は残念そうに瞳を揺らした。それを見て、ちくりと胸が痛む。そして、

 自分の行いを反省した。子どもっぽいのはどっちだ。わがままで折角の死ぬチャンスをふいにし、あげく提案を無碍にする。何をしたいのか、客観的にはさっぱりだろう。だが、それでも私の中には確固たる信念と、決意があった。してきたことが、間違いだと思いたくなかった。

「ごめん」

 私はせめてもと謝罪する。弥生はそれに応じることはなかった。

 いつまでも寝転がっているわけにはいかない。体を起こそうとした時、違和感に気づく。

 動かない。まるで自分の意志に逆らっているようだ。これは――。

「弥生?」

 彼女も同様に動かないようだった。石のように、私の上で固まっている。

 そこでピンときた。ああ、そうか。ゲームオーバーなのだな。私たちの願望は、ついに叶うことはなかった。こうなってしまっては、どうすることもできないだろう。最後のあがきとして、何度も逃げ出そうと脳が信号を送るが、やはり動くことはなかった。

「やあ、探しました。帰りましょう」

 間もなく、オレンジ色の制服を着た回収員が現れる。

 私の心の中に、ぽっかりと穴が空いた。




 この傷は勲章だ。かつて、世界に抗った証なのだから。


 朝支度をするついでに、首についた傷跡を鏡で眺める。

 あれから、私は死のうとすることをやめた。それに費やす時間が無駄であることを悟ったからだ。死はすでに贅沢品。どんなに願ったところで、手に入れることはできない。ちょうど不老不死が不可能なように。自死もまた、不可能なのだ。

 弥生との関係は良好だ。色々あったが、一度話し合えばお互いに理解しあうことができた。ここまでうまの合う友達も珍しい。やはり、根本的なところが似ているのだろう。

 今は真面目にメンタルケアを受け、二人とも順調に快復に向かっている。

 私は大学を目指すことにした。学業は疎かにしていたので、だいぶ遅れてはいるが、当面の目標だ。そのために、毎日コツコツと自習に励んでいる。

 目標があるといっても、どこか空虚なのは否めなかったが、それでもいいと思えるようになった。今死ねなくても、いずれ死ぬ。それまでの余興だ。

 よね婆とはめっきり会わなくなった。以前は同じ場所で暮らしているので、何度も顔を合わせる機会があったのだが、そういうこともない。普通に考えたら、もうここにはいないだろう。他界したのか、快復したのか。どちらにせよ、私は確認するような真似はしなかった。怖いのもある。ただそれ以上に、興味が薄れていた。彼女が死のうが生きようが、私には関係ない。自分でも冷徹だと思う。だが、あのような別れ方をされたら、誰でもそうなるのではないだろうか。

 テラス席で勉強していると、弥生がひょっこりと覗いてくる。

「わー。難しそうですね!」

「そうでもないわよ。やってみる?」

「いえ、遠慮しときます」

 苦笑いを浮かべる弥生。その顔を見るだけで、なんだか満たされるような気がした。

「あっ。そういえば私、明日退院することになりました」

「そう……おめでとう」

「ありがとうございます。その、寂しくないですか?」

「大丈夫よ。私ももう少しで退院できると思うし」

 経験からすると、もう半月もないだろう。外に出れると思うと、少し自由になった気がして、嬉しかった。毎回こんな感じだったろうか。たぶん、そうだ。晴れやかな気持ちで出て行った記憶がある。そのたびに、数週間で元に戻っていたけれど。だが、今回はそうはならない予感があった。ひとえに弥生の存在のおかげかもしれない。

「退院したら、会いに行くわね」

 住んでいる場所はすでに聞いている。今みたいに毎日会うことは難しいだろうが、たまに遊びにいくくらいなら可能だ。

「ぜひ! お待ちしてます」

 弥生はニコニコと笑った。あまりにも嬉しそうに笑うので、おかしくなって私も噴き出す。

 平和だ。何もない。穏やかで、満たされた時間。私は今度こそ、こういうのが永遠に続けばいいなと願った。もちろん、この世に永遠などない。だが、この関係がどこかで終わろうが、たとえそれでもいいと思った。恐れるより、信じることの方に価値を見出したのだ。


 生きるということは、存外良いものなのかもしれない。私は直前まで、そう思っていた。


 事件が起きたのはこの夜だ。

 弥生の心肺が止まった。そしてそのまま、数時間しないうちに息を引き取った。

 原因は不明。薬物の過剰摂取が疑われたが、医者たちはそれが不可能であることに絶対の自信を持っていた。それはそうだろう。本来なら、服毒自殺はチップに感知されるはずだからだ。すなわち、不明。誰もが首をひねらせていた。

 一方で、私はなんとなく予想がついた。ショックではあったが、彼女のことを理解することができたのだ。それは彼女が鏡の向こうの私であり、私もまた彼女の鏡の向こう側であったことを意味する。そう思い込むことによって、気を落ち着けたいだけかもしれないが――。この際、それはどうでもよいだろう。つまり、彼女は死のうとして死んだのではない。


 生きようとして、死んだのだ。

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終末の花園- Garden of The end - 朝比奈 志門 @shin_sorakawa

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