第38話 百の器と指切り
ザァーザァー
波の音が心地よく、照りつける日差しは暑く、吹く風は潮の匂い、見つめる先は水平線。
隣に座る俺とはがねは一旦バーナーの火を落として手頃な岩に腰掛ける。
風がパタパタと彼女のスカートをはためかせ、被っている麦わら帽子がそよりと揺れる。
彼女を見ているだけでラーメン3杯は余裕で食べられそうだけど、今は彼女の話を聞こう。
「ソウジは覚えとらんかも知れんけどね。昔、ウチと約束したっちゃん」
言葉にした彼女は別のノートを鞄から取り出す。それはとてもボロボロで何年も前から使われているように見える。
「これは?」
「小学生の時の日記」
小学生……俺とはがねが出逢った時のだろうか。その予想は正しくて彼女がパラパラとページをめくる。
「えーっと……あった! ねぇ、ここ読んでみ?」
「……わかった」
俺は彼女から渡されたノートを恐る恐る手に取る。なんだか触れてはいけないような気がしたけど彼女から
「ふぅ」
ひとつ深呼吸をして、もう一人の自分と向き合うような感覚で目を落とす。
7月30日
『パパのたんじょうびがもうすぐ。くらいうみでないてたら、おとこの子がたすけてくれた。なまえはカラカラソウジくん』
「これって……」
「うん、ソウジと出逢った日。次見てみぃ?」
7月31日
『ソウジくんとソウジくんのパパがラーメンをたべにきた。おいしそうにたべるので、ウチもラーメンをつくってソウジくんにたべてほしい』
これはぼんやりとだが覚えている。
8月1日
『パパにおねがいしてとっぴんぐだけやらせてもらった。ソウジくんはおいしそうにたべてくれた! えへへ。 いっぱいめ』
「……はがね」
「まだ、終わらんよ」
カタカタと震える手がノートを落としそうになる。だけど彼女の温もりが優しく包んでくれる。
8月2日
『きょうはヒカちゃんとふくつくんとなかよくなった。ソウジといっしょにとんこつヒーローになった。ウチのなかではソウジがいちばんのヒーローやけどね!』
パラパラと読んでいくと
8月29日
『あさってでソウジとおわかれ。さみしい。そうだ! 山で花をとってプレゼントしよう。きっとソウジはよろこんでくれるはず』
そこで日記は終わっていた。
恐らくこの翌日に事故が起きたのだ。
「8月30日。ウチはみんなを誘って山へ向かった。午後から台風が来ると分かっていたのに」
「…………」
隣のはがねが言葉を続ける。彼女の名前を呼ぼうとするが口を挟むなと瞳で告げられる。
「帰ろうと言ってくれたヒカちゃんの言葉も聞かず、ウチはどんどん奥に入る」
いつもの博多弁ではなくとても流暢な標準語で語る彼女は無機質な機械のようだった。
「不屈くんが持ってきた地図を頼りに、立ち入り禁止区域に入った所で雨が降ってきた」
そこからは孤立無援。
「暗くなって場所も分からなくて泣いていた時、ウチの責任だと思ってひとりで先に進みすぎた」
そこで足を踏み外し転落しそうになった。伸ばした手は空を切り、いつかの暗い海を彷彿とさせる。
「バシャバシャと凄い勢いで迫ってくる影がウチの手を引いてくれた」
それが……俺か。
「そしてそのまま引き上げようとした時、彼もぬかるみに足を取られ落ちてゆく」
善士の話と繋がるのか。
「ウチを目一杯突き飛ばした彼は暗闇に消えてゆく。あの時の……顔は……」
途端に彼女の声が振るえ始めたので俺はギュッと抱きしめる。
「大丈夫だから……な? 俺はここにいるから」
「うん……」
嗚咽混じりの吐息は、あの時の後悔の塊。
「じゃあ、次の日記を見せてくれるか?」
「……うん」
少し泣いたら落ち着いた彼女と一緒に、肩を並べてノートを開く。それは俺が持ち帰ったもの。
4月23日
『ソウジが帰ってきた。めっちゃ嬉しい!
だけどいつかホントの事を話さなければいけない 』
「日記では標準語なのな……ウケる!」
「もうっ! からかわんとってよ!」
ちょっとくらいイジワル言ってもいいじゃないか。
4月24日
『デコちゃんとヒカちゃん達に頼んでウチの情報を流してもらった。後は想い出の味を作るだけ。
その事実は予想してなかった。
「えぇ! はがねの担任の先生まで巻き込んでたのかよ?」
「うん。恋せよ乙女って言われた」
「それにお前……俺が来てから学校で作り始めたのか?」
「まぁね」
そんなドヤ顔で言われても。てっきり1年生の頃から調理室を独占してたとばかり……やれやれ、驚きの連続だよ。
4月29日
『ソウジが初めて調理室に来てくれた。ヒカちゃん達の話で分かってたけど、やっぱりウチの事は覚えていない。やけど大丈夫……記憶は忘れても味は忘れんけん! このラーメンが23杯目』
ラーメン……23杯。
その数字を見てから段々と鼓動が早くなる。
4月30日
『昨日の夜はソウジに裸を見られた。鼻の下なんか伸ばしちゃって男の子だなぁ。まぁわざとなんだけどね。ウチの腕の包帯を見てもやっぱり気付かない。それにあの指切りをしても……覚えてなかった。はぁぁぁぁぁ……ばかっ』
「はがね……もしかして……」
「気付いた?」
その日付の文章を読んだ後、この学校で彼女と出逢った時を思い出す。
ラーメンを食べて……銭湯で裸を見て……確かにあの時腕に包帯を巻いていた。それにコーヒー牛乳を飲んだ後に妙におかしな約束をした。
『嘘ついたらラーメン100杯おーごる! バリカタでっ!』
あの指切りは……もしかして。
「ねぇソウジ……今まで食べたウチのラーメンの数覚えとう?」
「はがねの……ラーメン」
数なんてそんな。
それこそ数えられないくらい食べたのだ。覚えている訳……あっ!
「小学生の時に食べたラーメンが22杯……」
まさか
「そしてこっちに戻ってきて食べたラーメンが……77杯」
つまり
「今、ソウジの体は99杯のウチのラーメンでできとるんよ?」
彼女はずっと
「そしてこれから作るラーメンが……」
覚えていたのか
彼女の顔が近づき俺との距離が限りなくゼロになる。お互いのおでこが合わさって、彼女の吐息が俺の肺に吸い込まれる。
俺もまた真実にたどり着く……
「「100杯目」」
その言葉を聞いて、俺は伝えるべき時が来たのだと決意する。
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