第3話 揺るがない精神

 銭湯での事件(ラッキースケベ)の後、俺は彼女に土下座をした。


 いくら緊急事態だったとはいえ、何も言わずに女湯に飛び出していくのはダメだろうと思ったからだ。もっとスマートなやり方があったと思う。


 夕飯作りから戻ってきた藤江ふじえさんに事情を説明したけど、何故だか笑ってばかりいた。それ以降はお客も来る事が無く暖簾のれんを片付けて本日の営業終了。


「まぁ……別に減るもんじゃなかやし、よかよ……他の人に言わんどけば」

「いや、減るもんじゃないっていうか……悪いのは俺だし、配慮が足りなかったって言うか……本当にごめん」


 彼女からの第一声は予想外のものだった。ドライヤーで乾かした髪はふんわりしていて、ピンク縁の四角いメガネをクイッと持ち上げながらそんな事を言う。


「到底コーヒー牛乳じゃ足りないと思う。だからなんでも言ってくれ……俺にできる事ならなんでもする」


 土下座姿勢のまま彼女の返事を待つ。


「別になんもなかやけど……」

「頼む。このままじゃ俺の良心の呵責が崩壊する」

「ぷふっ……言葉がめちゃくちゃでウケる……そやねぇ」


 しばらく考えた彼女はありきたりな内容を提案するのだった。


「また昼休みにラーメン食べに来んね!」

「え、ラーメン?」

「うん。ウチが作っちゃるけん」

「それなら今日約束したじゃん」


 昼休みが終わる時"またね"と言った覚えがある。だから明日も行くつもりだったのだ。しかし彼女は分かってるというように微笑むだけ。


「……何度言葉にしてもよかよ」


 声音を変えて告げられた言葉に俺は息を飲む。


「それだけで……いいのか?」

「それがいいと……わかった? カラカラ」


 全裸を見た代償がラーメン。それでいいのだろうか。その考えに至る前に彼女の指が俺の前に迫る。


「……約束の指切りやけん」


 桜色の肌が俺の指を絡めとる。そして彼女が唄うように口にした言葉はなんだか胸の奥に染み渡る。



「嘘ついたらラーメン100杯おーごる! バリカタでっ!」



「ぷっ! あっはははは……変な歌」


 さっきまで冷や汗をかいていたのに俺の口からは笑い声が出ていた。自分の声なのに他人のような……まるで第三者が横から見ているような感覚。そんな感覚の中、俺の言葉を聞いた彼女の瞳が一瞬揺れたような気がした。

 それは刹那に満たない間で、すぐに彼女も笑い出す。


「……約束やけんね。毎日きーよ?」

「あぁ……わかった。だけど今度は麺の硬さ、普通にしてくれ」

「なん言いようと! バリカタやけんうまいっちゃん! カラカラは分かっとらんねぇ」


 ぷりぷり怒るその姿は年相応なんだと理解する。噂は所詮噂でしかない……いや、噂というより陰口か。

 彼女の事をもっと知れたら俺の心も晴れるのだろうか。


「送って行こうか?」

「よかよか、ウチん家近所やけん」

「そっか……」


 断られた事を少し残念に思っていると藤江さんがやってきた。


「ハガネちゃん。これ持っていきー」

「わぁ、藤ばあちゃんありがとー。この煮物好いとーとよ」

「2人によろしくねー」

「うん! またラーメン食べにきーね?」

「はいよ」


 筑前煮ちくぜんにが入ったタッパーを持って帰る彼女を見送り、俺は藤江さんと一緒に自宅へ戻る。


「あの子……近所なんだ」


 俺の呟きに一時の時間を置いて藤江さんは優しく微笑む。


「そやね。ここからワンブロック離れた所に住んどるよ」

「ワンブロックって……」

「ハイカラやろ? なっはははは」


 かんざしをカラカラ鳴らしながら小粋なジョークを飛ばしてくる。それが可笑しくて俺も笑ってしまう。


 あぁ……今日1日で一生分笑ったかもしれない。


 心にチクリとした痛みが走る。それを振り払うように箸を持って、いただきます。


「今度……ハガネちゃんの両親の店に行ったらよか」

「うん……でも、明日もラーメン食べるって約束したから。当分はアイツに付き合ってやるつもり」

「……そか」


 無言で頷く藤江さんは少し寂しそうな顔をしていた。俺はそんな顔を見たくなかったので、藤江さんが旅館で働いていた頃の話を振って会話を続ける。



 ………………

 …………

 ……



 翌日も俺は扉を開ける事になる。とんこつラーメンの匂いのする扉を。


 コンコンッ


細川ほそかわさん、居る?」


 昨日の教訓を活かしてノックをする。すると元気がいい声が聞こえてきた。


「カラカラ? 開いとーよ!」


 その声を聞いて少し安堵する。昨日の出来事があったので嫌われているのではないかとヒヤヒヤしていた。


「う、うっす……その昨日は」

「もうよかってば! ウチまで恥ずかしくなるやんか」

「そ、そうだな……すまん」


 この話はこれでお終いというように彼女は鍋の方へ向かっていく。


「ねぇカラカラ」

「ん?」


 いたたまれなくなった静寂を破るように彼女は一際大きな声で俺を呼ぶ。


「カラカラってなんでそんなに細いと?」

「え、細いって?」


 彼女の言葉がわからず聞き返す。


「体たい体! バリ細かやん。向こうじゃそういうスタイルが流行っとーと?」

「あ、あぁ……体ね……体」


 彼女としては何気ない会話だったかもしれない。だけど俺にとってはあまり触れられて欲しくない話題だった。だから敢えて嘘を言う。


「俺、食べても太らない体質なんだよ」


 無理に作った笑顔が痛い。きっとこの痛みは心の痛み。だけど彼女には違う意味に捉えられたようで……


「なんそれバリむかっ! アンタそれをこんないたいけな美少女の前でよーゆーたね」


 ぷりぷり怒りながらも、しっかり湯切りしているのは凄いと思った。


「自分で美少女って言うか? 普通……」


 呆れ顔の俺に彼女は勝ち誇ったように胸を張る。まぁ、張っても変わらないけど。


「自分ぐらい褒めてもよかやろ」


 湯気の奥の彼女の姿が一瞬霞んだような気がした。しかしそれも一瞬で、次の瞬間には俺の目の前に器が置かれる。


「出来たよカラカラ」

「お、おう……ありがと」

「ん!」


 満足そうな彼女と一緒に向かい合わせに座る。全く不思議な事もあるもんだ。出会って1日や2日の女の子とラーメンを啜る事になるとはね。


「手を合わせて下さい」

「合わせました」

「いただきます」

「いただきます」


 アレ? 俺はなんでこんなにすんなりと言葉が出たのだろう。彼女につられてなのかな……少し懐かしく思う。


「はよ食べんね。伸びるよ」

「あ、あぁ……そうだな」


 考えるのは後でいいや。目の前の彼女に倣って俺も麺を啜る。


 ズゾゾゾゾゾゾッ



「ご馳走様でした」

「はい、お粗末様たい」


 食べ終わっても尚、彼女の好奇心は満たされない。


「ねぇカラカラ」

「今度はなんだよ」

「東京以外はどこにおったと?」


 もしかして俺の事を調べたのだろうか。転勤族で長くても1年と同じ場所に住んだ事はない。まぁ、これに関しては隠す必要もないか。


「東京以外で言うと……北海道、宮城、茨城、千葉、あとは奈良と京都……それに大分と鹿児島にも居たな」


 それ以上あるかもしれないが、俺は知らない。短期間で日本一周をした気分だ。


「バリすご! 伊能忠敬みたいやん」

「伊能忠敬って……なんか微妙な例えだな」

「ウチほとんど福岡から出らんけんね。もっと他の事聞きたかったちゃん」


 ラーメン茶碗を一緒に洗いながら各地で美味しかったものをツラツラと話す。それでやっと落ちついたのか、今度は鼻歌を歌い出す。


 自由なやつだな。


 ふと気になって、俺は彼女の確信に触れる質問をしてしまう。それは興味本位か……もっと彼女の事を知りたいと思いたかった俺の好奇心か。


「なぁ細川さん」

「なん?」


「細川さんって、なんで虐められてるんだ?」


 無神経だったかもしれない。だけど昨日と今日一緒に過ごして思った事は、彼女は優しいという事。そんな彼女が虐めの対象になるなんて……いや、誰にでも優しいから敵を作るのか。


 そんな俺の言葉に彼女は予想外の言葉を口にする。



「はっ? ウチ虐められとーと?」




「……………………え?」




 これから先、彼女と関わっていく内に嫌でも分かる。彼女がどんな性格なのかを。

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