第25話 其は闇より来たり 1
───それは昏い昏い海の底。世界の漂う場所、幽海の果て。世界の骸を貪り喰らうモノがいた。
それそれはちっぽけで、その体躯に定まりはなく、昏い水底をただ喰らうという意志のみを見せ揺蕩う。
数多の骸を喰らいその身を肥したソレは、いつしか一つの世界を飲み込むほどの大きさになっていた。言葉はなく思考もなく、ただ喰らうためだけに揺蕩っていたソレは、その腹を満たす新たな餌を求め幽海を泳ぎ始める。
そうして一つ、また一つと世界を喰らい、尽きぬ食欲に突き動かされ、ソレはやがて辿り着く───
───世界は幸せであった。
決して世界は、人々がただ女神の慈愛を享受するを良しとはせず時に試練を与えたが、彼らはそれを力を合わせて乗り越えていった。
そんな彼らは海の見える丘に町を作った。女神を称える小さな教会をつくり、それを中心として、そして名をアーズィンとした───
───それは唐突だった。
星降りの次の日突如として空が割れ、大地が沈む。世界を闇が覆い、人々は混沌の中へと叩き落とされた。降り注いだ星々から人が生まれ、昨日まで見ていた景色は見知らぬものとなった。
世界の裏側、世界の漂う海から来たソレは、世界を喰らわんと闇で包み込む。
しかし、それを女神は許さなかった。
世界に喰らいつく闇の悉くをかき消し、その光で大地を照らす。混沌に呑まれた人々も己を取り戻し、武器を持って戦った。
数多の記憶と姿を飲み込んだ世界は割れ、混じり合い、境界を曖昧にさせ、歪なつぎはぎの大地に成り果てた。それでも女神は世界を守り抜いた。いまだ闇をもたらすソレは世界に巣食ってはいるものの、もはや以前ほどの力など持ってはいない。
しかし、女神もただでは済まなかった。その身は満身創痍であり、いずれ消えてしまうだろう。
それでも女神の願いは一つ、彼らの幸せが終わらぬこと。そして───
───世界を喰らう闇の恐怖は、女神の力で封じ込められた。
しかし、全て終わったわけではなかった。
女神がその身を賭して世界を繋ぎとめたものの、いまだ世界は不安定だった。飲み込まれた世界の記憶が突如蘇り、かつての場所を飲み込みあるいは別の場所へと追いやる。
多くの星人は自らその地に足を踏み入れ、その力を持って謎を解き明かした。
時が流れ、いくつかの街も呑まれ、飛ばされて、そして記憶を語る者が居なくなろうとも、人々の暮らしは変わることなく続いていた───
「ああ、来たのですね」
ユラユラと、青い炎が揺れる中、一人の女性が小さな声でそう呟いた。
石の床に膝をつき、祈りを捧げるその姿はまさしく聖職者といった様子ではあるが、その格好は異様だ。
着ているのは修道服ではあるが、拘束具を思わせるようなベルトがあちこちに巻かれてあり、その体を祈りの姿勢へと固定している。首輪からは二本の鎖が伸び、それは床へと固定されている。完全に覆われた彼女の瞳は、何を見ているのか窺い知れない。
そんな姿でありながら、やつれた姿などはなく、むしろ健康的にも見えた。伸ばされた長い髪が床についているが、暗さゆえその色はわからなかった。
格好も異様ならば、場所も異様だ。
あかりは薄暗い青白の炎一つしかなく、その炎で晴らされた闇は彼女の周囲のほんの少しのみだ。空間をを飲み込む闇と静寂はその全容を黙して語らない。
彼女の正面にある小さな杯で燃えている炎は、不安定に、時折強くまた弱く火勢を変えゆれている。
彼女は何も見えないはずの目を、たしかにその炎へと向けていた。
そして、まるで語りかけるかのようにゆっくりと口を開く。
「竜の子も来られるようですね。すこし、昔のお話ができるでしょうか」
祈りを捧げる姿のまま身動ぎもせず、少しだけその口角を上げた。
彼女の言葉に答えを返す者はこの場にはいない。しかし、それでも彼女の口は止まらない。
「ふふふ、ええ、たのしみです」
笑みを浮かべる彼女の周囲を包む景色が、わずかに揺らめく。
そしてずるずると、まるで生きているかのように闇がたしかに蠢いた。ソレは何かを探すように空間を動き回りつづける。決して炎に照らされた場所に近づくことはない。
祈りを捧げる女はそんな闇のことを気づいていたが、気に留めることもなく微笑みを浮かべたままだ。
「どうか、世界が、良き道を歩まんことを」
より深く、彼女は祈りを捧げるのだった。
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