狩人の決意

 それは、若者が周明の部屋を訪ねてから4月になろうかという頃のことである。

「おい、貴様の言う、願いとやらに限りはあるのか?」

 部屋を訪ねるなり口を開いた周明に、一時は瞠目した若者であったが、数秒後にはいつもの慇懃な笑顔を作っていた。

「数ということであれば、一度限りです」

「では、一度限りであれば、何でも叶うのだな」

「あまり無茶を言われましても、期待に添えかねることはあります」

 詰め寄る狩人を両手で制して、若者が続けた。

「これは、あなたの命が理に因らず失われることへの、埋め合わせなのですから」

「ふん、無茶な願いでは、俺の命と釣り合わぬか」

「そう意地の悪いことを言わないでください」

 いつにない狩人の勢いに押されて、若者の額を汗が走った。

「あなたが、本来の一生をかけても稼ぎ出せない大金などは、こちらとしてもお出しできないというだけです」

 周明は言質を取ったことを確認すると、満足そうに頷いて若者に詰め寄った。

「ならば問題は無い。願いが決まったぞ。今すぐ叶えて見せろ」

 若者は、来るべき時が来たと、いよいよ目を見開いてこれに答えた。

「そうですか。それは此方としても、喜ばしいことです。それで、何をお望みですか?」

「力をよこせ」

「はい、力……力をですか?」

 狩人の答えが要領を得ない為か、その意外さに因るものか、一時言葉を失った若者であったが、当の狩人の目に戯れの色は見られなかった。

「そうだ、この地で並ぶものの無い程の力を俺によこせ!」

 貫くような眼光と共に、狩人が更に詰め寄る。

「それは、狩人としてより高みを目指したいと、そういうことでしょうか」

「俺の腹積もり等、今更問題にしても仕方あるまい。願いは伝えたのだ。どうだ、出来るのか、出来ぬのか!?」

 周明は語気を荒げると、若者の襟首を掴んで締め上げるように持ち上げた。

「分かりました、分かりましたとも……」

 息苦しそうに若者が答えるのを受けて、ようやく狩人も彼を解放した。

「あなたを、この地で並ぶものの無い弓取りにしてみせましょう」

「ふむ、その言葉に、偽りは無いな」

「ええ、有りません。あなたは、今まで見たことも無いような大物だろうと仕留められる、天下一の弓とりになりました」

「ふん、特に何も変わっておらんようだがな……」

 冷めた目でこちらを見下ろす狩人に向って、若者は咳き込みながら首を振った。

「そういうものなのです。明日、狩りに出て御覧なさい。きっと獲物の方が遅く、弱く、あなたの目に写るはずです」

「成程。それだけ分かれば十分だ」

 周明は若者の言葉を聞いて大きく頷くと、深呼吸を一つ挟んで弓を持ち、長屋の戸を開け放った。

「何をなさるのです? 狩りなら、明日行けば間に合うでしょう」

「いいや、間に合わんのだ。朝になれば、人目に付く」

 未だ要領を得ない若者を置いて、狩人が闇の中へと飛び出していく。

「お前の担保では心許ないが、無いよりはましだ。役所に突き出すのは勘弁してやる。残りの人生、精々真っ当に生きるのだな」

 闇に解けたその姿は最早若者の目には映らず、夜の城下町に、狩人の声だけが木霊していた。


 長屋を飛び出した周明は、脇目もふらず城下町を走った。

 その背には長年仕事に用いてきた弓が負われ、その腰には、狩人の装束には不似合いな剣が下げられていた。

 狩人は、自らの足を動かすものが、義侠心ではないことを知っていた。

 彼が走るのは、こうするより他に、自らの命を生きる術が無いことを知ったからであった。

 狩人は、自分が世間から逃れて、あの長屋に逃げ込んだのではないことを思い出した。

 己の中に燃える報われるべき善意が、いやそう思い込もうとしていたものの本質が、その実攻撃的な悪意であることを自覚した。

 彼はこれまで、彼の理想を嘲る世間から、目を背けて断絶していたのではない。

 世間を嘲るために、彼の理想を生きてきたのだ。

 今更、逐電などできるか。

 今更、欲を覚えることなどできるか。

 失うための何かなどいらぬ。

 ここに命を残してやろう。

 俺の命を生きてやろう。

 城下を疾駆する狩人の、振り乱された髪を追うようにして吹く風には、呪詛のような狩人の声が乗っていた。

 これは何も、若者の言葉に唆されて自棄になったものではなかった。

 残りが三月でも三十年でも、彼は彼自身を生きねば同じであることを悟ったに過ぎなかった。

 決意を固めた周明の目が、闇の彼方に王城の明かりを捉えた。

 門番を認めると、走りながらその人数分だけ矢を番え、立て続けに放った。

 四人の門番は正確に喉を射抜かれて、音も無く次々に倒れ、その最後の一人が崩れ落ちる時には、既に狩人は壁に縄をかけ、よじ登っていた。

 壁の内側に居た歩哨は壁の上から矢を射かけ、矢の残りが少なくなると、射抜いた歩哨に忍び寄って、喉元に刺さった矢を引き抜いて次を射た。

 目立った歩哨を一通り片付けると、足音を殺して中に入り、共の居ない侍女が通りかかるのを待った。

 そうして手頃な相手を見つけると、その背後から忍び寄って組み伏せた。

「騒ぐな。大人しくすれば命は取らん」

 周明が血糊の付いた鏃を喉に突きつけると、侍女も観念して静かに頷いた。

「王はどこだ。方角だけで良い。指で示して教えろ」

 侍女が恐怖で気を失う寸前、震える指で指していた方角を確認すると、狩人は再び走り出した。

「どうしたことだ、俺は本当にこの地で一番の弓とりにでもなったのか」

 あるいはこれは腹の据わった人間のなせる、不可思議な力であったのかもしれない。

 今宵狩人の撃った三十の矢は、その尽くが、吸い込まれるように獲物の喉を捉えていた。


 王の寝室の前には、6人からの兵士が詰めていたが、その内4人までは周明の矢に倒れた。

 残り二人の内一人は、突然の夜襲に狼狽したまま、周明の剣に抜き打ちで切られた。

 我に返った最後の一人と三合ほど打ち合い、左腕と引き換えに首をはねると、狩人はとうとう王の寝室の戸を蹴り破って中に入った。

「何だ。何者だ!?」

 王は恐怖とも嫌悪とも付かない顔で、目の前に立つ手負いの狩人を見た。

「教えてやっても良いが、死人同士で身の上を気にしたところで、仕方あるまい」

 狩人は左腕の痛みを払うように、片手で剣を構え直した。

「何と、狂人の刺客か。王を殺せば、その罪は三族にまで及ぶぞ」

「もとより俺に妻子は無い。罪が親まで及ぶというなら、それも良いだろう。あの父母が俺を罵るのか、それとも俺に謝るのか、見れぬことだけ残念だ」

「最早話も通じぬか。貴様のような狂人に殺されてやるために、奪った玉座ではないわ」

 王は寝床の脇に隠してあった剣を抜き放つと、周明に切りかかった。

 片腕の周明には、その剣戟を受けるだけの力は最早残されていなかったが、その目だけは爛々と輝き、己の勝機を疑っては居なかった。

 王の剣が周明の体を腰まで切り下ろしたその時、周明の剣も王の心臓を正確に刺し貫いていた。

「ふん、あの若造はやはり狂人だったか。二月も寿命を計り損ねおった……」

 狩人はそう呟くと、たった一度だけ鼻で笑い、それからもう二度と動くことはなかった。

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