天の理

 若者はその後も、律儀に七日おきに、狩人の長屋を訪れ続けた。

 変わらぬ返事を聞いては、すぐ退散する若者の姿に、じきに飽きて沙汰も無くなるだろう、等とたかを括っていた周明だったが、若者の訪問は一月経っても止むことは無かった。

 いつしか、狩人の長屋からは、七日に一晩、錠を下ろす音が聞こえなくなっていた。

 周明の住む国で政変が起こったのは、その更に一月後のことである。

 王の弟か、はたまた外戚かが、その位を簒奪したという噂であった。

 城下街の外れに住む狩人にとっては、税を納める相手の名前が変わるだけのことで、元々顔も知らぬ王が誰に変わろうと、何の問題も無いはずであった。

 はずと言うのは、その税の額に問題があったからである。

 平生何事にも動じない周明も、このときばかりは眉を動かした。

 普段であれば、税については近隣に獲物を売った金をこれに充てるのだが、その近隣に金を出す余裕が無くなるほどの重税ともなると話は別だ。

 僅かな蓄えを切り崩して、日々を凌ぐより他、周明に打つべき手は残らなかった。


「……お前の言う、その天帝とやらは何者か」

 若者に対し、周明がそう投げたのは、この地を捨て逐電しようかと過ぎった晩のことである。

「気になりますか?」

 狩人の興味を歓迎するように、若者は微笑んだ。

「噂では、ここの王が変わったとのことだ」

「そのようですね」

「以前の王は、君子とは呼べぬまでも、今のような暗君ではなかった。天帝は何を思って、王を変えた?」

「なるほど、そういうことですか」

 大きく頷くと、若者が再び笑みを浮かべる。

「お答えします。天帝は、何もしておりません」

「ふん、それではこれは、天意ではないと言うのか。貴様の天帝は、余程の不精か無能だな」

 いずれそんなところだろうと、狩人が鼻で笑うと、若者は慇懃に一礼して話を始めた。

「王が変わったのは、王が死んだからです。王が死んだのは、弟君の剣に貫かれたからです。これは全て人のなしたことで、天の斟酌するところではありません」

「徒に王が死んで、暗君が立つ理不尽を、捨て置いたから不精だというのだ」

「これは異なことを仰る。あなたは、徳の低い人間に剣を振るわれても、傷を負いませんか?」

「……どういう意味だ?」

「剣で切られれば怪我をし、酷ければ命を落とす。理と言うのは、こういうものです」

「呆れた奴だ。暗君の剣に、王が倒れることが理か」

「よく考えて御覧なさい。いくら清廉潔白に生きてきたからといって、剣で刺されて死なぬ人間がいるのでは、そちらの方が、余程理不尽ではないですか」

 若者の言葉には、狩人の胸に深く刺さるものがあった。

 金のために道理を捨てることを嫌い、家を出たあの時、若い周明の胸の内には報われるべき善意がしかと滾っていた。

 その気持ちも、或いは父のものと形を変えただけの、不条理だったのではないか。

「天がお作りになったのは、この理です。人も物も、理にしたがって動くのであって、天が動かしているのではありません」

「随分と救いの無い話だな」

「人を救わねばならないというのは、人の定めた法に過ぎません。天帝の理とは、別のものです」

「……もういい。十分だ」

 若者の言葉を真に受けて始めた話でこそ無かったが、今の狩人にとって最早これは、信じられぬ話ではなく、信じてはならぬ話であった。

 父に背き、母に背き、友に背き、そうして手にした己の正義が何者にも報われない等、あってはならないことであった。

「話はそれだけだ。さっさと帰れ」

「分かりました。それではまた七日後に」

 出て行こうとする若者を見送ることもせず、周明は背を向けたままそれを聞いていた。

 いつもと同じ振る舞いではあったが、この日周明は無頓着ゆえではなく、意図して若者を眼中に置くまいとしていることを自覚していた。


 若者と僅かに語り合ったあの夜以来、周明は己の望みについて、深く考える時間が増えていた。

 得るものは少ないが、失うものも無い。

 その釣り合いの中で、昨日と見分けの付かない今日を送り、今日と見分けの付かない明日を迎える。

 そのような人生を送ること、そしてそれに満足できる自らであることが、狩人にとっての幸福であり本懐であった。

 しかし、あの夜の若者の言葉が、その幸福感の裏面にある、報われるべき己の善意に、抜き去り難い棘を残していた。

 形のあるものでなくとも、それを持ち続けることで、何か報われることがあると信じればこそ、周明は狩人となり、己の心を濁さないよう生きてきたのである。

 亡国の商人が古い貨幣を捨て、極楽の無いことを知った僧が破戒に走るように、今周明の中では、己の寄って立つ柱のようなものが大きく揺さぶられていた。

 いっそそれならば、金なり宝なり、目に見える幸福らしきものを追い求めてしまおうか。

「厄介な狂人に付き纏われたものだ……」

 周明はその度首を振って一人毒づいたが、これは何も若者のせいだけではなかったのかも知れない。

「これでは、失うために何かを得ようとしているようだ」

 これは施政が変わって苦しむ民草の総意であって、今の時分、外を少し出歩けば五回は耳に入ってくる決まり文句の類に過ぎなかったが、周明の耳には、皆が自分にそう言い聞かせているかのように聞こえた。

 あの若者のことなど取り合わずに、半年というなら半年過ごしてしまえば良い。

 実際にこの二ヶ月、狩人はそう思って日々を過ごしてきた。

 しかし、これからもそれを続けていくためには、もう一つの現実と己の心とに、どうしても折り合いをつける必要があった。

 すなわち、自らの人生の意義と、差し当たり必要になる金を手に入れなければならなかった。

 一方で、若者の言うことを信じ、それが本当で、結果として自分が望みの何かを得たとすれば、自分の悩みは消えるかも知れない。

 若者の言葉が全て真実ならば、必要な金も手に入り、最早人生の意義も問題ではなくなるのだ。

 しかしその全てが本当であれば、己の命は後三月ということでもある。

 晩年になって自説を曲げ、欲を抱えたまま意義も持たぬ三月を送り、朽ち果てていくのは、今の周明にとっては、耐え難い人生の敗北と言わねばならなかった。

 あるいはそうなれば、自分は敗北とも思わずに死んでいけるのかもしれなかったが、それはそれで周明にとっては気味の悪い話に違いなかった。

「このままでは、誰の人生やら分からないな……」

 外の通りから飛び込んだ町人の不平に、周明は深々と頷いた。

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