狩人の過去

 都でも有数の豪商として知られた周家の嫡男が、鳥獣と戯れる今の生活を選んだのには、少々の事情がある。

 彼自身、自らの来歴を語る時には『つまらない話だが』と枕に置く事を忘れなかったが、要するに、彼は金のために理を曲げ、無理を通す商人としての生き方が理解できなかったのだ。

 若い内は、世の理不尽に義憤を抱く数人の友人を得る事も叶ったが、その友人達も年を経るにつれ、結局は成熟の名の下、そうしたものにさほどの抵抗を覚えなくなっていった。

 そうして、未だ不条理に抗う若者を見下すように、段々と変わっていったのである。

 あるいは本当に彼が受け入れられなかったのは、そうした友人達の変わり様であったのかも知れない。

 とにかく世を儚んだ周明は、そうした一切から距離を置く生活を志したのだった。

 金が無ければ生きられないような暮らしをするから、金を盾に道理に背くようなことが罷り通るのだ。

 そう考えた彼は、弓の腕を磨き、狩人となった。

 一時は坊主になることも考えたが、彼にしてみれば金に生かされることも神仏に生かされることも、さほどの違いを感じなかった。

 金に生きるものは金に縛られ、神に生きるものは神に縛られる。

 何にも縛られぬためには、生きる糧を自分で得るより他に無い。

 幸いなことに、弓に関しては人並以上の才覚を持っていたため、獲物を取るのにも、さほど苦労はかからなかった。

 豊かな暮らしでこそないが、これこそが我が天職、と心安く日々を送っていたのである。

 しかし、件の奇妙な若者との出会いが、その周明の心に取り去りがたい棘を残した。

 命と引き換えに叶えられるという、自分の望み。

 欲の類を殊更避けるように生きてきた彼にしてみれば、これまで意図して避けてきたものを無理やり押し付けられたように感じられて、願いの中身を云々する以前に、まずそれが不快であった。

 翌日、彼は少し多めに獲物をとって帰り、いつものような物々交換ではなく、金銭と取り替えることを近隣のものに求めた。

 隣人達は、一応年末や法事を初め、年に数回程度はそのような日があることを心得ていたので、珍しく思いながらも大人しくそれに応えた。

 そうして得た金を持って、周明は久々に近所の酒屋に足を運んだのだった。

 酒にも煙草にもさほど縁の無い狩人だったが、この日ばかりは、胸にかかった不快を払うのに、酒の力を借りるより他無かったのである。

 頭を低くしながら中に入ると、店主が目を丸くしながら応接した。

「はあ、これはめずらしい客だね。お神酒の時期には、まだ早いと思うんだがね」

「今日はただ飲みに来ただけだ。何かまずかったか」

「いや、まずいって事はないんだが……」

 周明の方は半分冗談のつもりだったが、きまり悪そうに苦笑する店主の顔つきは本当に具合が悪そうだった。

「絶対に女だ!」

 奥の個室から無遠慮に響いてきたのは男の怒声である。

「……客の喧嘩か」

「ああ、いつもと言えばいつものことだが、あれは少し酒癖が悪くてね。折角来てくれたのに悪いが、こいつは家で飲んだ方が旨いだろうな」

 店主は店の奥からどぶろくの入った徳利を一つ取り出して、金と引き換えに周明に手渡した。

 周明としても、酒が飲めるのなら文句は無かったし、やはり人前で酔うのは格好が付かないのではないかと逡巡していたところだったので、渡りに船ということにして徳利を受け取った。

「何を言ってる、金に決まっている!」

 奥から聞こえる怒声がいよいよ勢いを増している。

 周りの人間はああして賑やかに酒を飲むのかと思えば、少し寂しくもなった狩人だったが、若者の姿を連想させる甲高い声を聞いていると、どうも混ぜて貰おうという気にもなれなかった。

「本当にすまんね」

 頭を下げる店主と怒声に追いやられるように、周明は店を後にした。

 家までの道中、徳利の中のどぶろくだけが、周明の歩みに応えて音を立てていた。


 件の若者が周明の長屋を訪ねたのは、果たして予告通りの晩のことである。

「何か望みは決まりましたか?」

 若者は部屋の隅に置かれた徳利を見て少し眉を動かしたが、それには触れず本題に入った。

「無い。欲の類は、捨てることにしているのだ」

「そうですか」

 吐き捨てる狩人に慇懃な一礼で答えると、そのまま若者は踵を返した。

「それでは、今日は帰ります」

「何だと?」

 今日は早々に引き返すのか、と続けそうになったところを、周明はどうにか飲み込んだ。

「また来るつもりか?」

 元々長居させたい客でないことを思い出した狩人が、変わりに投げた問いであった。

「次は七日後です。私はこれから七日おきに、こちらを伺います。もしも気が変わりましたら、その時に仰せ付けてください」

「頼んで来て貰ったわけでもない。今日が最後でも、俺は一向に構わん」

「失礼します」

 背を叩く憎まれ口を気にも留めず、若者はそのまま夜の闇に消えていった。

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