或狩人の物語
織部文里
狩人と若者
ある夜、狩人の周明は戸を叩く音で目が覚めた。
夜といっても、宵の口ではない。
既に月は高く上っている。
「何だ、何者だ!?」
体を起こした周明は戸に向かって問いかけたが、ただ叩く音が返るばかりである。
眉間に僅かに皺を寄せながら、これは長屋のものではないな、と周明は心の中で呟いた。
城下町の長屋に住むこの狩人の生活は、日頃から判を押して回ったように一様である。
日が昇る少し前に家から出て、近くの森で手頃なウサギや鳥を見つけては、自作の弓で狙い打つ。
腕は確かで、射掛けられた鳥は矢が胸に食い込む一瞬、甲高い鳴き声を挙げて地面に落ち、後はぴくりとも動かない。
獲物は、いつもは自分が食べる分だけ捕り、少し余計に捕まえた日は、近隣のものと折衝して米や野菜に交換してもらう。
そうして必要なだけの鳥と獣を取ってきたら、後は家に帰って日が暮れるまで道具の手入れを続ける。
日が暮れれば捕まえてきた獲物と、近くの農家で分けてもらった野菜のへたで慎ましい夕食を取り、日が沈む頃には床につく。
これをもう十年ほども繰り返しているので、周りの人間もすっかりそれに慣れている。
毎朝近くの森から上がる鳥の甲高い声がときの代わりになるからと、鶏を飼わなくなった家もある。
特別深い付き合いがあるわけではないが、十年来の経験で、この頃合になれば、自分が寝ていることは長屋のものなら皆が知っているはずである。
それをわざわざ訪ねてくるのだから、これはもう尋常の用事でないか、さもなくば尋常の客ではない。
「えい、何者だと聞いている!」
一度目より語気を強めて、弓を右手に周明が再び扉に問いかけた。
「そう怖い声をあげないで。ひとまずここを開けてください」
すると、戸の向こうからようやく返事が返ってきた。
怒鳴り声に気圧されたふうでこそなかったが、ひとまず悪意のなさそうなその声に、周明の緊張も幾分か解けた。
弓を握り締める右手の力を少しだけ緩めて、周明が戸を開け放つと、はたしてそこに立っていたのは二十そこらの若者であった。
「……いや、夜分に失礼」
失礼と言いながら悪びれる様子もなく、若者は周明に笑顔を向けた。
「このような時間に、一体何者が何の用事だ」
相手が丸腰であることを確認して弓を置いたものの、この狩人の眉間にはまだ皺が残っている。
「ふむ、そのことですが、先に断っておかなければなりません。私は用事も身分も普通ではないのです」
「普通でないことは、こちらにしても見当の付いていることだ。いいから早く言え」
「分かりました。実は、私は天帝の使いでここに居るのです」
「なに、今天帝と言ったか!?」
見開かれた両目のせいで、周明の眉間には先程と違う模様の皺が生まれていた。
なるほど、普通の客ではない。
これはいわゆる狂人と言うやつだ。
今日のところは、適当に話を合わせて追い返してやろう。
これから先も付きまとうなら、役所にでも連れ込む他なさそうだ。
「それで、その天帝の使いが、この狩人に何の用なのだ?」
心でそのようなことを念じながら、再び周明が若者に問う。
ひとまず話を合わせようとするその口調には、先程のように問い詰めるような厳しさは抜け、代わりにどこか目の前の若者を嘲るような色が混じっていた。
「ええ、そのことなのですが、大切なことを伝えに来たのです」
「ほう、大切なこととは」
「今年で尽きてしまう、あなたの寿命のことです」
しかし若者の言葉で、狩人の顔色は三度変貌させられてしまった。
眉間によった皺の形をまた変えて、周明が若者に詰め寄った。
「それではおまえは、私が今年中に死ぬというのか?」
「はい、今は夏の盛りですので、もう半年ほどの命です」
若者が飄々と言い放つ。
「馬鹿馬鹿しいことを。無害であれば捨て置いても構わなかったが、これほどの狂人とは思わなかった。今すぐ役所に連れて行ってやる」
「なるほど、そうでしょうな。あなたがそう言われるのも無理からぬことです」
狩人の顔の皺に、わずかばかり青筋の加わったことを認めた若者は、大きく頷いて見せると、指を一つ立ててこう続けた。
「一日だけ、私に時間を下さい。明日の夜、私はまたあなたを訪ねに来ます。私を突き出すというのなら、どうぞその時におやりなさい」
「待てと言うのか。しかし、何の意味も無いことだ。今日が明日になったからと言って、何ほどの違いがある」
さらに詰め寄ろうとする周明を押し止めるように、若者が答えた。
「私を信じてもらうためです。あなたには明日、小さな災いが三つ起こります」
「何だと。貴様、この期に及んでまだ言うか」
「三つです。水に用心なさい」
最初こそ、眼の前の男は狂人だと決めて掛かっていた周明だったが、臆面もなく言葉を重ねる若者の顔を見ている内に、かえって自らの自信を削がれていく様に感じた。
それは、なんらの拠り所を持つものではなかったが、この男が自信を持っている分、己の方は弱気でその釣り合いを取らねばならないような気に、漠然とさせられたのである。
「良いだろう、待てと言うなら待ってやる。用はそれで終わりか? ならば、さっさと帰るがいい」
周明は、男に己の弱気を悟らせまいと、ことさら尊大に言い放って、家の戸を閉じた。
「私は明日きっとまた来ます。ゆめゆめ忘れずに居てください」
若者は閉じられた戸の向こうから周明へ暇を言うと、どこぞへと去っていったのだった。
翌日、狩から帰った周明は、道具の手入れをしながら昨晩のことを考えていた。
三つです。
水に用心なさい。
そういった、若者の言葉についてである。
「ふん、何を馬鹿なことを……」
そう独り言をこぼしながら、周明の目は草鞋と蓑とから離れようとしなかった。
念のためにと持っていった蓑は、果たしてにわか雨に打たれ、帰り道、打ち水をしていた長屋の住人の不注意に巻き込まれて、両の草鞋はしとどに濡れていた。
「……いやいや、何を恐れることがある」
さらに弱気に流れそうになった心を奮わせるように、狩人は頭を振った。
わざわざ水と言われたのでことさら気になっただけで、このようなことは何も珍しいことではない。
そもそも蓑と草履だけではまだ二つなのだから、これでは勘定が合わないではないか。
そもそもと言えば、あの狂人がまた訪ねてくると言う保証も無い。
あの不可解な予言も、いずれ役所に突き出されるのを恐れた狂人の、適当な逃げ口上だったに違いあるまい。
この通り、あの若者の言うことを否定する材料はいくらでも出ては来るが、そのたび、周明の頭に浮ぶのはあの自信に満ちた狂人の表情である。
「まあいい。今夜奴が来なければ、全ては狂人の世迷言だ」
「あぁ、すみません。これは、こちらの家のものでしょうか?」
中の狂人を追い出そうと左右に振られた周明の耳に、外からの声が飛び込んできた。
聞き慣れた声でこそ無いが、聞き覚えはある。
あれは、斜向かいか三軒隣か、とにかく近所の住人の声である。
慌てるような声色に誘い出された周明は、済まなそうに頭をかく町人から、侘びの言葉とずぶ濡れの薪を受け取らされた。
「すみません、井戸で水を汲んだ帰りだったのですが、そこで躓いて桶の中を溢してしまいまして……」
薪を見つめる周明の耳に、もう町人の声は半分も届かなかった。
変わりに追い出したはずの狂人の予言が、周明の頭の中で響いていた。
その日、薪が乾くのを待ってから火を起こした周明の夕飯は、普段より数刻遅れていた。
昨夜のように周明の家の戸が叩かれたのは、丁度その夕飯を終えた時分である。
「誰なのかも、どうして来たのかも分かっている。鍵などかけておらん。さあ入れ」
周明は殊更尊大に戸の向こうへ言い放った。
その態度の奥底には、動揺を悟られたくないという打算に加えて、狩人自身の自覚こそ無いがいつも通りの生活が乱された不機嫌が潜んでいた。
「それでは失礼します」
戸を開けて、若者が中へと入り込む。
「さて、もう夜も遅い。こんな時間に前置きも無いでしょう。昨日の話ですが、信用して頂けましたか?」
「信用というのは、あの与太話のことか」
「まるきりの与太話ではないことは、今日のあなたになら分かるはずです」
「水のことを言っているのか。ふん、あのくらいの事、重なる時には重なることだ」
「その通りです。しかし今日重なりました」
最初の内は、努めて強がろうとしていた周明だったが、男の自信に、またいつの間にか気圧されつつあるのを感じた。
「それで、お前は何をしにきたというのだ? 確か昨日は、私が死ぬとか言っていたな。不吉なことを言い散らして、死神の真似事をすれば満足か」
「ええ、実はそのことなのです」
嘲るような周明の声に、やはり男は真面目な顔で答えた。
「あなたが半年後に亡くなるのは、言わば天帝の手違いなのです」
「なに、今度は手違いだと。馬鹿を言え、手違いをせぬから天帝なのだ」
「失礼な物言いながら、あなたの信仰はこの際問題ではありません」
「なに……」
今に始まった失礼でもあるまい、と狩人が食ってかかろうとするのを、若者は真剣なまなざしで制した。
「更に言えば、私を信用して頂けるかどうかも、実のところ問題ではないのです」
「ならば何が問題だ? 私がお前を役所に突き出すために、隠し持っているこの縄が問題か?」
狩人の挑発にはまるで構わず、真剣な面持ちはそのままに、若者が続ける。
「私の役目はただ一つです。あなたの望みを、一つだけ聞くことです」
「なに、望みだと?」
「今日からあなたの亡くなる半年先まで、七夜に一度、私はこの家を訪ねます。望みがあれば、その時に聞きましょう」
「ええい、いい加減にしろ! 次から次へと勝手なことばかり言う奴だ。昨日は情けで見逃してやったが、もう捨て置けぬ」
「信じなくとも構いません。私の役目はこの話を伝え、望みがあれば聞くことです。あなたが私に頼むことなど無いというなら、それはそれで結構なことです」
気色だって片膝になった周明を制するように、男が続けた。
「私は約束どおり、今日この場に現れました。七日後の夜も、約束どおりに現れます。私を捕まえるのがあなたの望みだと言うなら、どうぞ、その時そうおっしゃいなさい」
「そうして昨日のように言い逃れる魂胆か。ならば言ってやる。七日も待つことはない。この場で神妙にして縄につけ!」
「そう言わず、まずは七日考えてください。本当にそれで良いなら、番所でも役所でも、私はこの足で向かいましょう」
「本当だろうな……」
周明は男を睨み付けたまま、暫くの間考えを巡らせていた。
男の言うことを真に受けたわけではない。
しかし、実際にこの男を縄で縛って突き出したとして、この男は一体何の罪に問われるのだろうか。
この今更といえばあまりに今更な疑問に、狩人はようやく辿り着いた。
男の言っていることは、まずでまかせには違いないだろうが、でまかせだとしてこの男がそれで得をすることもないのだから、詐欺の類とは違うだろう。
勿論嘘を付くことが良い筈は無いのだが、そんなことは日頃大なり小なり皆がしていることでもある。
それが具体的にどういう罪で、どのような罰が相応しいのか、そこが狩人には想像出来なかった。
それならば、今暫くこの狂人を自分に付きまとわせた上で、言い逃れの出来ぬ罪を犯したところで捕まえ、牢に入れてやった方が、後腐れも無く自らの溜飲も下がるのではないか。
しばし考えた末、この意地の悪い企みを頭に浮かべながら、狩人は頷いた。
「良いだろう。それなら、七日だけ猶予をやろう」
「分かりました。天帝に誓って、必ずまた伺います」
「手違いをする天帝など、誓ったところであてにはなるまいが、今晩だけは騙されてやる」
「どうぞ、よく考えて置いてください。何があなたの望みであるか」
二度、三度と頭を下げて出て行く若者を、周明が見送る。
その時、若者の口にした願いという言葉と共に、不意に狩人の脳裏に浮かんだのは、自分の父親の顔であった。
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