第5話 君を失いたくないんだ。




「ケーキ買って帰らないとな。」


リョウは腕時計を見てコンビニだな。とぼんやり考える。すると、


「ねえ。大丈夫?聞いてる?ねえ!」

と、向かい合って座っている女に注意され

「あー、ごめん。」と慌てて謝る。




なんか疲れたな。


まさか目の前の女の前で口に出すわけにもいかずリョウは心の中でため息をつく。

女と二人で来た夕食時の飲食店は家族連れや若い客のグループ。恋人のような二人組でほぼ満席に近い。

他の席から聞こえる手を叩いて笑う声や流れる音楽。照明の明るささえもリョウには疲れると感じる。

体は疲れているのに寝つきが悪く睡眠の質も悪い。仕事に支障をきたすので眠らなければと思うとますます目が冴えるのだ。枕元の置時計の音が耳につくので昨夜は電池を抜いた。


それにしても目の前の女の話はどうもさっきからずっと同じところを回っているように思えて仕方ないが、以前に堂々巡りだとほんの少し指摘しただけで「それが女なの。黙って聞いてあげるのが男の役目でしょ。タカシくんを見習ったら。」と叱られたことを思い出した。




声が聞きたい。

ストンと心に落ちてきた気持ちをリョウはもて余してしまう。




「今日ってこのあとどうする?」

グルグル回る話をひたすら聞いていると突然問われリョウはかすかに動揺する。このあとのことに動揺するのではなく、全く何も考えていない自分に動揺するのだ。目の前の女のことを何も考えていない。食事に行こうと誘われ断る理由がなかったので来ただけの話で、何も考えていないのだ。何も。気をつけていないと名前なんだっけとうっかり聞いてしまいそうになる。まずいなと最近思う。




「リョウくん?」

病院からの呼び出しの電話かと慌てて席を立ち携帯を見ると、久々に見る名前が表示されていた。




こんな声だっただろうか。

俺の名前はこんなに甘い響きだっただろうか。


リョウは返事はおろか、今自分が携帯を耳に当てていることさえも忘れ過去の記憶をさかのぼる。しかしそれはよくよく考えてみれば大げさに過去と言うほど大昔の話ではない。タカシが死んでからのほんの数ヶ月、たった半年ほどこの声をきかなかっただけ。けれど今この声を聞き、自分はその半年をとてつもなく長く感じていたことに気づく。もしかしたらもう二度と聞くことは出来ないかもしれないと心の片隅で思っていたことにはっきりと気づかされる。




「今日、タカシくんのお誕生日で。」

ソノコが小さな声でささやく

「あぁ。」

「タカシくんにあげてもらおうかなと思って。ごめんね連絡もしないで突然。どうしようか迷ったんだけど…やっぱりどうしても…」

伝えたいことがあるはずなのに言葉が出てこないリョウは携帯を耳に押しつけたまま黙っている。


続く沈黙に自分が不快感を与えたと認識したソノコは、最初から小さかった声を更に細め、

「本当にごめんない。ドアノブにかけさせてもらうね。ケーキ。今外でしょ?ごめんなさいお邪魔して。」

と、ごめんなさいばかりを重ねる。勝ち気でいつも大きな口を開けて笑ってばかりいたソノコが、タカシがいなくなったあの日からきっとごめんなさいばかりを繰り返してきたのだろう。リョウはどうしても胸がつまる。


「リョウくん、元気?ちゃんとごはん食べて体に気をつけてね。ごめんね。リョウくん。」

一方的に切れた電話をリョウは耳から離せず電子音をしばらく聞いていた。




食事のテーブルに戻ると向かいの女が、

「大丈夫?仕事?」

とたずねてくる。

「いや。」

手にしたフォークを持ち上げたまま動かずにうつ向いているリョウの顔をのぞきこむと再び女が「大丈夫?」と聞いてくる。

「いや、うん。言わなかったな。と思って。」

「え?」

「いや、なんでもない。ごめん。」

女になんとか笑顔を作りフォークに巻き付けたパスタを口に入れる。まずい。クソまずい。胸の中で苦く呟く。「隠し味が入ってるけど何なのかは教えない。」と鼻を高くして威張っていたソノコのつくるパスタを思い出す。




ノースリーブの細い肩。白い肌。タカシを見上げて笑う横顔。笑顔に不釣り合いな目のきわのホクロ。リョウの下で息をもらし少し苦しそうに眉間に寄せるしわ。寝起きのボンヤリ遠くを見つめる目。リョウくんと呼ぶ溶けそうに甘い声。サイテーとにらむ可愛い顔。テーブルに並ぶ手料理。




「ごめん。」

リョウは謝りながらポケットを探る。

「え、いいんだけど。」

「いや、そうじゃなくてごめん。」

リョウは財布から慌てて紙幣を数枚引き出すとテーブルに置く。

「え?帰るの?」

「うん。ほんとごめん。」

また。と言いかけてリョウは気づく。


そう、またはない。だからソノコは言わなかったのだ。「またね。」と。



「どうせまた会えるんだから大丈夫と思って目の前の人との今日をおざなりにしたらだめだよ。」


タカシの言葉がよみがえる。

タカシとの記憶がよみがえる。



その日、日頃あまり感情が揺れない、喜怒哀楽の怒はめったに見せることがないタカシの声に怒りがにじんでいた。

「リョウくん。」と固い声で呼ばれたときはまたお説教か。と軽く流していたが途中からいつもの声色と違うと感じリョウは寝転んでいたソファから渋々体を起こす。

タカシの声はいつもの叱りながらも優しさを含む声色ではなかった。悲しみでも非難でもなく、それは怒りだったのだと思う。


その頃のリョウはとっかえひっかえして女と会っていた。仕事が上手くいっておらず女たちと浅い付き合いをすることによって気持ちを紛らわしていた。もちろん肉体関係を含む浅さ。つまりリョウは腐っていた。

その日、リョウは元あった予定を変更してタカシの部屋を訪ねた。

タカシに招き入れられるとソファにドスンと座りそして寝転んだ。

目の上に腕をのせて重いため息をつく。

リョウのため息を聞いた兄は

「どうしたの?なにかあったの?」

と弟にたずねる。「別に。」とリョウが短い返事を返す。


「好きなんだけど。」

さっきまで会っていた女に突然言われた。

それを聞いたリョウが一番最初に感じたことは驚きや困惑ではないしましてや喜びでもなく「面倒くさい」だった。

待ち合わせた飲食店で女とリョウは向かい合って食事をしていた。

女の告白を聞いた途端、リョウは食べているものの味がしなくなるような感覚を覚える。

女のことをリョウは賢い女だと思っていた。賢くてしっかりしている。ただ時々垣間見えるリョウに対しての依存のようなものを重いと感じまた面倒くさいとも思っていた。リョウは精神的に自立している人間が好きだった。

リョウは持っていたフォークを皿の上に置き

「好きでも嫌いでもない。」

と平らな声色で答えた。率直なリョウの気持ちを。そして「現状維持で。」と続けそれが難しいならもう会わない方がいいと、女の目を見て答えた。

思いの外あっさりと女は「わかった。」と答え。また会いたいと続ける。

面倒くさいと思う気持ちはリョウの中から消えず「今日はもう帰ろう。」と女に告げる。

このまま食事を続けたところで食べるものの味はしないしそれは向かいの女も同じであ ろうと思った。


リョウが会計を済ませ店の外に出る。

車に乗り込むリョウを見送るつもりなのか女はリョウの車のそばに立っていた。

エンジンをかけ車を出そうとすると、女がリョウの運転席の窓越しに「またね。」と言った。

女のまたねを聞いたリョウは「面倒くさい」と思った。

女の目を見ることをせず「また。」と告げてリョウは車を出した。


「なにかあったの?」と兄から問われ別にと答えた弟はしかしなぜか先程のできごとをソファに寝転びながら話はじめてしまった。もちろんかいつまんで。話すつもりはなかったのになぜだろう。話してしまっていた。ひととおり黙って弟の話を聞くと兄は固い声で「リョウくん。」と弟を呼んだ。


俺もいつまでもリョウくんのこと色々言っていたらダメなんだけどね、大人なんだしリョウくんの人間関係に口出しするつもりはないよ。ただね別れるときはきちんと別れないと。「また」って思うならきちんと。会いたい人と会えない日は必ずくる。出逢ったことを後悔しないために、今日が最後になるかもしれないって目の前の人との今日をきちんと過ごさないとだめだよ。

「おおげさなんだよ、タカシは。」そう思ったけれどリョウは心の中にとどめた。言葉に出来ない空気がその日のタカシの周りにはあった。


「それとリョウくん。自分を大切にしてね。」

リョウの全てを見通したようにタカシはいつもの優しい目でリョウに伝える。リョウはなぜか遠い記憶の母親を思い出す。


今よりも少しだけ若かった頃のタカシとの思い出。



「ほんとに、申し訳ない。」

と、リョウは謝り困惑している女を置いて足早に出入口に向かう。



店の外に出るとリョウは携帯の一番新しい着信履歴を押す。




「はい。」

思いの外短い呼び出しでソノコが出たことに戸惑いながら、

「ちょっと待って。ちょっと待ってて。すぐ行くから。」

と、一方的に電話を切る。






車のエンジンをかけ走り出す。





テールランプが繋がる国道。

寒そうな細い月。

リョウを置いて季節は変わっていく。

ぼんやりと前を見つめて運転しているとラジオからスモーキーで伸びやかな男の歌声が流れてきた。

聞き覚えのある好きな曲だと気づきボリュームを上げると、男は包み込むような切ない声で歌う。





「きみをうしないたくないんだ」




ポタポタとあごから落ちる滴がリョウの色あせたチノパンを濡らしていく。ぬぐってもぬぐっても後から後から涙は流れ視界を歪ませる。



リョウはクジラになりたいと言ったタカシの声を思い出す。

今、あの時のタカシの気持ちがすぐそこにあるものを手に取るように分かってしまう。


それがとても苦しくて悲しい。


リョウくんも本当はクジラになりたいんじゃない?と聞いた真剣な目。


震えるため息をついてリョウは過去を手繰る。

リョウくん。と優しく笑ってくれた弟想いの兄はもういない。


「バカだな。」

リョウは涙をぬぐう。そして、心の中で「たかし、ごめん。」と呟く。








自宅につくと玄関の前にソノコが立っていた。

「リョウくんやせたね。」

と心配そうにリョウを見つめる。

「お前に言われたくないよ。」

と返すと、ふふっとソノコがかすかに笑う。

懐かしい泣き笑いの顔を見てリョウは

自分の中にあふれる気持ちがあることに気づく。

「やせた。やせたよ。ろくなもん食べてないんだから。豆腐だってまた食べられなくなった。せっかく…」

「ごめんね。リョウくん。」

泣き出しそうな顔でリョウの顔をのぞきこむ。



リョウは前より一層細くなったソノコの肩に手を置くと自分の胸に引き寄せ、

「またごはん作りにきて。」

と、ソノコを抱きしめる。


「似合うね。そのチャラい髪型。」

と、ソノコは笑う。

「だからお前に言われたくないよ。」

リョウも笑って強く強くソノコを抱きしめる。



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