第3話 タカシ

「やっぱり夕方だ。」


目覚めた時に孤独を感じるのは朝ではない。夕方だ。

灯りのついていない薄暗くなった寝室のベッドの上でうつ伏せのまま、寝起きのぼんやりとした頭でタカシは確信した。








北向の和室は真夏でも窓を開け放つと微かに風が通り涼しい。

畳の上に寝ていたせいでタカシのふっくらと柔らかい頬に何本もの畳のあとがついた。

タカシは上半身を起こすとボンヤリと首を掻く。汗のせいかかゆい。

窓の外はもう夜と夕方の狭間。

灯りのついていない室内は部屋の隅が見えないほど暗い。


タカシは眠気が完全に覚めたとたん恐ろしくなった。

昼間ウトウトしていたときは明るかった世界が目覚めた時には暗くなっている。一人取り残された気がして、足元で複雑な体勢で、まだ深い眠りの中にいるリョウに声をかける。

「リョウくん。リョウくん。」

暗闇の中では大きな声を出すのさえ恐ろしく無意識に小声になる。

起きる気配はない。

身動きすることさえ出来ず体を固くしていると、

「タカシー!リョウくんー!」

母が台所から呼ぶ。

「ごはんー!もうおきてー!よるねられなくなるよー!」

タカシは母の声を聞いたとたんまるで夕方の呪縛から解かれたように体が自由になる。

「リョウくん!おきて!」

リョウの体を揺さぶる。


タカシ!リョウくんおこして!

また母が呼ぶ。

「リョウくん!」

リョウの体をぐいっと押す。


リョウはモゾモゾと体を動かしなにかゴニョゴニョ言っている。

「たかし。」

「なに?」

「おんぶ。」

「じぶんであるいて。」

「おんぶ!」

こうなると弟はぜったいに折れないことを知っているタカシは

「んあー、はやく!」

と言うとリョウに背中を向けしゃがみこむ。今まで寝ぼけていたとは思えないスピードでリョウは嬉しそうに起き上がりタカシの背中にしがみつく。

「くび!くるしい!」

「はやく!はやくたって!」

足をバタバタさせタカシの体を蹴る。タカシがよいしょっ!と立ち上がると、

「おばけー!」

と、リョウが突然叫ぶ。タカシは、きょうのごはんなにー!と聞きながら台所の母を目指して走った。





タカシはごろりと体を回転させ仰向けになると天井を見つめ深く息を吐く。朝から昼食を摂るのも忘れて仕事をしていた。昼過ぎさすがに疲労を感じ少しだけ体を休めるつもりがそのまま眠ってしまった。


ふとリョウくんはどうだろう。とタカシは想像する。

リョウくんも夕方の孤独を感じているのだろうか。








ある夕方、タカシが昼寝からうっすら目覚めぼんやりしているとキッチンから音が聞こえてくる。

水の流れる音。

冷蔵庫の扉が閉まる音。

食器同士の当たる音。

ソノコが夕食の準備をしている。

すっかり暗くなった寝室に扉の隙間からリビングの灯りが射し込む。

ソノコがごく微かな音量で鼻歌を歌っている。

香ばしい匂いがする。ソノコは何を焼いているんだろう。

お腹すいたな。



タカシは幸せと安堵を感じもう一度目を閉じる。




幸福な二度寝から目覚める直前のタカシの唇に柔らかいソノコの唇が重なる。

タカシのまぶた、こめかみ、頬に。ソノコは唇をあてていく。


目を覚ましたタカシは「おはよ。」と小さな声で甘くささやき微笑むソノコにキスをして上半身を起こす。ソノコを太ももの上にのせ首筋に唇をあてる。ソノコがいつもつけている香水の香りがする。

タカシはティシャツを脱ぐと長いキスをして優しくソノコの服を脱がしていく。真っ白な肌の胸に唇をあてて抱きしめる。柔らかい肌は温かくいい匂いがする。タカシの耳に唇をつけているソノコを包んで抱えそっとベッドに横たえる。

タカシはソノコの笑顔を見つめているとこんな日がずっと続くことを願わずにはいられなくなる。


でも、どうしても拭い去れない気持ちがある。ソノコがいる、孤独と無縁の夕方は必ず、幾つになっても手を焼かせる3つ下の弟のことが気にかかる。





リョウくんは夕方の孤独をなんと言うだろうか。

つい弟の心情に思いを馳せるのはタカシの長年の習性だ。

「考えてみたこともない。」

と即答するだろうとタカシは想像する。しかし、そういった断定的な言葉の根本には温かく繊細な美しい心があることをタカシは知っている。情に厚い男らしい人間であることも。

そろそろソノコが来る時間だろうかとタカシは腕時計を見る。今日はそのまま泊まると言っていた。昼間は予定があるらしいリョウもきっと夕方には来るだろう。


暗い部屋でタカシは天井を見つめる。

心が重くなりベッドに沈んでいくような感覚を覚える。



タカシは気づいている。



いずれ必ずリョウと向き合わなければならない日がくることを。兄として。男として。その両方。

ソノコの笑顔とリョウの仏頂面を思い浮かべてタカシは胸が苦しくなる。


ため息をついてベッドから立ち上がると、ソノコが来るまでもうひと仕事しようと部屋の灯りを点けた。



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