第2話 生きていく。

「べんとうわすれた」


ダイニングテーブルの上のソノコの携帯がラインの着信を知らせた。

ベランダにいたソノコは干そうとしていたリョウのテイシャツをかごに戻し慌ててサンダルを脱ぐ。


携帯に手を伸ばすと同時にテーブルのすみに置き忘れられた濃紺の保冷バックが目に入った。中にはソノコが早起きをして作ったリョウの弁当が入っている。

勤務中のリョウからはめったに連絡がこないことと、忘れられた弁当とで合点がいったソノコは確信を抱いて携帯のライン画面を開くと想像通りのメッセージが届いていた。


「ごめんね。気づかなかった。届ける?」

と、ソノコが簡潔に打ったメッセージを飛ばすと即座に既読がつき

「たすかる」

と、やはり簡潔な一言と、場所と時間の指定のメッセージがリョウから返ってきた。


画面を閉じた携帯をテーブルに置くと白檀の香りがソノコの鼻を通り過ぎる。部屋の片隅に置かれたこぢんまりとしたシンプルな造りの木目の仏壇はソノコがいつみても埃がかぶることはなく清潔で、二度と目覚めることのないその人を守っている。

その人を想い日々ひっそりと埃を拭っているだろう人のことも。


有休消化のためにとった平日の休日。

ソノコは前日からリョウのマンションに泊まり早起きをして弁当をつくり朝食を食べさせリョウを見送った。

あの日。タカシの誕生日だったあの日の夜からソノコはリョウの住むマンションに通うようになった。

仕事を終えたソノコはリョウが住むマンションへかうことにした。甘いものが好きだったタカシにケーキを届けたかった。リョウの住む部屋にあるタカシの仏壇に供えて欲しかったのだ。タカシの誕生日ケーキを。

自分にタカシの誕生日を祝う資格がないことはわかっていた。けれどリョウの部屋の小さな仏壇が浮かんで離れなかった。

きっとこれが最後になるのだから。


そう思い向かうことを決めた。

しかしマンションにつきドアホンを鳴らすとリョウは留守のようだった。

ドアノブにかけて帰ることも可能だった。

誰からの物なのか彼なら察してくれる気がした。

しかし、ソノコはリョウの携帯を鳴らした。最後に彼の声を聞こうと思った。聞きたかった。


電話に出たリョウは口数が少なく声色も暗かった。

それに仕事ではなく誰かと居るようだった。

自分が不快感を与えたと察したソノコは用件だけ述べて一方的に電話を切った。


もうこれで会うこともないだろう。

ソノコはそう思った。

自分でも意外だと思うほど冷静だった。


ふと空を見上げると細い弓はりの月がポツンと淋しげに輝いている。

「帰ろう。」運転してきた車に乗る。




「疲れた。」ソノコは運転席で目をつぶり小さく呟く。


そして、何となくタカシとの過去のラインのやりとりを眺める。


リョウからの電話がなった。


「待ってすぐ行くから」


と言って電話は切れた。


しばらくするとリョウが来た。

ずいぶんとやせたリョウの顔を見たときソノコは、タカシが死んでからのこの数ヶ月をとても長く感じた。


タカシが事故に遇う少し前。

三人で会うのが最後になったあの日のこと。

ソノコは今でも全てをはっきりと覚えている。タカシのマンションから自宅へ帰る道のりのほとんどは覚えていないけれど、あの日。


あの日の三人の全てを覚えている。



あの頃ソノコは「私達三人にハッピーエンドはない。」そんな気がしていた。


三人の限界は近いように思えた。

乗ってしまった船から降りられなくなっている。

戻ることも進むことも出来ずただ溺れるのを待っているそんな気がした。

「この船、地獄行き。」ソノコは遠くを見つめ心の中で呟く。




休日、いつものようにタカシのマンションにソノコはいた。


夕食を三人分用意してそろそろ来るであろうリョウをタカシと待っていた。

会話もなくテレビもついていない部屋はとても静かだった。不自然な静けさ。そのことにタカシもソノコも気づいていた。


「ちょっとコンビニ行ってくるね。」


車のカギがついているキーホルダーをチャリチャリと鳴らしながらタカシはソノコの顔を見ずに玄関に歩き始めた。そろそろリョウくん来ると思うから玄関開けていくね。


「うん。」

ソノコはタカシのあとを玄関までついていく。

トレッキングシューズのような重そうな茶色の靴を履きタカシは「じゃあね。」とソノコを見ずに背中を向け鍵を開けた。

ソノコはとっさに裸足のまま玄関のたたきに降りタカシの腕を掴んでいた。「まって。」強く腕を掴む。


「どうしてキスしないの。」


ソノコがタカシにたずねる。声が無意識に震えた。妙にのどが渇きヒリヒリとした痛みを感じる。


タカシはゆっくり振り向いてかすかに、淋しそうに微笑んだ。「ずいぶんやせた。」ソノコは薄暗い玄関の灯りの下、タカシの顔を見て思った。前からあったソノコが愛する白髪も増えたようにみえた。


「ソノコ、やせたね。」

タカシは悲しい目をしてソノコに呟く。

タカシの言葉を最後まで聞かずソノコはもう一度タカシにたずねる。


「どうしてキスしないの?」


タカシはうつむくと薄くヒゲの伸びたあごを指でなぞる。


しばらくして顔をあげるとソノコに近づきかすかに触れるくらいの軽いキスをしてソノコから顔を離した。

そんなのじゃない。ソノコは叫びたくなる。


「ソノコ、幸せ?」


タカシが優しく静かな声でソノコにたずねる。

「幸せよ。」

ソノコは暖かくも冷たくもない声で真っ直ぐタカシの目を見つめて答える。


「そう。」


沈黙のあと行ってくるねと言ってタカシはソノコに背中を向けた。


タカシは玄関のドアを見つめる。


そしてもう一度振り返るとソノコの両腕を強く掴み引き寄せる。さっきとは違うまるで獣が噛みつくような、ソノコの骨まで食べてしまうような乱暴なキスをする。首筋や唇を噛まれる痛みにソノコは目をつぶる。



タカシの手から落ちたキーホルダーが高い金属音を響かせた。


とても長いキス。

何かを確かめるため。

何かを覚悟するため。


そしてソノコから唇を離すとタカシはゆっくり振り返り玄関の鍵をかける。


リョウが入るために開けた玄関の鍵。



静かな部屋に鍵のかかる音が響く。




タカシが靴のひもを解く、ゆっくり指を動かすその仕草はまるで「気乗りしない」そんな風にソノコには見える。タカシは靴を脱ぐと一瞬ソノコの目を睨むように見つめ、その場で荒っぽくソノコの服を脱がし始める。

タカシの手は驚くほど冷たい。

自分のシャツを脱ぐとタカシはソノコの身体の上に自分の身体を重ねる。


「タカシくん。」

ソノコが名前を呼ぶといつも笑ってキスをしてくれた。けれどその日、タカシの身体の重みを感じながら切れ切れにソノコが呼んでもタカシは何も答えてはくれなかった。


首筋を肩を胸を、タカシの唇がソノコの体を滑っていく。

細く締まった腹や腰。太ももの内側にタカシが唇を滑らすとソノコは息をもらす。



タカシの吐息。

それは少し苦しそうでそしてとても甘い。

これまでずっとソノコを幸せに包んできた甘い吐息。

タカシはソノコの上でゆっくり身体を動かすと短く息を吐き顔を歪める。苦しそうな声が漏れる。タカシの瞳は閉ざされている。


ソノコは目を閉じる。



リョウが浮かぶ。仏頂面のリョウ。

その時、



「愛してる。」



タカシの苦しそうな声がソノコの耳元で震える。

とても悲しい愛してるの響き。




本屋で十二年を経て再会したあの日。

長身のタカシの真っ直ぐ伸びた背中。

ネイビーのシャツ。

短い黒髪に混ざる白髪。

淀みのない「ありがとう。」

連絡先を交換し

「またね。必ず連絡する。ありがとう。」

と、ソノコに右手を差し出した。


あの日から何度もタカシの唇をこぼれソノコを幸せに包んできた「愛してる。」


そのどれよりも悲しい響きだった。

とても悲しくてそして優しい響きだった。






音のない静かな部屋。

廊下の床が冷たい。

もうきっと外には夜が来ているだろう。ソノコは思った。


タカシは壁に寄りかかって座りソノコに背中を向けてボンヤリと玄関の扉を見つめている。

いつも一番上まで留めるシャツのボタンが二つ開いている。


しばらくしてタカシは立ち上がるとソノコにも立つように無言で促し


ソノコにキスをする。いつもの優しいキスだった。

そしてソノコから顔を離すとソノコを真っ直ぐ見つめる。誠実で真っ直ぐなタカシの目だとソノコは思った。



「ソノコ。」

語尾の上がるタカシの低く甘い声。ソノコはふと高校生のタカシを思い出す。

そして、それはタカシからソノコへの最後の愛の告白。

「ソノコ。大好きだよ。」

「でもね、」


タカシは苦しそうに震える息を吐くと静かな、とても静かな声でソノコの目を見つめて呟く。



「ソノコと出会わなければ良かったと、思ってる。」


ソノコはタカシの目を見つめる。


「ソノコ、自分の気持ちと向き合ってみて。大丈夫。まだ間に合うからね。」


そう言うとタカシはソノコの肩に手を置いた。タカシの温かい大きな手の感触がソノコの肩に伝わる。「ごめんね。」優しく謝るタカシの声がソノコにはとても遠く聞こえる。



静かなリビング。

タカシとソノコはリビングの床に座る。

ソノコに向けられたタカシの背中はとても広い。


しばらくすると玄関のドアホンがなった。


タカシは立ち上がり玄関に向かう。

無言のまま、疲れた顔をしたリョウと二人リビングに戻ってくる。




タカシは淀みのない声でゆっくりと二人に語りかける。

「リョウくんソノコをリョウくんの部屋に連れていって二人でちゃんと話して。」

「は?なにを」


リョウはタカシから目をそらし吐き捨てる。

「リョウくん。もうそういうのやめよう。」

タカシは疲労のにじむため息を吐くと

「ごめん。もう行ってもらえる?」

と、かつて聞いたことのない冷たい声で二人を見ることなく呟く。

「それと今夜はここには泊まらないで。」

ソノコを見つめる。


「今夜だけじゃない。もうここには来ないでください。距離を置こうとか時間をかけようとかしないよ。

もう、俺はソノコには会わない。」

ソノコは小刻みに体が震え出すのを感じた。止めようと思い自分の腕で身体を包むが震えは止まらない。



その時、

「話すことはない。」

きっぱりとした静かな声でリョウが言った。

「リョウ。」

タカシが静かに呟く。


今日までの付き合いの中でソノコが一度も見たことのないタカシの目だった。ソノコにはわからない感情を抱えた暗い目。


「リョウくん。もうやめよう。」

温度のないタカシの低い声。



リョウがタカシではなくソノコに体を向け深く息を吐くと、ソノコに語りかける。


「好きだよ。今まで出逢った誰よりも一番好き。でも、それ以上どうこうするつもりはない。」

そして怒りの中に淋しさのにじむ声でしかし、はっきりと言う。


「ソノコはタカシのものだ。」


これ以上話すことはない。帰る。と歩きだす。そして、足を止めタカシを厳しい視線で見据えると。

「タカシ。むしずが走る。」


と吐き捨てタカシの部屋を出ていった。


その後のことをソノコは切れ切れにしか覚えていない。

タカシは何も喋らず見送りもしなかったことはよく覚えている。


マンションを出て車に乗ったがしばらく動けなかった。涙はでない。

こんな終わりを迎えるとは思いもしなかった。

明日から、今この時点からタカシとの繋がりが消えたということはもちろん受け入れられなかった。


ソノコは車のエンジンをかけ走りだす。






夏の終わりが近づいていた頃。

タカシは事故に遭いそしてそのまま還ることはなかった。


リョウの記憶は警察から連絡を受けた辺りから所々が飛んでいる。

自分は医療従事者であるからもう少し冷静な対応が出来たのではなかったか。とリョウは振り返ってみて思うが事実出来なかった。


警察からの連絡を受け、電話を切ったあと一番にソノコの顔が浮かんだ。リョウはその事は確かな記憶として残っている。


タカシの葬式の間。

リョウはずっと窓の外を見ていた。


「暑そうだ。」


と、リョウは思った。

そろそろ夏も終わるというのにまだ日射しは強い。休日、リョウが家にいるときはエアコンが欠かせない。少し秋の気配も混ざってはいるが、それでも暑い。


リョウは秋が一番好きな季節だと思う。秋には一人が似合う。

今年も早く秋がくればいいとリョウは思う。


タカシが死んだ日から涙はひとつぶも出ない。ひとつぶも。

タカシに薄情だと言われそうだけれど出ないものは仕方がない。

でも、確かに薄情かもしれないとリョウは思う。


あんな最悪の最期にしておいて。


タカシとの最期を思い出すとリョウは呼吸が苦しくなる。

吸っても吸っても酸素が入ってこないような感覚に陥る。


弟を想う兄に「むしずが走る。」と吐き捨てた。

その日からタカシとは会っていなかった。電話もラインもしていない。


その時のタカシの顔をリョウは思い出さないようにしている。

過去と正面から向き合うには時間がかかるだろうとリョウは覚悟を決めた。

向き合える日がくればまだいいと思う。

今は過去から目をそらすことをリョウは自分に許した。

自分に都合の悪い過去を見つめないことを許した。

でないとリョウは立っている自信がなかった。

なにも考えない。

今リョウはそれに甘んじている。


休日の朝。

目覚めたリョウは起きたままの姿勢で目だけ開きぼんやりしていた。


最近あまり食欲がわかない。

睡眠をとらなければ仕事に影響するので、なにも考えず眠る。


ぼんやり天井を見つめる。

感情が揺れない。

自分はどうなってしまうのだろう。と思った。


その時、ソノコの目の下のほくろを思い出した。

甘い声。

時々香る香水。

ふざけてリョウの腕を掴む時の頼りないほど細い腕。


会いたいと思った。

同時に枕元の携帯を探していた。



タカシの葬式から数日経った日の朝、ソノコがダイニングでコーヒーを飲んでいると携帯の着信がなった。


リョウだった。


ソノコは「あの日」のことを思い出す。

タカシの前で「好きだ。」と言われた日。「好きだけれどどうこうするつもりはない。」と言われた日のこと。


タカシの葬式の日もソノコはリョウと言葉を交わすことなく会場を後にした。目が合ったけれどリョウはいつもの緑がかった真っ直ぐな目でソノコを数秒間見つめたあと、視線をそらした。


葬式の時、ソノコがふとリョウを後ろの席から見るとリョウは外を見ていた。

葬式の間中、ほとんどそうしていたように思う。何を見ているのだろうとソノコも外を見た。そこにはただ夏の名残の日射しががあるだけだった。


ソノコはリョウの横顔を見た。

涙のあとは無く乾いていた。ただ遠くを見つめてぼんやりとしている。

その様子がリョウの悲しみの深さを物語っている気がした。

あまりにも強い悲しみを受けると感情が事実に追いつかないせいか、一見すると普段と何ら変わらないように見える。今の自分がそうであるから、ソノコはリョウの姿は理解出来る気がした。




「あいたい。」


ソノコが携帯を耳に当てるとリョウのくぐもった細い声が聞こえた。

ソノコは


「うん。」

とだけ答えて電話を切った。


コーヒーのカップを片付けて身支度を整える。

もうすぐ秋とは言え気温は夏とそれほど変わらない。

ふとタカシを思い出してソノコは迷わずノースリーブの黒いワンピースを手にとっていた。

元々華奢な体型のソノコだが、身体を通したワンピースのウエストにはかなりゆとりが出来た。

ソノコは鏡の前で身なりを整える。


タカシはこのワンピースを着て会いに行くと「ソノコは黒が似合うね。」肌の白さが映える。と少し恥ずかしそうにソノコを後ろから抱きしめて肩にキスをしてくれた。

その時のタカシを思い出し、ソノコはのどが痛くなる。

ソノコは泣かないと決めている。

泣かない、絶対に。

涙を流せばすべてが本当になる。

タカシにふられたことも。

タカシがいなくなったことも。

だからソノコは泣かないと決めた。

現実から目をそらすことを決めた。



「ベッドに寝ていると体がかゆくなる。」

ソノコがリョウのマンションに着きドアホンを鳴らす。

ドアを開けリョウが開口一番に言ったのがそれだった。

「かゆくなる?」

「かゆくなる。」

ソノコの問いをリョウはそのまま肯定した。


ソノコは少し笑って

「お洗濯しよう。今日はお天気が良いからすぐ乾くわ。」

と言ってリョウの部屋へ入った。


初めてはいったリョウの部屋を見て「いかにも男っぽい部屋」だとソノコは思った。

掃除がされていないのであろうその部屋は埃っぽかった。書物の量がとても多いと思った。

ソノコはベッドからシーツをはがし洗濯をしてベランダに干した。

金属で出来ているベランダの柵は触るととても熱く、すぐ乾きそうだ。とソノコは思った。


シーツをはがしたあとのベッドにソノコは座った。

思いの外硬い座り心地だとソノコは感じた。

「ありがとう。」

と言って隣にリョウが座った。


何も話さず二人でぼんやりしていた。

ベランダのシーツを眺め、エアコンの音を聞いて。


ソノコは横から気配を感じて視線をベランダから隣のリョウにぼんやりうつす。

そのままソノコの唇とリョウの唇がぶつかる。


冷たい唇だ。とソノコは思った。

エアコンの風で冷えたのだろうか。

右手をリョウのほほに添えるとやはり冷たかった。

リョウの唇が離れると

「設定が低すぎるんじゃない?風邪ひかないようにしないとダメよ。」

と言ってソノコの方から近づき唇を重ねた。やっぱり冷たいとソノコは思った。


とても長いキスをした。

しかし、ソノコはなにも感情が動いていないことを感じた。

ただ、リョウの唇が自分の唇と当たっているだけ。そんな風に感じた。そしてそれはきっと目の前の男も同じだろうとソノコは思った。


「しよう。」

リョウがわずかに唇を離し小さな声でささやく。

何の温度も感じない平らな声だった。


ソノコは立ち上がるとワンピースを脱ぎ下着をとる。

シーツのはがされたベッドに座りあとはリョウに委ねた。


自分の上に重なるリョウの首に腕を回す。

首にはちゃんと温もりがあって安心した。

リョウはなにも言葉を交わさない。

沢山のキス。ソノコの細い指に自分の指をからめ大きな骨ばった手で強く握る。


リョウが動く度にかすかに眉間にシワをよせ少し苦しそうな息をもらすソノコにリョウは優しい目をして笑いかける。こんな風に優しい目をする時もあったのね。とソノコは思う。

リョウの緑がかった瞳を出逢ってから一番近い距離で見たソノコは近くで見るともっときれいだと思った。

リョウがソノコの耳元で甘く低い声をもらす。

優しいと思った。優しい抱きかただと思った。リョウのぶっきらぼうな態度とはずいぶん違うとソノコは思った。

ずいぶん違う。


瞬間、ソノコは眉間にシワを寄せ苦しそうなタカシの顔を思い出す。

獣のようにソノコの肌に歯をたてた。

耳元でタカシの吐息がもれる。少し苦しそうな吐息。それだけは聞き慣れた音だった。それまでソノコを幸せに包んできたタカシの甘い吐息。

名前を呼んでも答えてくれなかった。

とても悲しい声で愛してると、大好きだと言った。

出会わなければ良かったと。

それまで見たことのない目でソノコを目を見つめて、もうソノコとは会わないと。言った。


最後に優しいキスをしてくれた。

ごめんね。と


本屋で再会した時のタカシの笑顔が浮かかぶ。

高校生の時と何も変わらない。笑うと細くなる目も。そんな笑顔だった。


気づくとソノコは呼吸が荒くなっており、涙がこめかみを流れて耳を濡らしていることに気づいた。

リョウが笑わずにソノコを見つめている。

そして涙を拭うとソノコを抱きしめる。

リョウはなにも言わない。



夕方すっかり乾いた清潔なシーツをベッドに戻す。終わりかけた夏の天日をたっぷりと浴びたいい匂いがする。

今夜はこの匂いに包まれて眠ることが出来るリョウの事を思いソノコは安心した。リョウには心を休めて欲しかった。ソノコはそれを切に祈った。


二度目はソノコの方から誘った。


ポケットに手を入れ外を見つめているリョウの二の腕を掴んだ。リョウがゆっくりソノコの方に顔を向ける。

「平気?」

優しくソノコにたずねる。ソノコはうなずいた。



リョウの太ももの上に身体を預けてソノコは窓の外を眺める。リョウの肌はサラリとして気持ちがいい。

美しい空と雲が見えた。

似た空をかつてタカシと見たことを思い出す。

自分はどこへ向かえばいいのか分からなくなる。


翌朝、リョウより先に起きたソノコはリョウを起こさないようにそっと身体を起こしベットの上から外を見つめた。タカシの夢を見ているのだろうか。リョウの顔は苦しそうに見える。ソノコはリョウの肩にそっと布団をかける。


朝が来たばかりの外はまだ薄暗い。


「もう会わない方がいいかもしれない。」


ソノコの背中からリョウの細い声が聞こえた。

ソノコは振り向かない。振り向けなかった。同じことを考えていたことにソノコは少し驚いた。


「ソノコ」リョウの上品な低い声。

「俺と出逢わなければ良かったな。」


と、ひとりごとのように呟く。

「ごめんな。」と。


ソノコのほほを涙が流れた。

リョウの角度からソノコの涙は見えない。








リョウはタカシの物は何でも欲しがる。

すばしっこくて目ざとく「ゆだんもすきもあったもんじゃない」と小学生のタカシは思っていた。

タカシが何か新しい文房具などを買ってもらうとすぐ「おれも!」と騒ぐ。騒ぐだけなら良いのだが「ちょうだい!」とタカシが目を離したすきに奪っていく。タカシは心の中で「俺もお兄ちゃんが欲しかった。」と呟くのだった。


しかし、タカシはリョウがかわいかった。

生意気でやんちゃで気が強い。それでいて自分の中に正義があり筋のとおった事を好む。上級生にも食ってかかりタカシはいつもヒヤヒヤする。同級生から疎まれることも多々あるようだった。それでもタカシはリョウがかわいかった。

温かく優しい心をもっていることを知っていた。まっすぐ通った男らしさがあることも。


学校から帰って来るとリョウはすぐ遊びに行く。まず先に宿題を片付けるタカシに

「かたづけといて!」

と偉そうに言いつけ飛び出して行く。

ふたが開きっぱなしのランドセル。教科書やプリントが散らばっている。タカシは宿題の手を止め渋々それらを片付ける。

教科書をランドセルにしまい、プリントを揃える。

タカシは「じぶんについて」という題目のプリントを何気なく眺める。名前、誕生日、好きな食べ物、好きな遊び、好きな教科。

さんすう。という汚い字を見て「どこが!」とタカシは思わず口に出す。


最後の「宝物」の欄。

ミミズが這うような汚い字で書いてある。


「たかし。」


タカシはしばらく黙って見つめるとプリントのシワをきれいに伸ばして他のプリントと一緒にまとめトントン!と整えるとリョウのランドセルに入れた。




日曜日。テレビのアニメ。個性的な髪型をした元気な女のひとがじゃんけんをしてふふふ!と笑っている。

ダイニングテーブルにタカシとソノコは並んで座りソノコが作った夕食を食べる。ソノコの前の席に、まるでその家の主かと思わせる大きな態度で当たり前のように座りソノコの作った物をあれこれ言いながらそれでもいつも苦手な木綿豆腐以外は完食する手の焼ける男は珍しく不在だ。


ソノコは周りから意外だと言われるが料理が好きだ。食事でも菓子でも食べるものを作るのは全く苦痛ではなく趣味と言えると思っていた。そして、その細い体のどこに入っていくのかと思うほどよく食べる。料理が苦手というより家事全般が苦手な母親のつくる食事はソノコの胃を納得させず、自分が美味しいものを食べたいが為にソノコは母親の変わりによく食事をつくる。「美味しい!お店で買ってきたみたいね。これまた作って。」とあながちおだてではなさそうに喜ぶ母親は「こういうのウィンウィンて言うんでしょ。会社の女の子が言ってたわ。」と両手でピースをつくって臆面もなく堂々と朗らかに笑う。自分のためと思って作るものを他のひとが純粋に喜んでくれることは事実嬉しくソノコは「オッケ。」と両手でピースをつくった。



「これってさ。」

鱈の粕漬けをひとかけらほぐすとホワリと湯気がたった。そのかけらを口に運んでからタカシは皿の上の魚をじっと見つめて呟く。

「あ、苦手?ごめんなさい。先に聞けば良かったわ。」

ソノコが慌てて謝ると

「いや違う。すごく旨いね。どこで買ってきてくれたの?」

とタカシはソノコにたずねる

「あ、それはー…」

鱈の粕漬けはソノコの密かな得意料理だった。あれこれ調味料を試してやっと行き着いたそれを食べると粕漬けが大好物である母親は「これ食べると他のは食べたくなくなっちゃうのよね~。」と幸せそうに眉間にシワを寄せる。


「え。まさか作ったの?こういうのって買うものじゃないの?」

作ったのか。とタカシは一人言のように呟くとひとかけらの鱈を口にいれ、続けて茶碗からご飯をほおばる。そのあとも無言で魚を口に運び続けるタカシの横顔を見つめてソノコはその大きな身体を今すぐ抱きしめたいと思った。

「この前リョウくんがね、」

テーブルにひじをついてあごを支え、食べ終わって空になった食器を見つめながらタカシが呟いた。まだ夕食を食べ終わらないソノコは口を動かしたまま話の先を促すようにタカシの横顔を見る。

「昼に食堂のカレー食べるの飽きたな~。って。」

やっぱさあ、いくら好きでも食べ続けると飽きんのな。って。

「そのうち、カレーの文句言い始めてさ。言ってるうちにヒートアップしてきちゃって止まらないの。ほぼ恨み節。カレーへの憎しみ。人参の固さがどうとかルーのゆるさがどうとか。そもそも毎度毎度人参じゃがいも玉ねぎって。三種の神器かよ…って真剣に頭抱えてんの。もうカレーが気の毒になってさ。おかしくて。それで?今日は何食べたの?って聞いたらムッとした顔して、カレーって。」

ムッとした顔でカレーを頬張るリョウを思い浮かべソノコもひとしきり笑った。苦笑いを浮かべて、「好きなんだか嫌いなんだか。」と首をかしげるタカシの表情にはこんこんと湧き続ける弟への渇れない思慕がにじむ。

ソノコはこの兄弟の絆の強さに小さな胸の痛みを感じた。

「これから作れるときはお弁当作るわね。二人分。」

と、はしを置きソノコがタカシの目をのぞきこむと

「いいの?」

と、タカシは遠慮がちにソノコを見つめ返す。

「腕によりをかけるわ。これ以上カレーが恨まれないように。」

とソノコが笑うとタカシはしばらくソノコの目を見つめてから空になった食器に視線を落とした。

「俺たちってさ、母親を早く亡くしたじゃない。母はさ多分料理が得意じゃなかったんだと思うんだよね。好きじゃなかったんだろうな。って。当時は子供だしさこういうものだろうって何も思わず食べてたよ。でもね、この年になって分かってさ。こうやってソノコが作ってくれる料理を食べてるとね。」

食器に視線を落としたままタカシはゆっくりと話続ける。

「リョウくんがね。」


お袋の味って言うじゃん。あなたのお袋の味は何ですかー?って。俺さこの前ふと考えたんだよね。なんだろって。んで母さんには悪いけど俺ねえな。って。でさ思ったんだよ。それ聞かれて真っ先に浮かぶの多分ソノコの手料理だなって。


「って言ってたよ。」

すぐには言葉が見つからないソノコはなんとか気持ちを落ち着かせて、

「あーだこーだ言うのにね。」

と震える声でしかし明るさをつとめて答えた。しかし何にも形容しがたい気持ちが涙となってソノコのほほをこぼれる。

タカシはソノコの涙をぬぐうと

「ありがとう。本当に。」

とソノコを抱きしめた。








「腹へった。」

午前中の忙しさが一段落し、イスに腰を下ろすとリョウは書類に目を走らせる。無意識にもれた心の声に、そばに立っていた男性看護師が、

「なんか言いました?」

とリョウの顔をのぞく。

「いや、お腹空いたな。と思って。」

「そっすね。」

リョウより幾つも年若い恰幅のいいその体育会系の男性看護師は常にはつらつとしているが午前中の激務で顔に疲れの色をにじませ腕時計をみる。リョウはそのままぼんやりと立っている男性看護師を見上げ、

「大丈夫か?」

と声をかけると

「大丈夫です。いや、違うんですよ。誰だっけなー。と思って。」と思案している。

「はい?」リョウは男性看護師を見上げる。

「さっき一階の総合受付のとこにすげーきれいな人がいて。」

すげーきれいな人のところで声のボリュームを下げ男性看護師はボンヤリとしている。


「細くて背が高くて。真っ白すよ。どっかで見かけたことがある気がするんですよね。なんとかってハーフのモデルに似てるんですよ。なんだっけ名前。てか、テレビで見たことある人と勘違いしてるだけかな?患者さんじゃない気がするんだけどな…。」

「ふーん。」

気のない返事をして書類を見ているリョウのそばで男性看護師はまだ一人言のように呟いている。

「いやー、まじでキレイだったな。黒のワンピースっていいっすよね。俺好きなんすよねー。ホクロが色っぽかったなー。」


書類に目を落としたまま、よく見てるな。と笑いかけてリョウは、めったに涙を見せないソノコの目の下のホクロを思い浮かべる。


ハッとして腕時計を見ると慌てて立ち上がり、昼行ってきます。と近くにいる女性看護師に声をかけ足早に階段へ向かった。



「ごめん。」

という声に振り向くとリョウが軽く片手をあげ足早に近づいてくる。

「ごめん。完全に忘れてた。」

「大丈夫よ。お疲れさま。はい。」

ソノコは濃紺の保冷バックを手渡すと

「じゃあ、頑張ってね。」

と出入り口の方へ体を向ける。


「もう行くの?あ、もう昼食べた?」

とリョウはソノコにたずねる

「お昼はこれから。帰ってお弁当の残り食べようと思って。」

「ふーん。一緒に食べない?」

とリョウがソノコをさそう

「え、…いいの?」

「うん。大丈夫だよ。俺昼休憩だし。」

と答えるリョウにソノコは

「ん。お腹はあんまり空いてないからコーヒーでお付き合いします。」と、笑いかける。


ん。行こう。と言ってエレベーターに向かい足早に歩き始めるリョウにソノコは小走りでついていく。


昼のかきいれ時を外れた食堂に人はまばらで空席が並んでいる。

外が見える横並びの席に二人で座った。

「ん。財布持ってきてないでしょ。」

リョウは小さなコインケースをテーブルに置くと、いただきます。と小さく呟き保冷バックのチャックを滑らせた。ソノコはありがとう。とコインケースを持って自販機で紙コップのコーヒーを買う。席に戻りコーヒーを一口飲むとリョウの横顔を眺めた。ふと弁当を見るとソノコには信じられない短時間にもうかなり弁当の底が見えている。ひき肉に木綿豆腐を加えゆで枝豆とひじきを混ぜたハンバーグの姿はもうない。

「リョウくん食べるの早いわね。」

「ん。職業柄。」

ソノコが言うと箸を止めずリョウは答える。

タカシも食べるのがとても早かったことを思いだしたソノコはリョウから目を離し窓の外を見て紙コップに口をつけた。


「あー、甘いもの食べたいな。」

リョウは食べ終わった弁当のふたをしめるとペットボトルのお茶を飲み呟く。

「チョコ入れといたよ。底の方にあるんじゃない?」

ソノコが保冷バッグを指す。 リョウが保冷バックを開くと底にある保冷剤に隠れてコロンと緑色の袋に入ったチョコレートが見える。「こなこなするやつ。」とボソッとつぶやくと


「わかってるよねー。」


とリョウはソノコを茶化すように言ってカサカサと袋を破き「こなこなするチョコレート」を口に放り込んだ。そして再びお茶を飲んで一呼吸つくと、


「俺はお前のことなにひとつわかってないけど。」


と呟く。

「リョウくん?」

ソノコがびっくりしてリョウを見るとリョウは真っ直ぐ窓の外を見つめている。そしてため息を一つ深く吐くとソノコの方にゆっくりと体を向けソノコを見つめた。


「タカシがいたあの頃、本当は誰を好きだったのか、自分は幸せになってはいけないんじゃないか、誰が正しくて誰が間違っていたのか。

もうそういうのいいよ。考えなくていい。」

リョウは穏やかな目でソノコを見つめている。


「サプライズも感動のシチュエーションもないし、片ヒザついてプロポーズはしない。今ここに指輪はないし俺は甘い言葉は吐かないよ。」

リョウは荒々しい言葉をひとつひとつゆっくりと丁寧に紡いでいく。


「ソノコ。」


後悔の冷たい海を泳ぐソノコのそばでただ黙って寄り添い続けてくれたその人が呼ぶ声は今、100の甘い言葉よりソノコに強く届く。


「クジラにはなれなくていいし。なる必要もない。そのままでいい。ただこれから先を俺と一緒に生きてくれたら、それでいい。」


そのソノコを見つめる瞳を知っている。まっすぐ前だけを見て生きていた人を。かつて自分を愛してくれた人の瞳をソノコは覚えている。優しく包んでくれる大きな体を。名前を呼ぶ甘い声を。覚えている。


「わからないっていうのは正義かもしれないよね。」


タカシの声が聞こえた気がした。

そんなことはあるはずもないのに。

記憶が幻を聞かせたのだろうか。

ソノコはタカシが話していたあの日の記憶をたどる。



「結局最後まで僕にはタマキがわからなかったよ。」

ソノコはごくシンプルに父親のことをひどいと思った。

今、目の前にいる人が父親であることを心底嫌悪したくなるほど。父親のことは好きだった。

両親も元をたどればただの他人の男と女。男女のことに子供だからという理由だけで自分が口出しするのは違うとソノコは思っていた。だからこれまで黙ってきたのだ。けれど「わからなかった。」でしめくくるのはあまりにも冷たいのではないだろうか。

ソノコは今まで干渉せず閉ざしていた口を開いて目の前の父親をなじりたくなる気持ちをおさえる。

離婚することになったにせよ過去に確かにあった結婚生活を、妻のことを全否定するようなものではないか。とソノコは悲しくなった。


両親が正式に離婚する前に、三人で食事をしようとソノコは父親から誘われた。

楽しい食事会になどならないことは容易に察しがつく。ソノコは肯定も否定もせず保留にしていた。

いつまでも返事をしないソノコの気持ちを察した母親が、

「大丈夫よ。最近流行りの円満離婚だから。」

と、笑顔でソノコの気持ちをほぐした。

いわゆる「性格の不一致」だという。ソノコがとっくに成人し、タマキが経済的に自立していることもあり滞りなく話は進んだようだ。ソノコの知らないところで夫婦はタイミングを読んでいたのだろう。母親の言う円満離婚はあながち外れてはいないのかもしれないと、ソノコは思った。


それなのに。


しかし、悲しい気持ちで苦しくなっているソノコが横に座っている母親をこっそり見ると驚くことに母親はいかにも涼しい顔で窓の外の景色を見ている。自分のことを言われているとは到底思えないような、大した内容ではない世間話に飽きて景色を見ている。そんな雰囲気だ。


ソノコはさっぱり分からなくなる。夫婦と言うものが。



ある日、タカシのマンションから夜遅く帰宅したソノコは就寝しているであろう母親を煩わせないように静かに玄関を開け家に入った。

リビングの灯りがついている。


そっとリビングの扉を開けると母親がテレビもつけず静かな部屋でワインを飲んでいた。ソノコの方を見てにっこり微笑み「おかえり。」と言う。

ソノコはきれいなひとだと思った。きれいで強い人だと。

「ただいま。」と返し部屋に行こうとすると、

「彼氏は元気?」

と、たずねてくる。普段から娘にはほとんど干渉しない母親が珍しいな。と思いながらもソノコは、

「元気よ。忙しそうにしてる。私がつくるごはんを喜んで食べてくれるの。」


ソノコの言葉からは無自覚な喜びが溢れている。

「そう。良かったわね。ソノコのつくるごはんは美味しいから。」

母親の包容力をにじませて微笑む。

「彼のどこが好き?」

とても楽しげに無邪気に母親はソノコにたずねる

「んー。どこというのは。どうなんだろ。」

ソノコが答えを探して首をかしげていると

「男と女なんて複雑にしようと思えばいくらでも複雑にできるのよね。でもねシンプルな方がいいわよ。でないと本当に大切なものが見えなくなってしまうから。」

好きだからそばにいたい。それだけでいいのかもしれないね。と母親は静かに、少し淋しそうにささやく。

「自分の幸せには責任をもたないと。人からもらう幸せなんてたかが知れてるし、不幸になったとき人のせいにしてしまうから。」

ソノコは淋しさのにじむ母親に返す言葉が見つからず、「はい。」と短く答え、寝るねおやすみ。と母親に告げるとリビングを出る。


休日。ソノコはタカシの部屋で特になにをするでもなく過ごしていた。外は音のない静かな雨。部屋の中にも雨が降っているようなしんとした静寂がある。

二人で昼食を食べソノコが後片づけをしていると、

「終わったらきて。」

と、タカシが優しい笑顔でソファから声をかけた。

片づけが終わりソノコはソファに座るタカシの側に立つと、タカシが自分の太ももをポンポンと軽く叩く。ソノコはタカシの太ももの上にタカシと向き合う形で座りタカシの首に両腕を回す。

「元気ないね。」

タカシがソノコを抱きしめささやく。


ソノコは先日の両親と三人での最後の食事の話を。父親が最後に放った言葉を。タカシに伝える。最近の淋しそうな母親のことも。


「わからないっていうのは正義かもしれないよね。」

タカシが雨のような細い静かな声でソノコに話しかける。

わからないということが相手に対して誠実だということもあるよね。

ついわかっているような気持ちになるけどね。そうした方が楽だから。努力せずにすむから。二人の間でなにかあったとき相手のせいにできるから。

わからないから、わかりたいと思う。

お父さんはお母さんのことをわかりたかったんじゃないかな。それはきっと愛だよね。

ソノコは最後の三人での食事会で涼しい顔をして外を眺める母親の横顔を思い出す。


そしてタカシの老成した目を見つめる。


きっと愛はあった。そこは否定しない方がいいと思うよ。愛のある思い出が心を支えることもあるから。

人間は弱いから。生きて残された人間はつい自分の都合で過去を塗りかえてしまいたくなるけれど向き合って受け入れることでしか強くなれないよ。強くならないと前に進めないからね。


タカシは今どこを見ているのだろう。


ソノコはあまりに厳しいタカシの遠くを見るような目を見つめる。それは話しかけるのがはばかられるほどの厳しさに見える。

ふと我にかえったタカシが

「ごめん。結婚もしてない分際で。」

と、ソノコにほほえむ。タカシの目から厳しさが消える。すると優しい目でソノコに投げかける

「今度、リョウくんにも聞いてみる?なんて答えるか。」

「愛について?それは聞かなくてもなんとなく分かるじゃない。」


タカシがふふっと笑う。

「考えたこともない。」

面倒くさそうにムッとして答えるリョウが目に浮かぶようだとタカシは思う。





食堂を後にし二人でエレベーターを降りるとリョウは、

「じゃ。」

と短く挨拶をし背中を向けた。二、三歩歩き始めたソノコの背中に、

「ソノコ。」

とリョウが声をかける。振り返ったソノコを見つめると、

「気をつけて帰れよ。」

と淋しげに優しく微笑む。ソノコはいつかの空に消えていくクジラを思い出す。


「リョウくん。」

リョウに歩み寄りソノコはリョウを見上げる。

「今までそばにいてくれてありがとう。私はリョウくんといるとタカシくんを思い出す。私の心の中にはタカシくんがいる。」

リョウは黙ってソノコの言葉を聞いている。そして大きく息を吸うとソノコは真っ直ぐリョウの瞳を見つめた。


でも、

「でも、私はタカシくんを抱えてリョウくんと生きていく。」



病院の外に出たソノコはふと足を止める。そして思う。部屋に置いてきた財布を取りに行ってその足でスーパーに行こう。お花とタカシくんが好きだったコーヒーを買おう。それとお線香も買って、最近は白檀以外にも色んな香りのお線香があることをリョウくんに教えてあげよう。そう思った。

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