クジラは許してくれるだろうか。

今草 近々

第1話 プロローグ

彼は否定したけれどやっぱりネイビーが似合うと思う。

それはほとんど黒に近い濃紺。夜明け前の空。そんな色が似合う人だと思う。



タカシの短い髪には所々白髪がある。タカシはそれを気にしているらしく鏡をのぞいては

「また増えた気がする。」とひとりごとを呟く。

ソノコはタカシのその白髪を「セクシー」だと思いとても気に入っている。そしてどうかそのままに染めないで欲しいとタカシにねだる。そんなことを言う女性はソノコくらいだとタカシはため息をつくがソノコの希望どうりタカシの髪には白髪がある。


二人が高校生だったときから十二年後、本屋で偶然再会したタカシとすごい久しぶりね!とあいさつを交わしたソノコが次に言った言葉は

「髪、すごく素敵ね。」

であったことをソノコは記憶している。その言葉の次のタカシの答えが

「ありがとう。」

で、そのありがとうにはよどみがなくとても清潔に響いたのでソノコはよく覚えているのだ。

タカシはというと「モデルみたいなひとがいる。」と思ってふと顔を見たら見覚えのある目の下のホクロに気づいたという。そして「ソノコは相変わらず変わっている。」と思ったと付き合いはじめてから言いづらそうに告白した。けれどそれと同時にとてもホッとしたんだと嬉しそうに話してくれたことがソノコは嬉しかった。


タカシはネイビーが似合うとソノコは思う。黒に近い濃紺。

濃紺の無地の半袖ティシャツに履き古したタイトなカーキ色のカーゴパンツ。そのスタイルのタカシがソノコはとてもすきだ。そしてティシャツから出ているたくましい二の腕に自分の腕をからませるとしあわせな気持ちに包まれる。

一歩違えるとワイルドになるカーゴパンツはタカシがネイビーのシャツと合わせるととても上品で黒ぶちの眼鏡とも合った。なによりネイビーには白髪がとても映えた。しかしタカシはそれを「一層際立たせている気がする。」と、ネイビーをすすめるソノコにいつも苦笑するのだった。









本棚の埃をかぶった大量の本とCD。その本棚の所々に置かれたソノコには名前のわからないキャラクターのフィギュア。床の上に重ねられた雑誌や専門誌。 空のペットボトル。セミダブルのベッド。その横に脱ぎ捨てられたリョウとソノコの服。枕元の黒い置き時計。


リョウが一人で暮らすマンションの二階の部屋。寝室の空気はひやりと乾いて軽くエアコンの音だけが響いている。

昼間ソノコが洗濯をしてたっぷりと夏の天日に当てた水色の綿のシーツは清潔でサラリとした感触がする。


筋肉をまとったリョウの引き締まった太ももはシーツと同じようにサラリとして気持ちがいいとソノコは思った。

ソノコは白く細い太ももをリョウのあぐらの上にあずけ、抱きしめたリョウの肩越しに窓の外の夕暮れを見ていた。

ブルーとピンクに染まった空と雲。ソノコは今日も一日天気が良かったことを思い出す。夏はもうすぐ終わる。


リョウのあたたかいくちびるがソノコの首すじを肩を胸を、ゆっくりとすべりおちていく。触れるか触れないかの距離でそっと当てたリョウのくちびるから吐く息がソノコの胸の産毛を震わせた。リョウが支えている背中の骨ばった大きな手があたたかい。とソノコは思う。


リョウの髪の中にソノコが鼻を埋めると乾いた夏の匂いがした。


いまだ消えない嗅覚からの記憶が「懐かしい」と私に訴えてくる。

瞬間、懐かしさという衝動がソノコの全身の細胞を覆い尽くし心臓を握りつぶす。

ソノコは心臓をつぶされる苦しさに息を止めて目をとじると、優しく目を細めて笑うタカシが見えた。耳元で愛してるとささやく声は消えてしまいそうに淋しく響く。


「タカシを思い出す?」

ソノコの胸に顔を埋めたリョウの声がくぐもって響く。

兄弟といってもずいぶんタイプが違う二人だけれどそれでもこの弟は時々兄の面影と重なるときがある。目をそらしたくなるほど、思わず息を止めてしまうほどタカシと重なる。






母親を早く亡くしたタカシはとても大人びた高校生だった。

学校から駅まで歩く道の途中「弟がいるんだよ。3つ下にね。」とソノコの手を握り前を向いたまま大切な宝物のことを打ち明けるように呟い た。

やんちゃで手を焼いているとため息をついて嘆くその声にはしかし深い愛情がにじむ。タカシくんの包容力の原点はそこだったのね。と、ソノコはしみじみと納得して背の高いタカシの横顔を暖かい気持ちで見上げた。

高校生の拙さでどちらからというのでもなく、未完成のまま終わってしまった幼い恋愛だった。しかし十二年後思いがけす再会し二度目の恋に落ちるのに時間はかからなかった。タカシを抱きしめる度にソノコは深い愛に包まれる。幸せだった。


ある日タカシが一人で暮らすマンションの部屋にソノコがいくとソファで雑誌をめくっている男がいた。「弟。リョウくん。」とタカシに紹介されて軽やかに立ち上がったその男は長身の兄と同じくらい背が高かった。手足の長いところも兄とよく似ていた。

元々は短かったのが少し伸びてしまったのであろう髪を耳にかけている。その黒い髪は存外柔らかそうだとソノコは思った。色あせた水色のデニムの少しだけ綻んだ裾から見える骨ばった左足首に手作り風の赤いミサンガがみえた。太陽を沢山浴びていそうなたくましい腕。シルバーの武骨な腕時計はタカシのそれとよく似ている。


着ている真っ白なティシャツそのままのような清潔な発音で男は「こんにちは。」といい笑った。「とても低いけれど上品で妙に色気のある声」とソノコは思った。笑うと目が細くなるタカシの笑顔に似ている。色素の薄い緑がかった目。その無邪気でやんちゃそうな目はしかし、いつも真っ直ぐに誠実に相手を見つめるタカシの目ととても似ていた。

男の目を見てソノコは「こんにちは。」と返す。

「ソノコ。きれいな名前だね。」

と言って屈託なく大きな右手を開いてソノコに伸ばした。ソノコも白く細い右手を伸ばし男の手に重ねる。その時のかすかな心の軋みにソノコは気づかなかった。


その日から二人のそばにはリョウがいた。

タカシの部屋にいくとリョウがソファでうたた寝をしている。ソノコが作った食事を三人で食べる。出掛けるときにタカシが運転する車の助手席にリョウが座る。ソノコは暖かい幸せを感じていた。しかしその正体のわからない幸せからソノコは目をそらし続けた。



珍しくリョウが不在の休日。

タカシの運転で車を走らせているとソノコが座る助手席の窓から自分達と同じ年くらいであろう男女が手を繋いで歩いているのが見えた。

「リョウくんて最近しょっちゅう私たちといるけど、彼女とかいないのかしらね。」

とソノコはタカシに話しかけた。長い赤信号。タカシはハンドルに手をおきソノコを見ることなく前を向いたまま

「いないんじゃないかな。」

と短く答えた。お喋りで賑やかな弟と違い口数の少ない穏やかな兄は常にゆっくりと丁寧に大切に言葉を紡ぐ。ソノコにかけられる言葉は電話ごしでさえもあたたかく質問をしているような語尾のあがる甘い響きにソノコは眠くなるような安心感を感じるのだった。


しかし、その時答えたタカシの言葉の響きはとても冷たくめったにみせることのない怒りの音にも聞こえた気がした

「そう。モテそうなのにね。」

ソノコが笑いかけるとタカシは何秒かの間を置いてから深く長い息を吐き

「好きな人が、いるんだと思うよ。」

と弱く笑った。

今まで1度も見たことがない笑いかた。泣き顔のような笑顔。その笑顔に胸が苦しくなったソノコは思わずタカシのたくましい二の腕に触れようと手を伸ばし、そしてやめた。

タカシのネイビーのテイシャツから清潔な匂いがする。


一瞬でいいから今、その腕で胸のなかに包み込んで欲しいと思った。今。

優しいタカシはソノコが求めると笑って目を細めそれを叶えてくれることを知っていた。

でもソノコは求めなかった。





「くじらはね、」タカシが呟く。


外出からタカシの部屋に戻りソノコは自宅に帰る支度をする。

部屋をあとにする前に十センチ近く背の高いタカシの腰に腕をまわしソノコはティシャツの裾から手を滑り込ませる。さらさらした肌。腰から背中、背骨にふれる。ティシャツの上からタカシの胸にキスをして

「じゃあ、またね。家についたらLINEするね。」

とタカシを見上げる。タカシは小さく頷く。


日曜日の夕暮れ。三階のタカシの部屋の窓から見える空には昼間の晴天の名残が広がっている。思わず見いってしまうようなブルーとピンク。


窓の外を見つめるタカシの少し削げたほほ。理知的なあごの線。うっすら浮かぶひげ。きゅっと結ばれたくちびる。黒い縁の眼鏡。その眼鏡の奥にはまっすぐに前だけを見て生きる強い瞳がある。


「クジラはね、」

窓の外を見つめたままタカシは静かな声で呟く

「クジラ?」

「うん。クジラの母親は子供を産むと眠ることも食べることもせず子供を育てることだけに全勢力を注ぐんだって。」

「全勢力?」

「そう。すごいよね。自分の全てを子供に注ぐんだよ。愛情の全てをね。子供だけに」

愛情の全て。ブルーとピンクの雲の海にクジラの親子が泳ぐ姿を見ているのだろうか。タカシの声は細く消えそうだった。ソノコは目を閉じて深い海のなかを寄り添って泳ぐクジラを思う。そしてタカシと似た目をした男の笑顔を思いだしそれを打ち消すように微かに首をふると目をあけ

「クジラの子供になりたい?」

と茶化すようにタカシに問いかける。


それには答えずふふっと微笑むタカシの目はまだクジラを追いかけている。タカシのそのとおくを見つめる瞳のなかにあるもの。それの正体を知ってソノコは手を伸ばしタカシのほほに触れた。タカシは夕暮れの雲の海を見つめる視線をソノコに向けると優しく目を細める。

ソノコはその瞳を短くみつめてからタカシの首に腕をまわした。


「まだ帰らないでほしい。」と珍しく甘えるタカシをソノコは抱きしめる。白髪の混ざる短い髪のなかに鼻を埋めると乾いた夏の匂いがした。


「愛してる。」

タカシの声がソノコの耳元で響きそして消えていく。

この人のクジラになれたらいい。

なれたらいい。

なれたらいい。

ソノコは何度も心の中で呟く。

タカシの瞳のなかに見えたとても苦しいそれを消すように何度も呟いてタカシを強く抱きしめる。


この人のクジラになれたらいい。


けれどもうソノコの思いがタカシに届くことはない。

タカシからの電話がなることも、タカシの髪や肌に触れることも。

愛してるのささきも名前を呼ぶ優しい声も、ソノコを見つめるタカシの目を覗きこむことも、もうない。

リョウからの「タカシが事故にあった」という電話の声を聞いたごく最近のできごとをソノコはとても遠く感じる。






「タカシを思い出す?」

リョウの確認でない確信の声はひとりごとに近い。

「こんな空を何時だったか二人で見たの。キレイなブルーとピンクだった。キレイすぎて怖かった。思い出したの。」

「うん。」

ソノコの胸に顔をうずめたままリョウはソノコにたずねる



「クジラの話、知ってる?」

「え…」

ソノコはかすかに驚き、声をもらす


「前に、タカシが話してた。

クジラの母親は子供を産むと子育てだけに専念するんだって。食べることも寝ることもせず自分の愛情の全てを注いで。」

「愛情の全て。」

ソノコはつぶやく。

「そう。愛情の全て。タカシが言ってた。」



俺はソノコのクジラになりたい。

食べることも眠ることも忘れて全てを注いでソノコと泳ぎたいって。



「そう。」

ソノコの胸から顔をあげるとリョウはソノコの目を見つめて語りかける。


「母親クジラの方になりたいの?って聞いたら笑って、そうだよって。」


そうだよ、でもソノコは。

って言いかけて黙った。ソノコはなに?って聞いたら少し笑って


リョウくんも本当は母親クジラになりたいんじゃない?って。


「まっすぐ俺の目を見て言ったよ。タカシは笑ってなかった。」


リョウは振り返えると窓の外を見つめ呟く。


「俺たちはクジラにはなれなかった。」


美しい夕暮れの空。タカシが見つめていたブルーとピンクの雲の海。二頭のクジラが寄り添って泳いでいく。北の海を目指して消えていく。

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