第3話 時は飛ぶように過ぎて

「いぶきが立派に旅立つ日まで、恋愛も結婚もいいわ」

 そういう忍に、父や母はもとより、祖父母でさえ何も言わなかった。言っても無駄だと思ったのかもしれない。もしくはその内気も変わるだろうと楽観的に受け止めたのか。


 実際にいぶきが旅立ってしまえば、いぶきを覚えていない両親たちの目に映る自分の奇異さに申し訳ない気もしたが、それでも男はこりごりだと思ったのは本当だ。

 自分がもう一度恋をするとはとても思えなかったし、自分の見る目のなさもわかったから。

 先輩と元夫は入籍だけ済ませ、男の子が生まれたという(実際は籍を入れずに逃げようとしていたらしいが、どうでもいことだ)。


「あの人も、今度こそ、ちゃんとお父さんになれるといいねぇ」

 そう本気で言えるほどには、もう元夫は他人であり、他人事だった。

 新しい町で忍はしみじみと自分の見る目のなさを反省し、新しい生活に慣れるようただがむしゃらに頑張った。

 最初だけ両親と同居し、いぶきの小学校入学と同時にアパートで二人暮らしを始めた。

 そして時は飛ぶように過ぎていき――。


   * * *


 二〇一九年七月。いぶきは二十歳になった。


「お母さん、今日バイト先に浅倉さんが来たよ」

「ふーん」


 いぶきの作った夕食を食べながら、忍は適当に相槌を打つ。今日のカレーライスとサラダも絶品だ。

「普通のルーを使ってるはずなのに、どうしてこう美味しいのかしらね。うちの娘ってば天才じゃないかしら」

「ふふん、たぶん天才なのよ。好みを熟知してる、お母さん限定だけどね」

「そんなことないでしょ。あっちの世界にもカレーはあるのかしら?」

 あっちの世界とは、いぶきが大人になったらいく世界のことだ。


「どうなんだろう? なかったら開発してカレー屋さんを開こうかしら?」

「あら、いいわね。若き美人実業家!」

「美人は自画自賛ですか? 私、お母さん似なんですけど」

「いいじゃない、美人親子ってことで」

「言うわ~。こんな人だけど浅倉さん頑張れー」

「なんでそこで浅倉さんが出るかな?」

「えー、だって早くお母さん引き取ってもらわなきゃ、私安心して向こうに行けないよ?」

「じゃあ行かなくていいよ。私ずっと独身でいいわ」

「もう!」


 いつもの軽口に笑いあう。

 二人の食卓はいつも賑やかだ。




 誰にも内緒だけど、いぶきが初潮を迎えてからの日々は、忍にとっては恐怖と隣り合わせの毎日だった。

 あれは夢で、いぶきは本当は私の子なんじゃないかという希望。

 でもそれは違うという理性。

 あの何かは約束を守ってくれるのか。それを保証してくれる物は何もない。

 日本が成人年齢を引き下げると聞いたときは、本気で青ざめた。だがいぶきの年代は二十歳で成人。条件は変わらないからね! と、忍は時々何もない空間に訴え続ける。


 いぶきが中学生になって間もないころ、ぼんやりと不思議な夢をよく見ると教えてくれたことをきっかけに、あの不思議な何かの話を伝えた。おとぎ話のように。

 一瞬戸惑ったそぶりを見せたものの、いぶきはすぐに理解していた。

 本当は理解してほしくなかった。それは忍のエゴだ。

 笑い飛ばしてほしかった。あるわけないと言ってほしかった。でもいぶきは完全に理解していた。どこかで知っていたかのように。

 だから初めて大喧嘩もした。対等な立場でとことん言い合って怒って泣いて――。


「なんでそんなこと引き受けたんだって言われたって、私は、どおっっっしてもいぶきのお母さんになりたかったんだもん! 絶対幸せにしたかったの!」

 どうしてもこの子が欲しかった。期間限定でも構わなかった。

 その気持ちがなんだったのかなんて、とても説明なんかできなかったのだ。

 ただ欲しかった。抱きしめて愛して、絶対に幸せにしたかった。ただそれだけなのだ。

「そんな男前なセリフ、私は王子様みたいな人からから言われたかったよ!」

 プクッとふくれた娘に、いつか現れるわよと微笑んだのがつい昨日のようだ。結局泣き疲れたあとは、旅立つその日まで一緒に楽しく過ごそう! という、どこか仲間のような意識が芽生えた。あれも多分、娘の親離れの第一歩だったのだろう。


 だからいぶきが、いつか旅立つものとして行動していても驚かなかった。

 ほとんどの場合、誰かと二人きりで行動しないらしいことのもそのひとつだろう。いぶきが集団の中の一人なら思い出の齟齬そごも勘違いで済むだろう……と。たぶん、そんな必要はないだろうに。


 そのころ、二人で流行りの異世界転生物の小説や漫画を読みまくった。

 多分いぶきは、異世界から預かった娘。それが一番しっくりくるねということで落ち着いたから。


「その何かから、私の命が危ないから預かってほしいとかって言われたんでしょ?」

 そう聞かれ、忍は頷く。

 あの時理解できなかった内容は、不思議なくらい忍の中に残っていて、薄皮を向くように少しずつ少しずつ、年々理解できるようになっていた。

「そう。生まれた世界にそのままいたら危ないって」


「ふーん。じゃあ、もしかしたら私はどこかのお姫様で、亡命だったりして」

 いたずらっぽく笑ういぶきに、忍も笑う。

「それもロマンチックだね。王子様が迎えに来るならなおよしってところかな」

 もし亡命なら、迎えなんか来なくていいと本心では思っていたけれど。


 だけどいぶきは、いつか行く世界がどんな世界でも生きていけるようにと、勉強も沢山している。おかげでキャンプは忍も得意になってしまったのは、自分もついて行けたらと願っているからかもしれない。


 ちなみにいぶきの中学時代、いつか生きることになる世界に関する悩みは、

「せめてトイレは水洗がいいんだけど……」

 だった。ドレスの世界は楽しそうだが、現代日本に馴染んだ身としてはおまるは絶対に避けたいだろう。もしもにそなえて、水洗トイレの仕組みを勉強してたことも知っている。

「逆にめちゃくちゃ未来チックかもしれないよね」

「ああ、車が空飛んだりね。やっぱり十八歳になったら免許をとっとくべきかな?」

「どっちにしても、ここは車がないと不便な土地なんだから取ればいいと思うよ」

 離婚後腰を落ち着けたこの土地は、車は一人一台が当たり前だ。


 いぶきが料理をするとき、滅多に〇〇の素の類を使わないのも、アウトドア料理をするのも、裁縫を頑張ってるのも、数学に興味を持ったかと思えば高校は普通科だったくせに簿記の検定を取ったりするのも、すべて未来を見据えて――。

「いや、半分趣味よ?」

「うん、知ってる」

 好奇心旺盛でパソコンさえ自作するのだから、物づくりが好きなだけかもしれない。


 学びたいことや時間の関係で大学進学もしなかった。事情があって……と、今はフリーターだ。海外旅行は勧めたものの、なぜかパスポートを作りたくないと言われ却下されてしまう。

 友だちは多いのに、彼氏は作らない。それが忍には、娘が大人になる要素を省こうとしてるかのようにも見えた。




「私のことは、いぶきが彼氏を作ったら考えるよ」

 食後のデザートを食べつつ、ふと忍がそんなことを口にすると、いぶきは呆れたような顔をする。

「それはさすがに、私がいなくなった時かわいそうじゃない? たとえば私が初カノだと、カウントゼロになっちゃうのよ」

「それはそれでありのような」

「うわ、このおばさん鬼畜」

「母親捕まえておばさん言うな」

 四十歳はおばさんだけどね、わかってるけどね。


「うそだよー。ママ若い! 二十歳の子がいるようには絶対見えない! あ、これはお世辞じゃないからね? だから浅倉さんのこと考えてあげなよ」

 ふざけたときだけママと呼ぶいぶきは、一瞬だけまじめな顔に戻った。

「またそこに戻る?」

「だっていい人じゃない」

 浅倉直人は確かにいい人だ。彼とは四年ほど前、地元のキャンプ場で偶然知り合った。最初に話したのは忍ではなくていぶきで、二人は年齢を超えた「友だち」らしい。

 その直後、忍の勤める会社が移転したビルに浅倉の会社も入っていたことから、割とよく顔を合わせる間柄だ。でも、だからと言って忍と特別な関係ではない。顔見知りよりは親しい。友だちと言ってもいいくらいには。

 ただいぶきが知ってる男性で忍の年に近いのが彼だから、冗談半分言ってるのだろうなぁと思い、いつもネタとして話半分に流している。


「浅倉さん、年下だしなぁ」

「二歳だけじゃない」

「男女逆ならそうかもね。でも男の人にとっては、おばさんよりピチピチの若い子のほうがいいわよ」

「ピチピチって……」

 言葉のチョイスがおばさん過ぎとでも言いたげないぶきに、余計なお世話と目で言い、食後のお茶を淹れることにする。実際彼は、こんなおばさんとの未来を考えなくてはいけないような男性ではないのだ。


「それより、今日はあれないの? なんだっけ。成人式の」

「実行委員会ね。あれはまだ始まってもいないよ」

 いぶきは去年、友人の美奈子ちゃんに誘われ、市の成人式のための実行委員会とかいうものに参加していて、今年も継続するという。文化祭の委員のようなものらしい。市の行事だが高校卒業以上の一般ボランティアが作るのが、この市の成人式の特徴だ。いぶきが参加しているのは、二十歳で参加できないことも考えてのことだろうか?

 刻一刻と別れが近づいていることに胃がよじれそうだが、お互い表には出さない。


 かぐや姫を育てている気分とでもいうのだろうか。

 実際、一部の人から娘が「難攻不落のかぐや姫」と呼ばれていることは、忍の耳にも入ってきていた。告白されても誰とも付き合わない。かぐや姫と違って条件を出すわけでもなく、ばっさりと断ってしまう。しかも理由が「結婚の約束をしてる人がいるの」ときたものだ。


 ――でもいぶき、それは幼稚園のときの話でしょ。


 ただ断るだけだと、しつこく付きまとわれることにうんざりしたからだと言うが、それにしたって本気にするやついる? しかも相手の顔も名前も覚えていないらしいのに。

「たあ君、だった気がするけど……。父方むこうのおばあちゃんなら覚えてるかもね」

 そう笑ういぶきに、ふと、恋も知ってほしいと思ってしまったのはエゴだろうか……。自分は失敗したくせに身勝手なのは分かっているけど、いぶきは賢いから自分のようなことにはならないだろう。

 でもそんなことを言ったら、また話が堂々巡りするだろうし……。

 そんなことを考えてた忍に、ピコンといい考えが浮かんだ。


「ねえ、いぶき。初カノがアウトなら、モテまくってる人とかどうよ。付き合った中の一人ならセーフじゃない? お母さん、いぶきの彼がイケメンだと嬉しいなぁ」

 もちろん、その初恋のたあ君でもいいけど。

 幼稚園のお迎え関係は忍はほとんど関われず、行事は参加したものの、たあ君がどの子だったかは全く覚えていない。年中でやめたので、その幼稚園の卒園アルバムさえないのが残念だ。


「はあ? それが母親の言うことですか? まったく。――お母さんに彼氏が出来たら考えてみるよ」


 あ、やっぱりそうなる?

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