第2話 娘
出生届けさえきちんと出したにもかかわらず、忍にはあの出来事を夢だと思うことはできなかった。母が言うには、娘は忍の赤ん坊のころににそっくりだというのに。
死産だった娘は、双子の片割れとして生まれてすぐ亡くなったことに変わっていた。死産届けではなく、戸籍を作ったうえでの死亡届に変わった。あの謎の何かと会った時、そうなればいいとぼんやり考えてたことが叶っていたのだ。
確かにあの子がいたという事実が形として残ったことに、胸の奥がどうしようもないくらいに震えた。
子どもたちの名前は、実母と姑が相談し、
「“いぶき”なんてどうかしら?」
と提案してくれたものだ。二人は親子ほどの年の差だったのに、とても仲が良かった。夫は名づけにも無関心だったが、母たちの提案は忍の好みにもあったのでそのまま名付けた。
いぶきは春の息吹。
七月生まれだったが、この子の人生に花が咲くように、緑あふれるように、幸せがたくさん訪れるようにと願った。
漢字の候補もあったが、あえて平仮名でつけた。
一方亡くなった娘には「
離婚は悩んだ。一人で育てられるかということもあったが、まだ夫には愛情が残っていたのだ。いや、多分信じたかっただけだ。心から好きになり、一生を共にしたいと思った相手だから信じたかった。あのひどい言葉も、親になる不安から来る一時の迷いだと思いたかった。自分よりずっと年上でも、思っていたほど彼は大人ではないんだと考えるようになっていたし、漠然と自分がしっかりしようと考え始めていた。
だがそれでも、子どもの命を簡単に考えていた男が父親になれるのだろうか? との思いが常に心の中にあったのは確かだった。
母はそんな忍の気持ちに寄り添い、「縁あって一緒になったのだから、少し様子を見よう」と励ましてくれた。子どもと一緒に親も育っていくものなのだと。
だが子どもを育てながら忍が理解したことと言えば、夫だったはずの、頼れる年上の男だったはずの夫は、妻の関心が自分よりも子供に行くのが許せない幼稚な男だったことくらいだろうか。
それでも幸いなことに、夫の両親は忍の味方だった。
年を取ってからできた一人息子だったから甘やかしすぎたと、孫のような年の忍に何度も頭を下げた。
その後、美容師を諦め別の職種に働きに出たときも、保育園激戦区で幼稚園しか選択肢がなかった時も、相談に乗り助けてくれたのは夫ではなく、同じ町に住む姑たち。離れて暮らす実両親にかわり、幼稚園のお迎えも、忍が迎えに来るまで娘の面倒も見てくれた。
いい人たちだった。
たくさん助けてもらった。
いぶきもおじいちゃんおばあちゃんが大好きだった。
だからこそ、彼らから孫を引き離すことをためらった。
いぶきは大きくなるにつれ、夫……というより、老いても華やかな美人である姑に似てきた。夫は母親似だ。
「パパとママのいいとこどりって感じの美人さんだね。将来はモデルさんかな?」
周りがそう褒めてくれるせいか、夫は自分の「血」を感じはじめたいぶきに、少しずつ関心が出てきたようだった。
誰が見ても二人の子にしか見えない。それでも忍の理性は、かたくなに「この子は預かった大切な子」という意識を捨てないよう気を付けた。私を信じてもらって預かった大切な子どもなのだと。
「目元、俺に似てるよね」
「そうね」
本当によく似てる……。
このまま、本当の親子として幸せに暮らせるのではないかと、夢見た瞬間がいくつもあった。夫は娘が可愛いことだけは自慢だったらしく、時々店に連れて行っては、子どもを可愛がっているアピールをしていたものだ。
でも夫にとって一番大切なのは夫自身であることは変わらなかった。
忍が二十四歳のとき、夫との離婚が成立した。
いぶきの四歳の誕生日が過ぎてすぐのある日。夫の不倫相手が忍のもとに乗り込んできたのだ。相手は、忍たちの結婚式で忍にヘアメイクをしてくれた先輩だった。
「お願い、彼と別れて。子どもが出来たの」
そう訴える彼女は真剣だった。この子には父親が必要なのだと。
「なら、うちの子には父親がいなくてもいいと?」
単純な疑問として忍がそう聞いたとき、彼女はショックを受けたような顔をした。
先輩はそのとき初めて、いぶきが彼の子であることを現実のものとして認識したのだという。
彼が既婚者で、その結婚式にも参加していた先輩。その花嫁のヘアメイクもしたのに。
忍がつわりで苦しんた時期もお腹が大きかった頃も見てるのに――。彼が店に子どもを連れて行ってたのに。
でもなぜか、わかっていなかったのだ。
夫は口がうまくて外面がいい男だったから、いいように吹き込まれていたのはすぐに分かった。忍としては、心のどこかで彼女を救世主とも感じていたが、それでもやはり裏切られた気持ちは否めなかった。
「忍さん、本当にすまない」
舅と姑に泣かれた。
こんないい人たちから、あんな息子が生まれるんだと不思議だった。
夫は離婚にぎりぎりまでごねたが、先輩は生まれてくる子のためにと謝罪したうえで、きっちり慰謝料を払ってくれた。
元夫からの養育費は、舅が一括で払ってくれた。返済は息子にさせると書類まできっちり用意して。
「いいから受け取りなさい。いぶきの権利だ」
「お義父さん」
どうして自分は、この人たちの記憶も残すように言わなかったのだろう。
こんなにいぶきを愛してくれたのに。いぶきもおじいちゃんおばあちゃんが大好きなのに。
どうしていぶきは、いつか消えてしまう子なのだろう。
――でも本当は、どの人だって同じことなのかもしれない。
この子が消えたとき、すべてつじつまが合うようになることを信じ、養育費は受け取った。本当に必要になる日まで、決して手を付けることはしないと決めて。
――願わくば、この人たちに幸せだった気持ちだけは残りますように。
ちょうどそのころ、忍の父の転勤が決まった。父の会社がある市の隣が母の地元だったこともあり、忍もそちらに引っ越すことにした。新しい生活は、新しい土地のほうがきっとふさわしい。
「いぶちゃん、お友達とお別れ寂しいね。ごめんね」
幼稚園でたくさんのお友達がいた娘は、幼いなりに何かわかっていたのだろう。「大丈夫」といつも以上にニコニコして、決して駄々をこねたり泣かないことが申し訳なかった。
「いぶきのお名前、さくらいぶきになるの?」
佐倉は忍の旧姓だ。
「そう。佐倉いぶきになったのよ。新しい幼稚園では佐倉いぶきちゃんって呼ばれるの」
「そっかあ。へへ。なんだかお嫁さんになったみたい」
「お嫁さんか! じゃあ、いぶきはじいじのお嫁さんになるか?」
父がデレッとしながらいぶきにそう声をかけると、娘はフルフルと首を振りお友達の名前を挙げ、結婚はその彼と約束してるんだよーと笑った。
「なんだ、いぶきにはもう彼氏がいるのか」
「うん!」
でも、その仲良しの男の子ともさよならなのだ。
「ちゃんとバイバイした?」
「うん!」
「えらかったね。もう大きなお姉さんだね」
「うん!」
――――ごめんね。
忍にとって長くもないが短いとも言えなかった結婚生活の終止符が、失望と共に小さな棘のような痛みを伴っていたことに気づいたのは、それから少し経ってからだった。
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