いつか、かぐや姫のお母さんだった話をしましょうか
相内充希
第1話 一九九九年七の月に
一九九九年七の月。
忍のもとに訪れたのは恐怖の大王ではなく、なんとも可愛い赤ん坊だった。
忍の最初の結婚は十九歳の時だ。
当時のことを考えれば若かった、の一言に尽きる。そして、あまりにも幼くて愚かだった。だがその時はそれが最善だと思って選んだのも確かだった。
いつも一生懸命に考えて、一番いいと思った道を選んできた。
間違ってることがあっても、“自分で選んだ”という、そのことが大事だと漠然と考えていたのだ。
高校を卒業して美容サロンに就職をした忍は、通信制専門学校で学びつつ楽しく働いていた。都会的でおしゃれな雰囲気。先輩方にも可愛がってもらえ、やがて店長と恋に落ちた。
一回り以上の年の差はあったけど、周りに祝福されて舞い上がりながら結婚をした。式は身内でこじんまりと挙げ、披露宴は小さなレストランで。
ヘアセットもサロンの先輩がしてくれて、結婚したときはお姫様になったような心地だったと思う。本当に世界一幸せなんだと思っていた。
でもその幸せは、突然足下から崩れた。
結婚して半年ほどで妊娠。自分の両親にも夫の両親にも祝福されたが、あまりにもつわりがひどかったために仕事を辞めざるを得なかった。学校の勉強もあまりできなかったが、それでも幸せだった。
だが忍が安定期に入ったころ、夫はとんでもないことを言った。
「ねえ、思ったんだけどさ、まだ子どもとか早いよ。おろそう?」
「え……?」
何を言われたのか理解できなかった。
近所に住んでいた義理の両親も、発狂したように夫を叱った。
「だって忍ちゃんつらそうだし。まだ新婚なんだから、今は俺だけの面倒みてればよくない?」
「つわりは、もう、大丈夫だよ?」
実際吐き気もなくなりずいぶん楽になった時期だ。顔が引きつりながら忍が夫にそう訴えても、
「でも出産って痛いんでしょ。テレビで見たけど、俺、立ち合いとか無理だし」
と、まるで本当に心配でたまらないというような顔をしていた。
大体、堕胎などできるはずがない。もう子どもはお腹を元気に蹴ってるのだ。
だがその手を忍の腹に当て、子どもの胎動を感じた夫の言葉は、
「うわ、きもっ」
だった。
呆然として立ちすくむ自分の代わりに、姑が泣いて怒ってくれた。
堕胎などできないと言っても、夫は宇宙人が乗り移ったかのように言葉がまるで通じない。絶望の淵で、一人で育てる覚悟を決めなくてはいけないのかとも考えていた。お腹の中にやってきてくれた命が、どうして物のように扱われるのか意味が分からなかった。
そのストレスが引き金だったのか。
ある日、胎動が止まった。――子どもの心臓が、止まってしまった……。
自分が死なせてしまったんだと思った。
医者には違うと言われたけれど、どうしても自分のせいだと思わずにはいられなかった。
泣きながら出産した。亡くなった子どもを産むのに陣痛を起こすのだと、その時初めて知った。実母がずっとそばにいてくれた。夫の両親も見舞いに来てくれた。でも夫は仕事を理由に見舞いには来なかった。
子どもは女の子だった――。
「もういいかげん泣くのやめなよ」
泣き暮らす忍に夫は、寄り添うどころか「ちょうどよかったよね」と笑った。忍はそのことを一生許せないと思う。どうせ死ぬならこいつが死ねばよかったと本気で思った。
泣いて泣いて泣き続け……。
ある日不思議なことが起こったのだ。
夢の中だろうか?
気付くと忍は何もない空間にいた。
明るくも暗くもない。上も下もない。自分の体でさえどこにあるのか心もとない。なのに不思議と怖くはなかったのは、どこか優しい空気を感じたからだろうか。
そこに何かが現れ、話しかけてきた。それは忍が知る言葉ではなかったが、なぜか理解できた。
その何かは、忍に子どもを育ててほしいと必死に頼んでいた。
事情の部分はまるで理解できないものだったが、それだけは分かった。
この子どもが成人するまで育ててほしいこと。
成人したら迎えに来ること。
「かぐや姫みたい」
そう呟いた忍に、その何かは肯定も否定もしなかった。
成人したこの子どもが忍のもとから消えたとき、世界からその子の記憶も記録もすべて消えるという。もちろん忍の記憶からも。
子どもが成人するまでに起こった出来事は、すべて何かしら辻褄が合う結果になる。何も心配しなくていい。ただ大事に育ててくれればいいと。
このままではこの子の命が危ないのだと――その必死さが伝わってくる。
そっと抱かせてくれた赤ん坊の確かな重さと温かさに震えた。
「可愛い……」
娘が帰ってくるのだと思った。
違うのは理解していた。けど、違わない。
スゴイ速さで脳みそが回転するのを感じる。
育てても、手元には残らない子。将来自分も、ほかの誰も覚えていないことになる子。そんなことありえないと思うのに、実際そうなることがはっきりと理解できた。
それでもこの手にこの子抱きたい、育てたいという願望が、抑えきれないほどにあふれてくる。
自分自身が未熟なくせに。救いようもないほど愚かなくせに。
でも、でも!
私はこの子のママになりたい!
「いいわ、育てる。育てたい。でも条件があるわ」
忍の心は、その何かにとって丸見えだったかもしれないが、つとめて冷静な口調でそう言った。
一生懸命一生懸命考えた。
「日本では、二十歳の誕生日と成人式の両方を迎えて初めて成人なの……」
思わずこぼれた言葉は、その年の一月に自分自身の成人式があったからだろうか。参加はできなかったが、友人たちの写真をたくさん見せてもらった。
何かの言う「成人」がとても曖昧なことに気が付いたから、一秒でも長くこの子どもと一緒にいられる方法をひねりだしたのだ。
「だから、それまでは私が育てるから、それまで勝手に連れて行かないでね」
その何かは、少し逡巡した後了承してくれるので、少しだけほっとした。
「あともうひとつ。これは絶対守っってほしいんだけど。私の記憶は、
不思議なことに、その何かが忍を気遣うのを感じる。
――ああ、そうね。
その優しい空気に、忍は我知らず微笑む。
世界からこの子の記憶も記録も消えたなら、何もかもを覚えている忍は、空想の世界で生きる哀れな女になるだろう未来が見えた。その何かが見せてくれたのかもしれない。
「それでも構わないわ」
だって、お母さんだよ? 親が我が子を忘れるなんてありえないでしょう?
「私はこの子の母親になりたい。なる! だからこの条件を飲んで」
子どもを腕に抱いたまま必死に訴える忍を、何か温かいものが包み込んだ。
理解できない様々なこともあるが、訴えは聞き入れられたのだとわかった。
「大丈夫。大切に育てるから。任せてくれたことを、後悔なんてさせないからね。安心して……」
安堵して目が覚めたとき、忍は産院のベッドに寝ていた。前日に普通に出産したことになっていたのだ。
ベッドの横の小さなベビーベッドでは、確かな命がスヤスヤと安らかな寝息を立てていて、忍の目から涙が一筋だけこぼれた。
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