第2-1話 盗まれた身体
ネイラの病室には、人型にくりぬいたベッドがあった。ムーンピープルのメンテナンスセンターがクライオニクス・ステーションの隣だったので、ネイラはすぐに担ぎ込まれて修理されたのだった。
音乃はネイラのベッドの横のテーブルで見舞いの品のリンゴを剥いていた。担ぎ込まれたときは、右肩が酷く破損していたが、さすがはサイボーグである。部品交換ですっかり元通りになっている。ネイラのベッドは、同じものを音乃は寮のネイラの部屋で見たことがあった。その時は、ベッドではなく、クレイドルと呼ばれていた。
ネイラはクレイドルの中で裸で横たわっている。
要するに、サイボーグのメンテナンスや調整を行うドックである。腕を付け替えて、機能的にはネイラは元通りになったが、神経の接続やアライメントに数日の入院が必要とのことだった。
「ネイは頭をぶつけたのに、脳みそは大丈夫だったの?」
ネイラは頭から落下したので、頭部をコンクリートにこすりつけたのだ。ヘルメットを模した頭蓋シェルの透明部分に小傷が入った。ネイラはそれが気に入らず、コンパウンドで傷を消そうと躍起になっているのだった。ベッドの横のテーブルには、耐水ペーパーとセーム革、コンパウンドのボトルが置いてあった
音乃はりんごを8つに切ると、ひとつずつ口に放り込んだ。
「ガラスみたいに見えるかも知らんけど、頭部のシェルはこのボディで一番頑丈なんやで。あと、頭の中に最低限の生命維持システムが組み込まれてるから、首だけになっても死なへんねんで」
音乃は気の抜けた声で
「りんごおいしいねぇ」
サイボーグのシステムには、関心がない様だった。
「頭部には、ビーコンもあるから10年くらいは宇宙空間に放り出されても回収されれば生き返れるんや」
「すごいねぇ」
音乃にはどうでもいい話だった。
ネイラはベッドに横たわったまま不機嫌な声で答えた。
「フルーツ全部食べたらあかんで」
「かたいこといわないでよ。どうせあんたは食べられないんでしょ」
「まあな、バッテリーさえあれば、食事も呼吸も必要ないんや」
天海島では、フルーツは貴重品である。
「お客さんが来たら食べてもらうんや、残しといてや」
「サイボーグでも匂いはわかるんでしょ?
メロンの香り嗅ぎたくない?」
「切らなくてもいいよ十分いい匂いや」
「生身に戻るまで食べる楽しみがないなんてやっぱり、私にサイボーグは無理だわ」
音乃はリンゴを一つ平らげて言った。
音乃は次にバナナに手を伸ばした。実はバナナを見るのは初めてである。
皮を剥きやすい持ちやすい食べやすい。おいしい。こんな奇跡のような果実が勝手に生まれてきたとは、進化とはすさまじい。
音乃はバナナをほおばった。こんな美味いものがこの世にあったとは。チョコやアイスのフレーバーでしかこの香りは知らない。比較にならない美味さだ。
高機能携帯端末スマッホの呼び出し音が鳴った。音乃のものではない。ネイラだった。
ネイラが応対する。音乃は悪いと思ったが、聞くともなしに聞いていた。どうやらネイラの両親からの通信のようだ。ということは月からか。ネイラの両親は先に月面年に移住している。ネイラはビザが下りなかったらしい。
「え?え?何それ……?」
ネイラが絶句した
ネイラが通信を切った後、音乃は尋ねた。
「なにかあったの?」
「あたしの身体が行方不明や。もうすぐ警察がここに来て話を聞くと言ってる」
「身体が行方不明って、じゃあずっとムーンピープルのままってこと?」
「見つからんかったら、一生機械の身体や」
つまりネイラはもう一生バナナが食べられないということか。それは大変だ。
音乃は初体験のバナナに感動して、思考の基準点がバナナになってしまっていた。
間もなく、来客を告げるベルが鳴ったので、音乃は退散した。入れ替わりにいかにもな人たちがネイラの病室に入っていくのが見えた。
音乃が通路の長椅子で待っていると、チャコールのスーツの男が話しかけてきた。
「ネイラ・スカイリンさんのお友達?」
「クラスメートです」
「いや、スカイリンさんの病室から出てくるのが見えたから、お知り合いかと」
音乃には男の風体がいかにも事務屋に見えた。
「警察の方ですか?今、ネイラは事情聴取を受けているようですが」
「私は保険屋ですよ。ネイラさんの生身の身体が失われたので、補償できる内容を説明に来たのです」
「今の技術なら、移植用の臓器で人体くらい作れるんじゃないですか?」
「そんな簡単にはいきませんよ。ばらばらの部品を全部集めると莫大な価格になりますし、部品をつないだだけでその身体が正常に機能する保証はありません」
「じゃあ、クローンで身体を全部作って脳を移植すればいいのでは?」
兵頭は首を横に振った。
「確かに、現在の知見では脳はミニマムな人間とされていますが、その方法は無理ですね。
クローンがまともな人体になるには、脳が絶対に欠かせません。脳とは、成長に不可欠なホルモンや多くの化学物質を合成する内分泌器官なのです。そして、脳があると、クローンであろうとそれは一個の完全な人間なので、脳を除いて移植するようなことは禁じられているのです」
「じゃあネイラは」
「ムーンピープルのまま一生過ごすか、もう少し生身によせた外見のボディに乗り換えるかですね。もちろんその場合は、弊社が生涯のメンテナンス費用を負担しますが。定期的なメンテナンスなしでは、ムーンピープルやサイボーグは生きていけないのです。ネイラさんが今後についてどんな選択をするか、ご希望を伺いたいのです」
音乃はつぶやいた、
「なんだか可哀そう。ボディを作った会社が潰れたらどうなるの?」
「生身も同じことですよ。地球の生物は、地球という環境のバックグラウンドに支えられ生きています。植物や獣肉も、地球という環境があって初めて存在するので、地球環境なしでは人間は生きていけません。
ムーンピープルも同じで、地球の工業文明のバックグラウンドがないと生存できないのです。彼らに同情する必要はありません」
ネイラの病室から、男たちが出てきた。
入れ替わりに音乃と兵頭が部屋に入った。
ネイラは怒気を孕んだ声を上げた。
「あたしの身体は盗まれたらしいわ。ビルの残骸から、あたしの身体を保存していた容器の破片も身体の痕跡も見つからないらしいんや。つまり、爆破される前に誰かがあたしの身体を持ち去っていったってことや」
兵頭は、ネイラに名刺を渡して挨拶をすると
「それでは、私がお邪魔するのは少し早かったようですね。調査部からの報告を受けてから改めて伺います。盗まれた身体を探すのが先ですね。ご両親とは連絡を取っておりますので、何かお困りのことがあればお気軽にご相談ください」
兵頭は会釈すると、部屋を出て行った。
「もう一本もらうわね」
音乃はバナナをもぐと、皮をむいて食べ始めた。
「身体を盗むってどういうつもりなのかしら?一昔前なら、移植用臓器とか考えられるけど、幹細胞クローンで自由に移植臓器が作れる時代に、わざわざ中古の人体の臓器なんか欲しがる人がいるかしら?」
「ありえへんわ。あたしの生身の身体でないとダメな事って何やろう?」
「警察が捜査に入ったらしいけど、人体なんてそんなに気軽に持ち出せるものじゃないでしょうし、意外とすぐに見つかるんじゃないの?」
「見つからへんかったらどうしよう?ずっと機械の身体やで、クローンで生の身体とか作られへんのかなあ?」
「それはダメらしいよ。知らんけど」
音乃はさっき聞いたばかりの話をネイラに説明した。音乃はネイラが生身の身体に執着があるとは思っていなかったが、どうやらそうではなかったようだ。十分理解できる話である。
「病気にもならないし、サイボーグでいいんじゃないの?」
「サイボーグになったら、ノウちゃんとはお別れで、地獄のリハビリをこなさないとダメなのよ。絶対ごめんだわ」
外見はDNAから成長状態を割り出して、作るらしい。
「ちなみに、今ついてるこのマスクは、本物のあたしの顔をスキャンして作ったオーダーメイドなので、生身のあたしもこの顔よ」
「そんな白塗りの顔だったら気持ち悪いわ。ファンデーション塗ってあげましょうか?」
「いらないわよ。DNAから作った顔だと、やっぱり実物とは誤差が大きいらしいよ。歴史がないというか、人間の顔は成長過程でぶつけたり傷ついたり刻印が付くものでしょう?あたしのこの顔は16年の人生の積み重ねなのよ。歴史が違うわ」
「あんたの人生がそんな歴史を背負ってるとは思えないけどね」
「酷いことを言う。40を超えたら自分の顔に責任を持てっていうじゃない?」
「それは男の話だし、40までは顔に責任がないってことじゃない?私がブスだったら、親のせいってことよ」
「そんなにフルーツをガツガツ食べてたら、間違いなく本人の責任やで!」
ネイラはテンパっているようなので、音乃は退散することにした。
「何か欲しいものがあれば買ってきてあげるけど?」
ネイラは返事をしなかった。
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