最も悲しいこと

増田朋美

最も悲しいこと

最も悲しいこと

ある日、蘭は一人でスーパーマーケットに行った。ちょっとお中元を贈らなければならない用事があったからである。お中元と言っても、今年は、発疹熱の影響で、送るか迷ったけれど、毎年のことだから、送らなければならないと思って、スーパーマーケットに行ったのである。まあ、お中元なんて、送らなくてもいいという人が多いけど、蘭は昔ながらのこういうことは大切にしなければならないなと思っている。

お中元を贈るための商品を選んで、サービスカウンターに行って、送ってもらうための手続きをとり、とりあえず、来月になったら必ず届くようにしてくれと、念を押して、カウンターの人に礼を言う。

用事を済ませて、蘭が、スーパーマーケットの入り口から出ようとしたところ、目の前を五歳くらいの少年が、走り去っていった。それを、警備員の制服を着たおじさんが、ちょっと待て、ちょっと、と言いながら追いかけている。

「ちょっと待て!ちょっと待て!店のものを取るなんて、やってはいけないよ!ちょっと、僕!」

と、警備員のおじさんは、彼の襟首をつかんだ。少年は、ごめんなさいも言わないで、まるで赤ちゃんみたいに泣きじゃくった。

店のものを取るなというのだから、子供が万引きをしたのだろう。警備のおじさんが、警察に連れていく前に、何か事情を聞いてあげることが、必要なのではないかと思った。

「あの、なにかあったんですか?」

と、蘭は聞く。

「いやあねえ、この子が、売っていた弁当を、取って食べようとしたものだからね。いくら子供とはいえ、万引きはダメだよ。ちゃんと、謝ってもらわないと!」

と、警備のおじさんは答えるのであるが、蘭は、その少年をしげしげと観察した。年齢は、たぶん五歳くらいだと思うんだが、あれれ、と思われるほど、体が小さくて、ちょっと、やせぎすなのではないか?と思われるほどである。

「ちょっと待ってください。いきなり、謝らせるのもどうかと思いますよ。もしかしたら、何かわけがあるのではないかもしれないじゃないですか。確かにしたことは悪いかもしれないけど、いきなり謝れと迫るのはまずいのではないですか?」

「そう、、、だねえ。」

と警備のおじさんは、蘭の発言を聞いて、なるほどという顔をした。

「まあ、五歳くらいの幼児ですから、悪意を持って、万引きしたということは多分ないでしょう。後は僕たちで何とかしますから、今日は、見逃してやってくれませんか。」

「そうやって、小さい子供だからと言って甘やかすから、、、。」

と警備のおじさんは言うが、

「ですが、僕は、傷つけないほうがいいと思うんです。」

と、蘭はきっぱりと言った。その少年の顔が、蘭が話している時に何も変わらないというのが気になった。

「誰か一人でも、彼のいうことを信じてやる大人がいれば、もう万引きもしなくなるんじゃありませんんか。」

蘭がそういうことを言うと、警備のおじさんは、

「じゃあ、あとは頼むわ。そういうことばっかり言っているから、少年犯罪も減らないと思うんだがなあ。ほら、この間の、どこかで起きた、集団暴行事件だってそうだったような、、、。」

なんて言いながら、引き揚げて行ってしまった。多分、蘭といくら口論しても、無駄だと思ったのだろう。

「よし、おじさんと一緒に、ご飯を食べよう。」

蘭は、少年に言った。

「本当?」

と答える少年。蘭はもちろんさといった。それを聞いて、少年は、ちょっと安心してくれたようだ。蘭はタクシー乗り場へ少年を連れていき、待機していたタクシーに二人で乗って、とりあえず、自宅ではなく、杉ちゃんの家に行く。蘭は自分では料理ができないので、こういう時、杉ちゃんがいてくれるのは、ありがたい話だった。

「おーい、杉ちゃん、ちょっと子供向けのさ、甘口のカレーを作ってやって、食べさせてやってくれないかな。」

と、言いながら部屋に入ると、杉ちゃんは、おう、わかったぞーと言って、すぐにカレーを作り始めた。すぐできるように、作ったカレーはキーマカレー。蘭は少年にここに座って、というと、少年はやっと五歳児らしい笑顔を見せてくれた。

「ほら、できたよ。カレーだよ。」

と、杉ちゃんが彼の前にカレーの皿を置くと、少年はいただきますも言わないでものすごい勢いで食べ始めた。

「すごい食欲だな。」

と杉ちゃんが言う。蘭は、やっぱり、万引きをした理由は、それだったんだなと確信して、

「ところで君の名前なんて言うの?」

と聞く。少年は、理と名乗った。年は幾つと聞くと、五歳といった。よく見てみると、靴に漢字で理と書いてあった。ということは、幼稚園にでも通っていたのかなと思うのだが、、、。

「じゃあねえ、理君。君はなぜ、あそこでお弁当を万引きしたのかな。あそこのお弁当は、お金を払わなければ食べちゃいけないことくらい、知っているよねえ?」

と、できるだけわかりやすく、理君に、万引きをした理由を聞いてみる。

「聞き方が悪いんだ。こういう風に聞けばいいじゃないか。最後にご飯を食べたのはいつだった?」

杉ちゃんが、もっとわかりやすい質問をした。すると理君は、

「わかんない。」

とだけ答えた。小さな子供なので、日付の感覚もないのかと思われた。

「じゃあね、理君。君の家は、どこにあるの?たとえば、隣が食べ物屋さんとか、そういう風に特徴を言ってみてくれないかな?」

と、蘭が聞くと、

「わかんない。」

と答える。

「学校とか、幼稚園とか、保育園には通っていたの?」

と杉ちゃんが聞くと、

「保育園にはいた。」

とだけ理君は答えた。となれば、今時の時間保育園は稼働している時間帯である。そうなると、保育園から逃げてきてしまったのだろうか?しかし、あれほどの食欲を示しているとなると、何日かご飯を食べていないということになる。保育園に通っていれば、ご飯というものは、必ず食べているはずだから、たぶん、保育園には通っていないと思われた。

「保育園にはいたけれど、中退しちゃったのかな。」

と杉ちゃんが言った。

「それじゃあ、保育士なんかが、怪しいと思うはずなんだが?」

確かにそうである。もし、保育園に通っているのなら、家の生活はどうかとか、そういうことを少しでも聞くはずである。蘭は、不思議な顔をして、なぜここにいるのか、首をひねった。

「まあ、保育士も激務だからなあ、一度中退してしまうと、もうその子のことは、かまわないってことになると思うけど。其れにしてもおかしいよ。こんな真昼間の時間にさ、子供が万引きをして、ここに来るなんて。」

と、蘭は、腕組みをして考え込んだ。

「とにかくさ、理君を親元へ返さなければならないんじゃないか?」

「いや、それはどうかな。」

と杉ちゃんが言った。

「かえって、親のところに返したら、またご飯食べさせてもらえなくて、万引きを繰りかえすようになるぜ。」

「そうだねえ、、、。でも、子供は親の元に返すのが、一番なんじゃないの?」

と蘭が言うが、

「だけどねえ、僕はそうしないほうがいいと思うよ。そのほうがよほど彼にとってはいいんじゃないの?」

と、杉ちゃんは言うのであった。それに対して蘭は、

「しかし、杉ちゃん、僕たちは、こういう体なので、子供の世話はできないしねえ。」

と、現実的なことを言う。

「まあ確かにそれもそうだ。でも、僕は理君のことを考えれば、家族のもとにもどさないほうがいいと思うよ。だから、安全なところに連れて行ってやるのが、一番なんじゃないの?」

と、杉ちゃんは言った。

「警察署も、児童相談所も、こういう時には全く役には立たないよ。だから、こういう時にはちゃんと行動に移せる、時間的にも経済的にも余裕のある、篤志家を探すのが一番だと思うよ。」

「篤志家ねえ。そんな古臭い言葉を使ったって、そういう人は現れるかな?杉ちゃん時々、現実を無視したこと言うから。」

と蘭はあきれて言うが、

「無視というか、そういうことをしなければ、理君はここにいる保証はなくなると思う。」

と、杉ちゃんに言われて確かにそうだと思った。じゃあ、どこか有能な人に預けなければならないが、そんな人物はどこにいるんだろうかと考える。

「とりあえず、製鉄所に連れていくか。あそこにいる人たちなら、彼の傷をいやしてやることもできるんじゃないかなあ。」

蘭はそこへは行きたくなかったが、杉ちゃんにそういわれて、行かなくちゃならないなと思った。生きたくないのは、そこに、管理人をしているジョチさんがいるからであった。また自分たちのことについて、嫌味を言われるのはどうしてもいやなので。

「よし、タクシーを取ってすぐ行こう。」

と、杉ちゃんは蘭に言った。仕方なく蘭は、スマートフォンを取って、製鉄所にある固定電話の番号を回した。その間にも、理君は、自分のことが話されているのにも関わらず、まるで無関心で、ボケっとした顔をしている。蘭が電話をかけている間に、杉ちゃんが理君ちょっと体見せてねと、彼の体に触っても、まったく同時なかった。杉ちゃんが、彼の着ているTシャツをめくってみると、彼はあばら骨が見えるほど痩せていて、やっぱり何日もご飯を食べていなかったことは確かだった。

タクシーはすぐに来てくれた。杉ちゃんと蘭は、すぐに運転手に手伝ってもらって、それに乗り込む。理君は、運転手に促されて助手席に座った。

とりあえず、タクシーは製鉄所まで向かった。到着して、運転手に下ろしてもらって、タクシーを降りる。理君は、杉ちゃんが連れて行った。

「一体何ですか。僕に何か用事があるって。どうしてわざわざこっちまで来たんです?」

二人が製鉄所の正門をくぐると、玄関先で待っていたジョチさんは、なんだか変だなというような感じの顔をしていた。

「ああ、お前に頼みがある。この少年の親御さんが見つかるまで、ここで預かってやってくれ。お前なら、権力もあるし、多少のこともお前の名義でできるんじゃないのか。よろしく頼むよ。」

と、蘭はジョチさんに言った。

「ああ、わかりました。それで、親御さんにつながるような手掛かりはあるのでしょうか?」

と、ジョチさんが聞き返すと、

「それがわからないんだよ。靴に理と名前が書いてあるだけで、ほかは何もない。」

と蘭は言う。

「なんですか、それだけしか手掛かりはないんですか。ここでは一応永住はいけないという話になっていますが?」

と、ジョチさんが言うと、

「そうだけど、僕と違って、お前はそれなりに力があるんだから、それを使って何か手掛かりを見つけることだってできるだろ。何でも、保育園に入っていたらしいが、どこの保育園かは言いだせないみたいなんだ。僕らは、それ以上できないから、お前のほうが、早く親御さんを見つけられると思うんだよ。」

と蘭は言った。隣で杉ちゃんが、理君が退屈しないように、せっせっせのよいよいよいなんてやっているのが、蘭にとってすごく恨めしかった。

「そうですか、わかりました。しばらくうちで預かることにしますが、親御さんというと危険すぎるかもしれませんね。」

と、ジョチさんは杉ちゃんと同じことを言う。

「だけど、一番安全なのは、親御さんのもとへ返してやることだろ?それに親御さんだって、心配しているかもしれないじゃないか。」

「まあ、蘭さんの性善説は、そこまでにしておきましょう。確かにそうだったらいいですけど、彼のあまりにも無表情な所といい、その痩せかたと言い、蘭さんの性善説は、あんまり役に立ちそうだとは思えませんね。」

蘭がそういうと、ジョチさんは、そういうことを言った。

「それでは、うちで預かりますから、蘭さんは戻ってくれても結構ですよ。」

と、ジョチさんは言ったが、理君は、ボケっとした表情から、杉ちゃんの顔を見て、生きたくないという顔をした。

「ずっと僕といたいかい?」

と杉ちゃんが聞くと、理君はうんと頷く。

「そうですか。じゃあ、僕もしばらくこっちに残るよ。彼に食べ物あげたのは僕だったからな。」

と杉ちゃんがいうとジョチさんもなるほどと納得した。確かに食べ物を作ったのは杉ちゃんであったので、理君が杉ちゃんになれるというのはよくわかる。

「まあ、どっちにしろ、僕はバカな風来坊で暇人ですからね。こういう時に思う存分使ってくれればいいよ。」

杉ちゃんはそんなことを言って、製鉄所の中へ理君と一緒に入ってしまうのだった。蘭は、何だか一人取り残されたような感じがして、大きなため息をつく。

「じゃあ、蘭さん、そういう事ですので。」

とジョチさんも杉ちゃんと一緒に製鉄所の建物内に戻っていった。蘭は、一人で製鉄所の玄関先に取り残されてしまった。

でも、蘭は、理君のはいている靴に書かれていた、鈴木理という名前だけは、はっきりと記憶した。それだけでも頼りにすれば、何か手掛かりを見つけられるかもしれない。蘭は手帳に、鈴木理、五歳児と記入する。

とりあえず、名前の書いてある靴があるのだから、保育園に通っていたに違いない。そこさえ特定できれば、親を割り出せると蘭は思った。そこでタクシーに一人で乗り込んで、家に戻った。そして広報富士を取り出して、富士市の保育園の一覧表を見つけた。電話番号は、公立の保育園しか書かれていなかったが、とりあえず片っ端から電話をしてみて、その保育園に鈴木理という少年が通っていなかったかどうか、と、聞いてみるのである。初めに電話して見た保育園は、何だか忙しそうでとてもそんなことを答える状態ではなさそうなので切った。次に、電話した保育園では、うちでは、そういう子を預かった覚えはないとピシャンと言って切ってしまった。その次も、その次も同じ。これで、一覧表に書かれている保育園では最後になるということになった。後は私立の保育園であり、電話番号を公開している園は限られてくる。私立の保育園は、子供を選ぶことができるので、

電話番号を載せないことが多いのである。

蘭は、最後の賭けだと思って、その保育園にかけた。

「あの、すみません。そちらの保育園に鈴木理君という子が通っていませんでしたでしょうか?」

と、蘭は、そう聞いた。すると応対に出たのは、年配の保育士だったのだろうか、ええ、そうですねえ、という答え方をした。

「そうですねということは、通っていらしたということですか?」

蘭はすぐに彼女に聞いてみる。

「はい、一年だけでしたが、そういう名前の子が通っていたことがありました。」

年配の保育士は、そう答えた。

「では、彼の親御さんというのは、どういう方だったのでしょうか?」

「ええ、確か、お父さんがトラックの運転手で、お母さんは、何かお店をされていたような気がします。でも確か、引っ越しをして、この保育園にはもう通えないと言われて、それで、退園されたような。」

「では、お母さんかお父さんの名前を教えていただけませんか。実は、今日、僕は理君と会いましてね。何日も食事をしていないような状態だったので、僕の連れがカレーを食べさせて。」

と蘭は、今日あったことをすべて話した。

「そうですか。理君、やっぱりそうなってしまっていたんですか。」

とその保育士は、そういうことを言うのである。ということは、予測できていたのか、と蘭は強く言うと、

「ええ、私は、パート保育士なので、何も言えなかったのですが、理君のお母さんには理君のことを育てることができるのか、心配でしたもの。」

それでは予測できたなら、お母さんにそういってくれればいいじゃないかと蘭は驚いたが、ほかの保育士たちは、一切そういうことを気にしなかったと彼女は言った。ほかの保育士たちは、何かを作る仕事とか、人間関係のトラブルで、何も子供に関心を持つことはないという。なんでそんなに放置しておいて平気なのかと蘭は言うと、それが、保育士というものだと彼女は言った。

「そんな、無関心が、一番の暴力なのじゃありませんか。なんで、彼をそうやって放置したりするんです。すぐに理君のお母さんの連絡先をおしえてください。そして、理君を早く平和な生活へ戻してあげることにしてあげてください。」

そう蘭は言ったが、保育士は申し訳ありません、申し訳ありませんというばかりで、理君のことは何も言わなかった。蘭は、なんといういい加減な保育園だと思ったが、保育士は、申しわけないというばかりだった。

「それでは、せめて彼のお母さんか誰かの連絡先を教えてくれませんかね。」

と蘭は言うと、その保育士は、鈴木さんですねと言って、ある固定電話の番号を教えた。蘭は、ありがとうございましたと言って電話を切り、すぐにその固定電話の番号に電話をかけてみた。

信じられないことに、それはつながった。しかし出たのは、お母さんではなくて、中年のおばさんである。

「あの、鈴木さんでしょうか?あの、鈴木理君の身内の方でしょうか?」

と、蘭は聞いてみたが、中年のおばさんは、違いますと言った。ということは蘭が間違えたか、それとも、別の家が使っているのかのいずれかだ。蘭はすみませんと言って、電話を切った。

となると、鈴木理君の親はどこにいるのだろう。あんなちいさな子供であるから、一人ぼっちで生きてきたということはあり得ない話だ。それに、ストリートチルドレンがよくいる国家なら、浮浪児ということもあり得るが、日本ではそういうことはあり得ない。

蘭は、大きなため息をついて、テーブルをバンとたたいた。でも、理君を何とかしなければと思ったから、蘭は急いで、華岡に電話した。身もとのわからない子供がいる、何とかして親を割り出してくれと懇願したのである。

一方、製鉄所では、杉ちゃんと水穂さんが、理君と一緒に、手遊びをして遊んでいた。そしてやっぱり、理君の親と名乗る人物は現れなかった。木のまたから生まれてきたわけでもないのだから、理君の親というものはどこかにいるはずなのだが、、、。

「理君、君のお父さんとお母さんはどこにいるのですか?」

とジョチさんは、水穂さんにじゃれあっていた、理君に聞いた。

理君は、言いたくないという顔をする。理君は、きっとお父さんやおかあさんのもとに帰りたくないのだろう。

「そうだね、言いたくないよね。」

と、水穂さんが言った。

「だって、戻ったら、またご飯を食べさせてもらえなくなるのでしょう?」

水穂さんにそう聞かれて、理君はだまって頷いた。

「そうだね。でも、理君、ご飯を食べさせてもらえないということは、お母さんたちは、とても悪いことをしているんだよ。それは、ちゃんとしっかりいけないと言ってもらわなきゃいけないことなの。そのためにも、理君のお母さんとお父さんの名前を教えてくれないかな。」

と、水穂さんが改めてそういうと、理君はまたいやそうな顔をする。

「そうですね、そういうことは犯罪と言って、あなたの育児を放棄するということは、犯罪になるんです。あなたの衣食住は、ここにいる限り大丈夫ですから、教えてくれませんか。」

と、ジョチさんが聞くと、理君は、でも、という感じの顔をした。

「そうだねえ。確かに、お父さんやお母さんがいなかったら、お前さんは生きていけないからな。そうじゃなくて、ほかのひとがカレーを作ってくれることもあるんだから。」

と、杉ちゃんが言うと、理君はうんと頭を下げた。

「とりあえず、僕は明日、市役所に行って聞いてみますけどね。身元不明の子供の捜索願が出されていないかとか。」

と、ジョチさんは言っているが、水穂さんはまだそういうことはしないほうがいいと言った。それよりも、自分たちを信じてもらうようにもっていかなければだめだと言った。杉ちゃんもそれを返した。すぐに、大きな施設にやってしまっては、余計に彼の傷は深まってしまうと。

「どうしたらいいんだろう。」

と杉ちゃんが言う通り、理君は行くところもないし、行き場所を見つけるのに役に立ちそうな手段もないということだ。彼自身が、自分の身の上を語る能力を持っていないし、手掛かりは靴に書かれた鈴木理という名前だけ。住所も電話番号も、何も自分では言えないのである。文字通り、ただ生きて、ただご飯を食べるだけの子供なのだ。子供だからそれでもいいと思われるが、大人であったら大変なことになっただろう。

「どうしたらいいというわけでもない。とにかく彼には、毎日何か食べさせてやって、自分のことを言える環境を作ることだ。まずそこから始めよう。」

杉ちゃんがそういうことを言うと、水穂さんもジョチさんもそうですねと頷いた。水穂さんのような体の弱っている優しいおじさんや、ジョチさんのような権力のある人物でなければ、理君のことをかまってやれないというのが今だった。

そう考えると、理君は何のために生きていたのかと思う。もちろん、人間だから、意味のない人間なんていないと考える哲学者はとても多いけれど、まさしく理君は、今、いるところがない。お母さんたちのもとにもどせば、彼の存在は消されてしまうのかもしれないし、児童相談所などが役に立たない施設であることは、すでに過去の事件で知っているから、彼を渡したくなかった。養護施設に送るとしても、さらに彼の傷は深まるばかりとなると予測できる。つまり、どこへ渡しても、理君が幸せになれるという保証はどこにもないということだ。

「仕方ないですね。僕たちだけで、彼に人間は優しいんだと覚えてもらわないと。」

と、水穂さんは、理君にそういった。そしてまた、せっせっせのよいよいよいなんて声をかけて、一生懸命遊んであげようとしている。体の弱った水穂さんには、それも痛々しい風情だった。

「それでは仕方ありませんね。僕たちが何とかするしかないでしょう。」

ジョチさんは杉ちゃんと顔を合わせて、ため息をついた。

もしかしたら、彼の受けている虐待というよりも、彼にとって、この世に生まれてきたことこそ、最高の暴力なのかもしれなかった。そうやって、彼をいらない存在にしてしまう事。其れこそ、史上最大の暴力なのではないか。

だから、杉ちゃんたちはそれに立ち向かわなければいけないのだった。

「じゃあ、ちょっと戸籍なんかを調べてみますから、それで何とかなるといいんですがね。」

ジョチさんは、ふっとため息をついて、スマートフォンを取った。





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最も悲しいこと 増田朋美 @masubuchi4996

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