アキの話(後)


 カフェの前から二百メートルほど移動した辺りで、ストレス発散のためにあそこで買い物をしようと聳え立つショッピングモールに友人たちの視線が向いたとき、アキは息を最大限まで殺し、通行人の足音に自分を重ねてその場から一人抜け出した。

 気づかれることはまずない。気配、感情、意識、人の集中がどこに向いているか。幼いころからその変化を過敏に察知することに慣れているアキには、お手の物だった。


 アキは男たちの後ろをこっそり追跡した。

 会話を盗み聞きされる心配がなさそうな細い路地に入り込もうとする男たちに走って追いつき、後ろから声をかけた。


「ねえ、さっきの話、本当なの?」

「あん?」

「おっ、アキちゃんじゃん」

「あたしに教えて。有名人が集まる場所」

「なんで?」

「友達に教えてあげたいの。きっとそこならふさわしい人がいるから。いいでしょ」


 アキの申し出に、男たちは数秒顔を見合わせる。

 彼らは人が自分たちが持っている何かを欲しがったときに、自分たちが損をせずどう利益だけを掠め取るかを心得ていた。相手が献身的な少女であるなら、なおさら交渉は容易だ。


「へえ。友達想いじゃん」

「なんて良い子なんでしょう! はははっ」

「いいぜ。その代わり、良い子ならわかるよな? 情報には対価が必要だろ」

「わかってる。お金ならここに……」


 アキは鞄から財布を取り出すために手をかけた。しかしそれを、男が遮る。


「金なんていらねえよ。ちょっと付き合ってくれればいいから」

「え……」

「君でいいからさ」

「ここにいる全員分。まとめて同時でいいよ。その方がすぐ終わるだろ。時短だよ時短」


 下卑た嗤いを上げて、男たちはアキの腕を掴む。


「は、離して……」

「いつも使ってるトコがあんだよ。そこ行こうぜ」

「大丈夫だって。店主に見られるくらいだから」

「――いやっ」

「行くっつってんだろ! さっさとこいや!」

「きゃっ」

「かわいー。そういう悲鳴、女の子って感じしてそそるわ」


 力尽くで腕を引っ張られアキは抵抗もできず路地の奥へ連れていかれる。どんどん通る人が少なくなっていく。助けを求めようにも、男たちは四方を囲み、すれ違う歩行者からは見えないように壁を作られた。


「やだっ、やだあ、こんな、つもりじゃ……」


 アキは男の力に抵抗しなかった。だがそれは許容を意味するわけじゃない。

 いつも自分が叶えたいことは叶わず裏目にでる。本当にいつもそうだ。それがわかっているから、後悔ばかりが先に来て逃げたいのに行動に移せない。

 なんでこうなるんだろう。あたしはただ――


「アキちゃん! 見つけたッ!」


 ハッとして振り返る。ヒメリが肩を上下させながらこっちを睨んでいた。

 ヒメリの呼び止める大声に男たちも振り返り、喜色が浮かぶ。逃した魚が二匹も戻ってきたという幸運に、今度は逃さないと欲望を丸出しにした捕食者の笑みが。


「お。さっきの子じゃん。俺、君のこと気になってたんだよね。君も一緒に行こうぜ。楽しいところにさ」

「ヒ、ヒメリちゃん……だめ――」


 アキの怯えに染まった目を確認すると、ヒメリは後ろを振り返り、思いきり叫ぶ。


「こっちです! はやく!」


 途端に男たちの表情が崩れる。


「てめっ、何呼びやがった!」

「おい、逃げるぞ!」

「待て待て。俺たちは何もしちゃいない。だろ?」

「そうか。そりゃそうだ――」


 冷静になりかけて互いに見合う男たち。その隙に、ヒメリは両手に持ったパンプスをアキを掴んでいる男に投げつけた。


「うおっ」


 咄嗟にガードしようとした男はアキから手を離した。ヒメリはすぐさまアキの解放された腕を力強く引っ張る。


「アキちゃん、こっち!」


 ヒメリに続いて、アキも走り出したことに激昂した男たちが怒鳴り声を上げる。


「なにすんだ! てめえ!」

「おい、追いかけんな。あいつ、サツかなんか呼んでんだろ!」

「くっそ!」


 男たちの悔しがる声を置き去りにして、二人は脇目も振らず走る。横っ腹が悲鳴を上げ始め、繋いだアキの手が汗ばんで離れそうになった頃、ヒメリは人の少ない脇道に入り込み、ビルにぶつかる勢いでようやく足を止めた。

 二人で息を切らしながらそのまま壁に寄りかかる。


「よく、わたしの居場所がわかったね。ヒメリちゃん」

「わたし、こういうのは運があるんですよね」

「警察、呼んだの?」

「ああ、あれは――」


 ヒメリはいたずらっ子のように口角を上げて笑う。


「嘘っぱち、です」

「嘘……?」


 ヒメリは咄嗟に、誰かが取り締まりにやってくるように見せかけただけだった。


「――そ、そうだったんだ。そっか」


 アキは緊張が一気に解けたらしく、その場にしゃがみ込む。息が落ち着いてから、ヒメリを見上げた。


「ごめん。あたし、ヒメリちゃんのためになるかと思って。あの話が本当かどうか、確かめたくて……」

「あの話?」

「うん……。有名人が集まる場所があるって。ヒメリちゃんが興味あるみたいだったから。場所がわかったら教えてあげられるかなって」

「ええっ、わたし、全然、興味なんて」

「えっ、そうなの?」

「話を合わせてただけですよ。なんだか自慢気だったので、頷いていればそのうち話が終わるかなって」

「そうだったんだ……。ごめん、あたし、ヒメリちゃんに――」

「いいんですよ。わたしのためにアキちゃんがそんなことまでしなくても」


 微笑みかけられて、アキは「あ……」と数秒口ごもる。


「……そっ、そうだよね。ごめんね。変な気を遣っちゃって」

「ううん。さ、一緒に戻りましょ。みんな待ってますから」

「……うん。ごめんね。靴も……」


 アキの視線が自分の足元に向いているのに気づいて、ヒメリは今自分が裸足だったことを思い出した。


「あはは、投げつけちゃいましたからね。どこかで買わなきゃ」

「あたしが買うよ。お願い、買わせて」

「いいですよ。投げたのはわたしなんですし。どうせこの後買い物する予定だったでしょ? 丁度新しい靴を買おうと思っていたんです」

「でも、あたしのせいで……」

「わたしはアキちゃんが無事だっただけで十分です。本当に大事にならなくてよかった。そうでしょ?」


 アキは息が詰まったように口をあぎとう。乾いた雑巾からありもしない水を絞り出すように、アキはようやくといった様子で言葉を繋ぐ。

 出てきたのは、装飾もなにもない、本音の疑問だった。


「……どうしてヒメリちゃんは、そんなにあたしを庇ってくれるの? あたし、すごい余計なことしたのに。自分でわかってるんだ。馬鹿なことしたって」


 うーん、とヒメリは少し逡巡した。


「アキちゃんがあんな人たちについていく子じゃないってわかってましたし、何か理由があるんだろうなって思って。だから気にしないでください。友達なんですから」

「友達…………でもそれなら、なおさらあたしに――」


 アキの小声の反駁が届く前に、ヒメリは自分の肩に掛けたショルダーバッグが細かい振動を繰り返していることに気づいた。


「あ。スマホが鳴ってたの気づきませんでした。みんな心配してるみたいですよ。ほら、着信が何件も」

「……うん。じゃあ戻ろう」

「はい」


 ヒメリの足取りは軽かった。裸足なのも気にしない様子で、跳ねるように道を進む。何事もなく逃げ切れたことに安心しているのだろう。

 ヒメリが一足先に曲がり角を通り過ぎ、アキはヒメリの姿が自分の視界から消えたことを確認すると、


「――なんで、なんであたしに挽回させてくれないの。ヒメリちゃんは、正し過ぎるよ」


 アキが後ろでそう呟いていたことを、ヒメリは知らない。




 ――以降、友人たち曰くこの事件は〈駅構内ヒメリ裸足爆走事件〉として地元で広く伝えられ、ヒメリはアキの居場所を一発で見つけ出した人間GPS女として、遊び盛りの異性たちからは距離を置かれている。





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