第85話 エミールとエミリア

 ブーランジェ

 ソプラノ

 そして自分の名エミールの女性名エミリア

 もしかしてこの女性は……

 とたんにハンスの心臓は破れそうな勢いで鳴りだした。


「お久しぶりですハンスさん。どうかされましたか?」


 エミリアという娘は首をかしげ、色を失ったハンスの顔を覗き込んだ。

 物憂げな影を帯びる青い目が、マリーにそっくりだ。


「いえ、本番の時間が近づいて緊張してきたんです。しばらく音楽と遠ざかっていたから」


 その間もハンスとエミリアの献金箱には、次々と硬貨やお札が差しこまれる。

 お客の入りは上々だ。

 こういう本番前の忙しさと、相反するエアポケットのような時間は嫌いじゃない。


「もしかしてお母さまも歌をやられていた? 貴女のお名前で思い出したけれど、学生時代に知り合っていたかもしれない」 

「まあ、母をご存じですの? お針子で、本格的な歌の勉強はしていなかったけど、若い頃お友達とオペラの舞台や演奏会に出たことがある、とおばさんが言っていました」

「そうですか。お母さまはお元気で?」


 エミールの胸はいよいよ激しく鼓動した。

 もし健在で、娘の晴れ舞台を見にでも来られたら、顔を合わせられない。


「私を生んですぐ死んでしまいました。私はアンナ・ドゥリックおばさんとオイゲン・ザックハイムおじさんに育てられたんです」


 アンナとオイゲン。ベルリンの酒場の歌姫とナチの脱走兵。二人とも戦争を生き抜いたのか。


「それは残念……お気の毒な事です。でも君のお母さんのことを思い出しましたよ。学生時代、一緒に音楽活動をした仲間だった。もっとも僕は下っ端で、ほとんどめにとまっていなかったけど」

「母を知っておられるのですね。今までそういう方にほとんどお会いしたことが無いんですよ」


 娘の顔がパッとジャスミンの花が咲いたようにほころぶ。

 間違いない。僕の子だ。

 若く残酷で罪深い時分、身も心も弄び傷つけて、捨てた女との娘だ。


「ブーランジェさんは素晴らしいソプラノで、僕たち演奏グループの希望の星だった。彼女が歌えばなんだって成功する。そんな風に信頼されていましたよ」

「嬉しい。おばさん達はあまり教えてくれないんです。母の若い頃がどうだったのか」


 そうだろう。

 アンナはマリーとずっと行動を共にしていたはずだ。

 自分が壊してしまったマリーを、その最期まで見届けたのであれば、生まれた娘に母の半生を教えるなんてできない。

 エミールは体の芯まで冷たくなるのを覚えた。


「もっと教えてください。私の中の、マリー・ブーランジェという女性の姿がはっきりしてきました」


 献金者そっちのけの二人に、教会役員が訝しげな眼を注ぐ。

 エミールは高揚するエミリアを制した。


「もうすぐ本番だよ。そう興奮しないで、喉と心を休ませて集中しなさい。

……そうだ、終演後に合唱のみんなで夕食に行くから、君も来る?」


 エミリアはやや躊躇ったが、大きくうなずいた。


「じゃここを出てすぐの、通りのお向かいの『ガストシュッテ・ウンターデンリンデン』のベンチで」

「わかりました。皆くるんですよね」

「ああ。いろんな教区の参加者で楽しく打ち上げようって、さっき決まったんだよ」

「ありがとうございます。楽しく打ち上げできるよう、がんばらなくちゃ。……おじさまのお名前は?」

「僕は…ハンス・エーベルト。ゼッキンゲン市の建物保守の工員です」


 エミールは胸のネームプレートを示した。

 目を輝かせて自分を見る、若いエミリアの存在がまぶしい。

 まぶしすぎて、自分のようなものにはしっかり見返せないほどだ。


 「エミリア!ちゃんと来たわよ。デモは大丈夫だった?」


 体格の良い女性が野太い声を響かせて近寄る。

 傍らには片足を庇い杖をついた中年の男。


「アンナおばさん、オイゲンおじさん!」


 入り口からゆっくりと近づく二人の姿に、エミールは緊張を募らせた。

 献金箱を持つ手が汗でじっとり濡れる。


「じゃあ僕はそろそろ皆と控室で待機するよ。君も早めに支度しなさい」


 騒々しく近づくかつての仲間アンナ達に背を向け、エミールは献金箱を教会役員に返した。

 お喋りしていた割にはたくさん入っていたらしい。

 受け取った役員が唇の片端を上げてほほ笑んだ。


「ありがとう。あとは精一杯演奏してください。神のご加護があなたの上にありますように」


 ロビーから続く薄暗い回廊を、エミールは急ぎ足で歩いた。

 まわりに人の気配はない。

 本番前の1ベルが間もなく鳴る時刻だからか、スタッフも自分たちの持ち場についているのだ。

 聖堂わき端の祭壇支度室入り口から、合唱待機室に行って、本番前に温かいお茶を一杯飲みたい。

 ありえない再会に動揺する、過去からの霊に揺さぶられる自分を落ち着かせなければ。


 ふと、暗がりの中から低い声がした。

 まるでオペラ『ドン・ジョバンニ』の、地獄の死者騎士長のような。


「君に僕の曲が歌われるとはね。ハンスくん」


 凍り付いたエミールが声のした方を向くと、黒いタキシードを着た白いひげに丸い眼鏡の老人が、ゆっくりと歩み寄ってくる。


「以前ミリヤナを通して渡した楽譜は、もう失くしただろうね。いや、楽譜だけでなく、音楽に向き合う心までも失くしてしまったんじゃないのか?エミール・シュナイダー」


 厳しい容貌の老人を一目見て、エミールは息が詰まった。

 イサーク・ヅィンマン。

『僕たちのヅィンマン先生』だった。

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