第84話 1967年6月2日のレクイエム
「エミリア、もう出かけるの?」
アンナ・ドゥリックおばさんがコーヒーを入れながら声をかける。
頭の形に添うようなショートカットの髪をなでつけたエミリアは、大きなカバン煮詰めた荷物の中身をもう一度ベッドの上に広げ、確かめた。
男の子のように刈り込まれた超ショートは、フランス映画『悲しみよこんにちは』のセシルを真似たスタイルだが、アンナおばさんはなぜか毛嫌いし、早く伸ばしなさいよとやかましい。
「ええ。まだだいぶ早いけど何があるか分からないから行っちゃうわ」
「まったく、せっかくのあなたのソロデビューなのに、こんな日にあたっちゃうなんて」
「本当に。一年前に告知された時は、まさか外国の王様の来訪と重なるとは想像もしてなかったわよ」
白いブラウスと黒のロングスカートの衣装、楽譜、お化粧品、小さなスタンドミラー、救急用品に汗ふき、ハンカチーフ、黒い靴。
うん。大丈夫そう。
「なんならオイゲンに送って行ってもらおうか?」
「でも」
「構わんさ」
アンナおばさんの彼氏のオイゲン・ザックハイムおじさんは、コーヒー豆の焙煎機を回しながら答えた。
戦争中に負傷したという片膝がちょっと不自由で、窮屈そうにまげて機械の前に坐っている。
自家焙煎のコーヒーを観光客で賑わう目抜き通りのカフェやレストランに卸す仕事をしており、評判は上々だ。
おじさんとおばさんは若い頃からの恋人同士、結婚はせずに夫婦同然に暮らしながら、赤ちゃんの頃から彼女を育ててくれている。
二人の親友だったエミリアの実の両親は、ふたりとも戦争で死んだと聞かされた。
「俺ならいつでもいいよ。大事な歌姫が騒ぎに巻き込まれでもしたら勘弁ならない」
「いいわよ。大丈夫よおじさん。地下鉄で下りたらすぐ目の前だし。人混みには近づかないわ」
演奏会の時間には、二人で聴きに行くからね。
アンナおばさんとオイゲンおじさんの声援を背に、深く息を吸って、エミリアはアパートを出た。
1967年6月2日。
22歳の女子大生エミリア・ブーランジェは、ベルリンの地下鉄・シャルロッテンベルグ駅を降り、通りを歩いていた。
広い通りのあちらこちらにの建物に、今日の演奏会のポスターが貼ってある。
この近く、聖三位一体福音協会の大聖堂で、ドイツ中から集まった有志によるレクイエム演奏があるのだ。
作曲者はホロコーストの最中に行方不明となった、ベルリン生まれのユダヤ人イサーク・ヅィンマン。
バリトンソロはそのヅィンマン氏直々に教えを受けた、日本の高名なオペラ歌手キム・スギョン。
戦中からオペラ団で活躍していたが、このたび家族と共に北朝鮮への渡航を決意し、最後のコンサート出演だという。
その他、同じくヅィンマン氏の教え子の日本人信野善次郎の、ドイツ留学中の息子も、指揮者として立つ。
舞台監督はセルビアの亡命女性演出家ミリヤナ・アシュバン。
これはナチスのT4作戦の犠牲となった人々、全ホロコースト犠牲者を悼むためのレクイエム。
キャンパス内でスカウトされた一介の大学生である自分の、ソリストデビューの場だ。
がんばらなくては。
男の子のように短いセシル・カットの髪をなびかせて、エミリアは歩いた。
地下鉄Uバーンの出口に近づくと、ビスマルク通りは人で膨れ上がっていた。
ヨーロッパ系の男女の学生たちに混じって、アラブ系の容姿の若者たちも多い。
手に手にスローガンを書いたプレートを掲げ、シュプレキコールを上げている。
今夜すぐ近くのドイツオペラ劇場に、訪欧中のイランのパーレビ国王が観劇にくるという。その阻止と独裁体制への反対らしい。
車道も警察車両や反対派の車があたりかまわず停まっており、これから交通規制が行なわれるようだ。
王族がオペラを見に来るというのは珍しい事ではない。
コロラトューラソプラノがご贔屓というパーレビ国王が選んだ演目は、夜の女王役の技巧的な超高音が堪能できる『魔笛』だそうだ。
『お好きなものを見せてさしあげたらいいのに』
殺気をはらんで警察や国王の警備陣とにらみ合うデモ隊をかきわけ、エミリアは教会の裏口へ回った。
場合が場合だけに参加者の身分証チェックは念入りだった。
参加者名簿と照らし合わせて本人確認した受付は、エミリアがソリストだとわかると、地下の中聖堂脇の支度部屋に案内した。
合唱隊の控室よりやや狭いがゆったりしており、着替え用の個室もある。
使えるのは今夜の室内オーケストラの女性たちや、ソリストだけのようだ。
エミリアは手早く持参した衣装に着替え、メイクを整えた。短い髪は手串でさっと整えれば完了だ。
「今から開場します。手すきの人は教会ホワイエまで出て、献金にご協力ください」
はーい。
エミリアは教会典礼委員のアナウンスに返事をし、お客が入りはじめた一階ロビーに向かった。
演奏会が行われる聖三位遺体教会は、プロイセン時代から続くプロテスタントの教会で、戦後の混乱期を経て最近改築が完了した施設だ。
東ベルリン地区になってしまったベルリン大聖堂、戦時遺構のようなカイザー・ヴィルヘルム記念教会に比べれば広さは感じられないが、モダンな骨格と内装、現代的な図柄のステンドグラスから降り注ぐ美しい光が人々を出迎える、温かく気持ちのいい教会だ。
大事な喉を護るようにネッカチーフを巻き、教会役員から献金箱を受け取ったエミリアは、聖堂への誘導路に位置をとった。
既に何人かの男女が同様に立ち、献金を呼び掛けている。
「困っている兄弟姉妹のために、お願いします」
「小さくされた人々のために、どうぞご献金を」
隣りに立つ金髪の小柄な紳士も、人々のざわめきに負けないよう声を上げている。
高く張りのあるテノールボイスだ。
黒の礼服にネクタイ。胸元に自分同様ネームプレートを着けている。
きっと合唱の参加者だ。
目が合ったので軽く会釈をすると、紳士が驚いたように目を剝いた。
「言葉通り、一年後にお会いできましたね、お嬢さん」
タグに書かれた紳士の名前は『ハンス・エーベルト ゼッキンゲン教会』
ハンスも、隣に立ち献金を呼びかける女性のネームプレートを見た。
『エミリア・ブーランジェ イエス・キリスト教会(ダーレム) ソプラノソロ』
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