第83話 私に残された幸せは

 気落ちしたまま、エミールは今来た道を引き返した。

 バスに乗らず、ブランデンブルク門に背を向け、6月17日通りを歩き続ける。

 道は広く、ティアガルテン公園の緑が濃く匂いたち、暑さの中に木陰を提供してくれる。

 日は既に傾き、明るいドイツの夜が始まりかけていた。

 若い時に幾度となく歩いた、動物園や繁華街への道。

 なのに今はこんなにも遠く、先が見えなくなるほど長い。

 エミールは、自分に容赦なくのしかかる老いを感じた。


 どのくらい歩いたか。

 果てしなく続くティアガルテンの緑の中、グローサーシュテルン(大きな星)と呼ばれる、いくつかの通りが合流したロータリーが現われた。

 中心に、ベルリン市街戦で市民や兵士たちが立てこもり戦ったという、巨大な台座の戦勝記念塔が、空高くそびえ立っている。

 先端には勝利の女神ビクトリア。

 周囲にぐるりと輪を描いた道路を、ベンツやポルシェ、ジャガーなど西側巨大メーカーの車が疾走して行く。

 深い森に囲まれた公園とは言え、エンジン音は耳に痛いほど大きく、いくつも重なり合う。

 まるで、迫る敵の先頭車両の音のように響く。

 エミールは耳を押さえて走りだし、舗道のベンチに倒れ込んだ。


 その時だ。

澄んだ水のせせらぎのようなソプラノが、風に乗って聞こえた。


 Glück, das mir verblieb, rück zu mir, mein treues Lieb.

 Abend sinkt im Hag, bist mir Licht und Tag.

 Bange pochet Herz an Herz, Hoffnung schwingt sich himmelwärts.


 あの歌だ。

 学生時代、「ラ・ボエーム」抜粋版の演奏会を終えた後、マリーや他の仲間たちと練習したオペラの曲。

 作曲者は……何といったか忘れたが、ヅィンマン先生と同じユダヤ人だったはず。

 大変難しかった記憶がある。


 Wie wahr, ein traurig Lied.

 Das Lied vom treuen Lieb, das sterben muss.

 Ich kenne das Lied.

 Ich hört es oft in jungen, in schöneren Tagen.


 この続きは、確か僕の担当だったテノールパートのはず。

 我知らず、遠い昔に置いてきた詩と音楽が、唇からあふれ出た。

 細かいところは忘れていても、体が覚えているのだ。

 顔を上げた目の前に、若く美しい娘が立っていた。

 心配そうにこちらを見ている。


「大丈夫ですか? とても苦しそうでいらっしゃるけど」

「大丈夫です」


 エミールは頭を振って、口の端に笑みを作った。


「暑い中を延々歩いてきたからかな。少し休んでいれば元に戻ります」

「それならいいのですが……あの、歌い手さんでいらっしゃる?」

「いいえ、まったく」

「でもこの歌をご存じなのね。かなり前の、今はあまり知られていないオペラの曲なのに」

「ええ。それこそ戦争の前、若い頃の思い出と結びついた曲なのでね。あなたの声に色んなことを思い出してしまった」


 エミールは胸がいっぱいになった。

 音楽など、芸術などプロパガンダ以外何の意味もない。

 だが色や音、光、かたち。ことば。

 それらの手を借りて、自分の思いが人の心に届くというのは、危険ではあるが、元来とても甘美なものではなかったか。

 30年余前、ここベルリンで、フランスから来た少女マリーと歌声を重ねたことがきっかけで知り合ったように。


「きっと、とても大事な思い出なんでしょうね」


 娘が抱えたバッグからハンカチを出そうと開けた時、分厚い楽譜の束が傾いて地面に落ちそうになった。

 表紙に大きく書かれたそのタイトルは、エミールの心を激しく揺さぶる。


『生きるに値する者たちのためのレクイエム』


「お嬢さん、失礼ですがその楽譜は、どこで……」


 少女はパンパンに荷物が詰まったカバンが恥ずかしいのか、急いで楽譜を取り出してふたを閉めた。


「これは売っているものじゃないんです。来年初演予定の、レクイエムの楽譜なんですよ」


 少女はエミールの隣に座り、体を寄せて見せてくれた。

 小汚い中年男に、警戒心を抱かないのだろうか。

 短く切った栗色の髪が、華奢なあごの脇で揺れている。


「実は私、もしかしたらソプラノソリストをやらせてもらえるかもしれないんです。だからもう必死。とにかくがんばらないと」


 本当に難しくて、音を追いかけるのに必死なんですよ。

 幼さの残る顔を紅潮させ目を輝かせ、楽譜を開き音符を指で示す少女に、エミールはかつての仲間たちを思い出した。

 無意味なほどの熱気、がむしゃら、性急さ、思いこみ、そして陰で巡らせるグループ内の力関係。

 あの頃は当たり前のように自分のまわりに流れていたものが、今はきれいさっぱり失われてしまった。

 そのかわりゆるやかに、でも確実に、自分の生の終わりは迫っているのだ。

 21年前、ドイツが負けた時以来。


「そうなんですね。実は自分も、そのレクイエム公演に声をかけられて、参加するか迷っているんですよ」

「エミリアお待たせ ! 」


 木立の向こうの歩道から、若い娘たちの足音と声が近づいてきた。

 今行くわ。

 友人に返事をして、エミリアと呼ばれた娘は歩き出した。


「それはとっても楽しみですわ。一年後にご一緒しましょう、おじ様 ! 」


 エミリア……エミールは頭の中で、娘の名を反芻しながら声を張り上げた。


「ああ。演奏会のステージで ! 」

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