第82話 ゆきどまりの道

 今エミールが立っている街角が、この都市の目抜き通りだという点は、戦争前から変わらない。

 西ベルリンのクアフュルステンダム、通常クーダムと呼ばれる通りは、かつて道の真ん中をトラムが走っていたはずだが、今は路線バスになっている。

 カイザー・ヴィルヘルム記念教会の、直立した焼死体のような黒くすすけた廃墟が、シンボルタワーのようにビルやホテルの隙間からのぞいている。

 道路は広い片道三車線。

 幅広い歩道にはカフェやレストランがテーブル席を出し、陽の降り注ぐテラスにはゼラニウムやジャスミン、ベゴニアなどの鉢花がこぼれんばかりに花をつけ、通りを赤や桃色、白に彩っていた。

 コーヒーやケーキ、軽食を楽しみながらそぞろ歩く人々を眺める客たちの身なりは良く、女たちは豊かな髪を巻いてアップにし、高いヒールの靴に鮮やかな夏のワンピース、バカンスで焼けた肌を覆うブランド物のスカーフ、高級なたばこをくゆらせている。

 男たちも華奢なグラスでビールをたしなみ、仕立ての良いスーツやお洒落なドレスシャツ、ぴしっと折り目のついたスラックス、磨かれた靴を着こなしている。


 米英仏の占領軍が、西側ベルリンのショーケースにしようと、戦前からの通りを豊かに改造し、レストランや外国企業、ブランドショップなどで満たしたのがこの通りだ。

 全長は3,5キロにもなるが、メルセデス・ベンツとエールフランスの建物に挟まれたカイザー・ヴィルヘルム記念教会のまわりだけ、20年前のベルリン空襲と悲惨を極めた市街戦の記憶をとどめている。

 教会からベルリン動物園駅、通称ツォー駅に通じる界隈は、エミールにとって、30年前恋人のマリーと腕を組み、いつも歩いていたところだ。

 当時の建物はことごとく破壊されモダンに建て直されているが、若者たちの賑わいは相変わらずだった。

 このベルリンには今も多くの学校があり、多くの学生がドイツ、ヨーロッパ中から集まる。

 笑い転げながら、また大声で真剣な討論を交わしながら行き交う学生は、ジーンズにカラフルなTシャツ姿だ。

 街角でギターを弾いて反戦歌を歌っているグループも多い。

 自分たちの若い時は……通りを埋め尽くす軍歌と軍服、総統の名を叫ぶハイルの掛け声、真っ暗な中に延々と続く松明のパレード。

 そんな思い出が、鮮やかな映像でよみがえり、街角の光景に重なった。


 壁に寄りかかり頭を振る自分を、胡散臭そうな目で眺めながら、人々は通り過ぎて行く。

 戦前だったら……いや、そのころも『大丈夫ですか』なんて気遣ってくれる人はほとんどいなかった。

 暑さのせいだ。

 それに疲れたんだ。

 何しろスイス国境近くから、列車を乗り継いで東西ドイツの境を抜け、ベルリンにやって来たのだから。

 疲れて当然だ。


 エミールは見覚えのあるカフェのテラスに座り、コーヒーを注文した。

 彼の身なりを上から下まで眺めたウエイトレスは、チップの期待はできないと踏んだかやけに待たせたし、テーブルにカップを置く手つきもぞんざいだった。

 さえない恰好をした疲れた中年男。

 たぶん恋人のマリーなら、知らない人間でも心配して手を差し伸べただろう。

 いや、記憶の中で美化し過ぎだ。

 あの子は、困った金持ち男をえり分けては優しく接し、きっと物陰で体を開いただろう。

 エミールは一気にコーヒーを飲み干すと、最低額のチップを置いてテラス席を立った。

 ブランデンブルク門まで歩いて行こうかと思ったが、やけに体が重い。

 市内循環バスを使う事にした。


 観光客を満載した二階建てバスは、6月17日通りを軽やかに走る。

 広い道路幅は、戦時中に滑走路代わりに使うために必要な条件だった。

『世界都市ゲルマニア計画』の賜物だ。

 ナチ政権の軍需・経済相のアルベルト・シュペーアの計画した空前絶後の近代都市。

 世界都市。Welthauptstadt Germania。何という美しく威勢が良く、虚しい響きだ。


 じりじりと照り付ける夏の日差しの下、賑やかな英語が車内に乱れ飛ぶ。

 車内の大半がイギリスやアメリカからの観光客なのだろう。

 ベルリンオペラも、交響楽団も劇場も、ここ西ベルリンでは、戦前にあったエンタテイーメントの大半が復活して久しい。

 かつてほどの退廃は薄れたが、ナイトライフも楽しめる。

 何より市内をイデオロギーと政治と軍事の『壁』が横ぎっているという、分断都市の異様さが観光客を惹きつけるのかもしれない。

 敗戦国ドイツ。

 市の郊外からブランデンブルク門の手前、そこからまた遠くへとそびえている分厚い『壁』と何重もの鉄条網は、『現実』を人々に突き付ける。

 ドイツが欲し、戦い、占領した結果がこれなのか。

 かつての国の主要な施設の大半は、壁の向こうの『東ドイツ』 ドイツ民主共和国の側にある。

 大通りはここで行き止まりになっており、何カ所かあるチェックポイント意外は行き来できないのだ。

 しかも原則「東」の人間はこちらに来ることはできない。


 ブランデンブルグ門の上に据え付けられている勝利の女神と戦車像が、黒いシミを伴う濃い灰色に煤けて見えた。

 西ベルリン側は『壁』のぎりぎりまで市街地で、家も普通に建っているし遊歩道にもなっている。

 子供や買い物の大人の自転車、犬の散歩をする市民が普通に行き交っているが、塀の向こうは別世界だ。

 ここ西側の落書きだらけの「壁」の近くに、階段で上がる見物台が建てられていて、バスから降りた観光客は皆カメラを手にぞろぞろと上る。

 監視塔ほど高くは無いが、がっしりとした骨組みで10数人が上れる広さの台。

 陽気なご婦人たちが嘆息しながらカメラを向け、鉄条網の向こうに手を振る。

 昇ってみたエミールは目を疑った。

 かつて通った大学、歌姫アンナを連れ出すために潜入した酒場、SAに叩きだされた商店。

 それと思しき辺りは、20年余を過ぎてなお破壊された建物があちこちに立ち、まるでわざと残してあるかのようだ。

 地味な身なりの市民が静かに行き交う。

 車の数も少なく、種類も西ベルリンで見る車種やメーカーではない。

 トラバント、ヴァルトブルグ、ユーゴスラビアのザスタバ、チェコスロバキアのシュコダなど、東欧共産圏生産の車がどす黒い煙を吐いて走っている。

 同じ空の下のはずなのに全てがどす黒くくすみ、時が止まったように生気が無かった。


 柵から身を乗り出した観光客のご婦人たちは、壁の反対側に落ちそうなくらい身を乗り出し、向こうの人に手を振って声をかけている。

 国境警備隊が気だるそうに巡回しているほか、見渡す限りのただ広い国境の無人地帯、そして鉄条網。

 ガイドによると、無人地帯には多数の地雷が埋めてあるそうだ。

 壁を含む国境に面した建物は、壁の断面がむき出しのまま半分壊されている。

 無理やり空白地帯を作るためだろう。

 東西の境のアパートの窓からとび下りる、壁が構築される最中の東の住民を映したアーカイブ映像を見たことがある。

 何人かが西側の住民の助けを借りて、境のこちら側に飛び降りる事が出来たが、最後の男は室内に突入して来た国境警備兵により窓から引き戻され、嘆きの叫びをあげていた。

 今から数年前、壁を越えようとして射殺された少年もいた。

 テレビを持たないエミールの知らない、相当数の市民が壁を越えようとして逮捕され、最悪殺されたに違いないのだ。


 エミールは人々ともに見学台から降りた。

 壁のこちら側には様々なカラフルな落書きが描いてある。

 観光客が自分の名前と日付を書いたものが当然、ついで有名無名のアーティストたちによる、アイロニーに満ちた見事なイラスト群。

 黒っぽい煤けた壁は彼らの画版であり、アピールの場なのだ。


 ふと見ると、壁の一カ所に、軍服に銃を携えて鉄条網を飛び越える、若い兵士のポスターが貼ってあった。

 何枚も並べて貼られた、ヘルメットで顔の見えない若者の跳躍。

 数年前の夏の日、完成する前の壁の前身、鉄条網の柵を飛び越えた国境警備の兵士だ。

 急激に閉鎖される東から、西へ。

 ポスターに書かれた文言は『 Sprung in die Freiheit』(自由への跳躍)


 彼は、自由になれたのだろうか。

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