第79話 ベネディクトゥス

「ハンスさん、今日のテレビを見ました? またまたベッケンバウアーがシュートを決めたんですよ」


 小さな街の修道院前の大通り。

「彼」が露店を眺めつつぶらぶら歩いていると、乳母車を押した青年が通りがかりに話しかけてきた。

 童顔に似合わない、武骨なサングラスをかけている。

 空襲で片目を傷つけた、牛乳屋のパウルだ。

 出逢ったときは赤い頬の少年だった若者が押す乳母車には、白い産着を着た金髪の赤ちゃん。そしてもう一人、背中にも栗色の髪に茶色の目の男の子。

 そして傍らには、買い物かごを手にした黒髪の女性。


「うちにテレビは無いんでね。そのベッケンなんとかっていうのは誰だい?」

「え、まさかサッカーの試合を見ていないんですか? 今イギリスで開催されているワールドカップという国際大会ですよ」

 パウルは信じられないというように大仰に手を広げた。

 乳母車がからからと動き出しそうになり、妻があわてて押さえる。


「ああ、それならラジオで聞いてるよ。もっともアナウンサーが興奮して叫んでばかり、どういう試合か聞き取れないけど」

「我がドイツの若い選手です。まだ20歳そこそこですが天才ですよ。スイスを相手に5対0。そのうち2点のシュートをベッケンバウアーが」


 唾を飛ばさんばかりに熱弁をふるう父親の背で、熱弁に驚いたのか、赤ちゃんがふわんふわんと泣きだした。


「おいおい、赤ちゃんも君の剣幕に驚いているんじゃないのか? いい加減話を切り上げて、家に戻ってやりなよ」


 今はハンス・エーベルトと名乗っているエミール・シュナイダーは、丁寧に折りたたんだハンカチで汗を拭いた。

 独り身だがシャツや身の回りのものにはきちんとアイロンをかけている。


「そうですね。じゃまた教会で」


 パウルは妻と共に会釈しながらハンスの元を離れた。

 花や果物、野菜、チーズ。

 近郷の農家が持ち寄って店を出している通りの市場に向かうのだ。

 空襲で片目の視力を失い、街で細々と牛乳を売り歩いていたパウルだが、今は小さなトラックに乗り、ライン川沿いのホテルやレストランに乳製品を配達する職に就いている。

 仕事中に知り合った、ユーバリンゲンのホテルで働くユダヤ系の女性と結婚し、今は幸せな二児の父だ。


 そうそう!

 パウルは一言叫ぶと振り返り、駆け足で戻ってきた。


「ハンスさん、今週も日曜日の礼拝に来てくださいよ。先週の礼拝での聖歌の独唱は、素晴らしかったそうじゃないですか。信者の皆が驚いています。こんな才能を隠していたなんて」

「ああ、まあ……お誘いありがたいけど、多分行かないと思うよ」

「駄目です。来てください。なんなら聖歌隊に入ってください」


 そういうのが煩わしいから、行かないんだよ。

 エミールは曖昧な笑みを浮かべながら、きっぱりと断った。


 先週の日曜日、数人しかいない街の小さな教会の聖歌隊で、唯一の男声独唱者が声が出なくなってしまった。

 サッカーワールドカップの試合を見て叫び過ぎたのだ、と信者たちはささやいた。

 その日の聖歌はバッハの作曲したミサ曲ロ短調の一曲で、誰でもすぐに代役が勤められる難易度ではない。

 信者やオルガン奏者、司祭が困りきっていたところ、教会設備の修理にやって来たエミールが、たちまち歌いこなしてしまった。

 彼にとってみれば大学の近くの教会で耳にしていたし、授業でも教会音楽は必須だったから、楽譜を拝借し初見で歌うことなど苦ではなかった。

 だが素性のしれない戦争難民の中年男が完璧な美声で歌うなど、地域の信者たちは想像だにしていなかった。


 その日曜日、オルガンの序奏に続き聖歌隊席にすっくと立ったエミールの歌いぶりは、一発目から素人の発声ではなかった。

 柔らかく伸びやかなリリックテノールは聖書の言葉を的確にとらえ、キラキラと輝くような響きに載せて人々に届いた。

 けして大きな体格ではないのに、体内から湧き上がるふいごの風のように、オルガンを圧して聖堂いっぱいに広がり、信者の耳を圧倒した。

 大天使ガブリエルのような声だ。

 そう呟いて涙する老人達も大勢いた。

 たちまち教会中であれは誰だ、本職の歌手ではないのか、どうにかして聖歌隊に入ってもらえないのかと大騒ぎになったが、エミールの家や行動を知るものは少なく、牛乳売りのパウルまで話が回って、やっとたどり着いたのだ。


「ともかく、僕が手助けできるのは先週の一回だけだ。その先は他の人、それこそ若い学生なりを引っ張ってくることだよ」


 エミールは教会に通う熱心な信者ではない。

 仕事や買い物以外は掘っ立て小屋の家から出ず、川辺の流れや遠い山々を眺める暮らしを続けていた。

 信者たちは家を探し当て、しきりと教会に来るよう口説いたが、彼は頑として首を縦に振らなかった。


 サッカーのワールドカップとやらで西ドイツがイギリスに破れた日、ライン河畔のエミールの小屋に、彼を探す若者たちがあった。

 戦後生まれ、ベッケンバウアーと恐らく同じくらいの年だろう。

 髪を伸ばしてジーンズを履いた若者2人は固く閉まったドアを叩き、丁寧に声をかけながら窓の方へ回り、ついには小屋のまわりを一周した。

 相棒の黒猫シュヴァルツと共に豆スープの昼食を取っていたエミールは、不機嫌にパンをちぎってスープに浸し、頬張った。

 若者たちは何度か家の周りをうかがい、丁寧に彼の名を呼び続けたが、やがて帰って行った。

 エミールはやれやれと胸をなでおろし、冷たい水で一気に豆を胃に流し込んだ。

(水が冷たくて美味いのがこの地の美点でもある)


 一方、若者たちは次の日も、その次の日も来た。

 借金取りやゲシュタポのように荒々しくドアを叩くでもなく、宗教関係者のようにしつこくドア越しの説教を続けるでもなく、様々な時間帯にやって来ては静かに『ハンスさん、いらっしゃいますか』と声をかけ、家の周りをまわり、やがて帰っていくのだ。

 そうした日々がしばらく続き、とうとうエミールは我慢できずドアを開けた。


「君たちはどういうつもりなんだ。働いて帰って来た僕の、唯一のくつろぎの時間を台無しにして。家の周りを踏み荒らして、春に植えた花の苗を台無しにしているじゃないか。警察の犬か何かか?」

「ああ、やっとお会いできた。大変失礼しました。ハンス・エーベルトさん」


 たいして失礼したとも思っていない顔で、若者たちが笑いかけた。

 真っ直ぐな青い目が澄んだ光を放っている。

 こういう一直線なまなざしをした若者は危険なのだ。20余年前の自分の体験が教えてくれる。


「帰ってくれ」

「あの、ハンスさんは以前本格的に音楽をおやりでしたね。歌の専門教育をお受けでしたね ? 」


 茶色の分厚い書く封筒を持った青年が彼の右に回り、もう一人と同時にハンスを挟むように動いた。

 とうとう来たか。

 6年前、親衛隊(SS)中佐アドルフ・アイヒマンが イスラエルの諜報機関モサドの工作員によって捕らえられたように、元収容所の看守だった自分の元にも追手が。

 既に中年になり、体力も気力も若い頃よりめっきり衰えたエミールは、この若者たちを振り切り走って逃げることなどできない。

 冷たい汗が背中をつたうのを感じた。


「そんな事実はない。歌はたまたま聞いて覚えただけだ」

「嘘を言っても無駄ですよ。聴けばわかります。あなたは音楽の高等教育を受けたはずだ」


 家の周囲も彼らの仲間に固められているだろう。

 絶対に逃げきれない。もう終わりだ。

 エミールは眩暈がするのをこらえ、瞼を閉じた。

 こめかみからの脂汗が、目に入らんばかりに流れ落ちていた。


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