第78話 ゼッキンゲンの屋根男
ドイツの敗北で戦争が終わり、過去を追及されぬよう国内各地を転々とした僕が住み着いたのは、ゼッキンゲンというドイツの最南端、スイスとの国境の州に位置する鄙びた山間の街だ。
ライン川に面した小さな集落だがその歴史は古く、6世紀か7世紀には修道院が建ち、10世紀にはライン川の中州の島に町が形成され、人々が商売を始め、栄えた。
以降少しずつ川を埋め立てながら敷地を広げ、戦時中も爆撃を受けることなく近世にえんじ色の屋根に白壁、小さな窓には濃い色の枠と中世そのままの旧市街が残っている。
廃止された修道院の建物も街の役場として活用されているが、僕にとって一番幸いなことは、その施設に駐留する連合国の兵士たちの数が少なかった。
国境のライン川にかかる橋を通ればすぐにスイスという位置もあり、古くからの住民しかいない小さな町はフランスの統治下に置かれたが、他の大都市圏のように住民に乱暴狼藉を働く駐留兵士は少なかった…と僕は思う。
酔っ払った兵士たちに車に押し込まれ連れ去られる市場帰りの娘や、駐留軍の狼藉に注意したフランス語を話せる男が、袋叩きにあい川原に死体で転がる、という事件もしばしばあった。
そんな暴力に直面しても、復員、また僕のように流れ着いた男たちは正面切って抗議することは少ない。
なぜなら自分たちも多かれ少なかれ、戦地や移動中の町々でやって来たという、身に覚えがあるからだ。
勝者による暴力はこの国だけでなく、どこでも『普遍の事』なのだ。
19世紀に詩として編まれ、後に演劇やオペラになった「ゼッキンゲンのラッパ手」の逸話以外にも、この街には名物がある。
隣国スイスとの間、ライン川にかかるヨーロッパ最長の屋根付き橋だ。
13世紀に建てられ、度々洪水や戦禍で壊されてきたが、今次の戦争では無傷だった。
ライン川の、時に猛々しさをむき出しにする流れに対抗する石の橋げたの上に木造の床板、明るい赤褐色の壁と大きく開いた窓。それを支える斜めに打ち付けられた支えの木材に、梁の上の窓。
中世、この街の修道院の権勢は大きく、川の向こうのスイスにも領地を持っていた。両国間を行き来する管理のため橋が必要という謂れらしい。
このゼッキンゲンの街に流れ着いた僕は、元国防軍の工兵だったと嘘の経歴を言い、橋の保守要員として働くことになった。
頻繁に人や車が(木造の古い橋なのに占領フランス軍の車両が通る時があった) 通るし、雪や雨に晒され摩耗が激しい。
塗料を塗り直したり、ひびの入った箇所、折れたところを早く見つけて直さないと、重大事故になってしまう。
僕には宿舎として、橋の渡り口近く、放置され荒れるがままの漁師小屋があてがわれた。
必要最低限の工具を支給され、毎日何度も橋を往復しては破損個所が無いか点検し、不器用ながら修繕する日々。
橋の外側は街と契約した漁師に船を出してもらい、点検する。
彼らはライン川の名物マスその他の川魚を捕り、風光明媚なホテルに陣取った占領軍におろしに行く。
「ナチがフランス人に変っただけだよ。ふんぞり返る奴らがいるってことでは何も変わらない」
日に焼け、深いしわを刻んだ乾いた肌の老人が、面倒くさそうにつぶやいた。
僕は曖昧に頷くと、命綱をつけ屋根に上り、風雨から我々を守ってくれる屋根の上もくまなく点検して回る。
街の人たちはいつしか僕を『屋根の上の男』と呼ぶようになった。
屋根の上。
そうだ、若いころ、ひとめぼれしたフランス娘の部屋に突入すべく、ベルリンの下宿の屋根を走ったっけ。
首尾よく彼女のベッドに飛び込むことが出来たのに、下でたまたま見ていた住民がゲシュタポに通報し、大家の婆さん共々怪しいと詰め寄られた。
あれは何年前だろう。僕がまだ初心な心を持っていて、音楽で人の心を動かせると考えていた時期だ。
友人、恋人、恩師、様々な人と損得勘定なしで交わり、歌い、ぶつかっていた。
全ては遠い昔の日々だ。
同棲し、無理やり犯して捨てたフランス娘は、この戦争を生き延びる事が出来たろうか。
歌い手の東の国の友人たちは、ピアノ弾きの日本人は。
僕は辛うじて生きている。
でも親衛隊の同僚の中には、占領軍や市民たちに捕まって処刑された者も大勢いるらしい。
僕は……生きたい。生きる権利がある。
死ぬべきなのは僕たちに無情な命令を下し、拒否したら逆に殺されるという恐怖を植え付けた、上の人たちだ。
全てを僕たち下っ端に押し付けてさっさと逃げた上官たちだ。
お前は死ぬべきだ、なんて言葉はもう聞かない。誰の命令も受けない。
この橋の傍の小屋で、絶えず流れる川面を見ながら一人で生き、市場で必要最低限の食べ物を買い、すれ違う役人や司祭に会釈をして過ごすのだ。
ここに来る前の街で会った片方盲目の小僧のように、こちらの『壁』を軽率に乗り越えようとする奴は嫌いだ。
人とかかわりを持たずに、一人で生き一人で死ぬ。
それが僕……エミール=ハンス・エーベルトの唯一の希望だ。
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