第77話 帰還兵ハンス

「ハンスさんこんにちは。どこに行くんですか?」


 片目に眼帯をした牛乳売りの青年が、道の真ん中に立ち止まると、僕に話しかけてきた。

 薄汚れた旅行鞄に身の回りのものを詰め、目立たぬように路地を歩く姿に気が付いたらしい。

 極力知り合いを作らないように、エミール・シュナイダーという名前を捨て、人との関わりを避け過ごしてきたつもりなのに、『僕』を記憶の中に組み込む人間はどうしたって出てくるのだ。

 人と人とのつながり。

 それは今、邪魔でしかない。


「母親が病気だって手紙が来たからね、故郷に帰るんだよ」


 もちろん嘘だ。

 母親は父親と共に、職を求めてドイツ国境の田舎町からウイーンに出て来て、空襲で死んだ。

 僕は他人を装い故郷のドイツ国境の街に足を踏み入れ、その話を聞いた。

 そしてもう二度と帰るまいと誓った。

 以来各地を渡り歩き農作業の手伝いして生計を立てている。

 春は白ワインの産地でブドウ畑で苗木の手入れや剪定、花の受粉作業。

 夏は南部のバイエルンあたりでホップの収穫。

 とにかく旅から旅へ。

 幸い僕らのような季節労働者は大勢いたし、誰も他人のことなど詮索しない。


「気を付けて。ハンスさんの故郷ってオーストリアの方?」


 片目を眇めた青年は、賢しらな笑顔で僕の前に立った。

 一瞬、心臓がぎゅっとつかまれた気がした。

 だがその気持ちを表に出すことはない。


「よくわかるね」

「南部なまりがありますから。僕、目は不自由でも耳はいいんですよ」


 パウルと言う名のこの青年は、ヒトラーユーゲントの少年兵として派遣された先、フランクフルトで空襲に遭った。

 爆弾の落ちた建物の、ガラスの破片が目に刺さり視力を失ったという。

 近くでハノーバー王家の王女が死んだ空襲だ。

 今はうっすらと見える片目のおかげで、荷車を引いて牛乳を売り、なんとか日々の糧を得ているらしい。

 手足や背骨が無事だっただけでも幸運ですよと、彼は言う。

 街の郊外で、粗末な小屋に一人暮らしている彼の親族が無事なのか、僕は知らないし、聞きもしない。


 僕、元親衛隊員でナチス収容所看守のエミール・シュナイダーは死んだ。

 そういう事になっている。

 ドイツの敗北が決定的になった時、僕は既に収容所勤務を離れ、ズデーデンで農業・食料統括の事務方の仕事に就いていた。

 東から移動してきた人のうわさで、赤軍がベルリン近くまで迫っていると聴くと、事務所は所長の一存で解散した。

 書類や記録をすべて焼き、建物もいち早く引き払い、まだ動いていた鉄道でドイツ本国へ、そしてスイス国境の小さな村まで逃げた。

 主に負傷兵を輸送する列車も接続した貨車も人また人でいっぱいで、かつて東の収容所へ向かった、ユダヤ人満載の車両を彷彿とさせた。

 敵機の空襲があると車両は止まり、ばらばらと飛び降りた僕ら兵士は森や藪に身を隠し、破壊された列車と機銃掃射で吹っ飛ばされた同胞を後に、徒歩で彷徨った。


 途中食料を求めて、駅近くの民家に入った。

 家の中も家畜小屋も、周囲の畑も砲弾や銃撃を受け、めちゃめちゃに破壊されていた。

 食事の最中だったのか、年老いた農夫とその妻、そして負傷し帰還したであろう腕を一本失った若い兵士が、機銃に撃ち抜かれて死んでいた。

 僕はその若者…死んだ国防軍兵士の服と身分証、家中を漁って見つけた鞄、毛布や下着類を拝借し、そして戸棚や竈の中の食べものもいただくと、すぐに逃走した。

 青空の下、屋根も壁もすっかり破壊され、食卓に突っ伏して殺されている家族。テーブルには何故か、芋や野菜の載った食器が砕かれもせず残っている。

 それはとても奇妙な、時間の止まった永遠のピクニックともいえる光景だった。


 死んだ兵士の身分証を手に入れて以来、僕は元国防軍兵士のハンス・エーベルトと名乗っている。

 なりすまされたハンス君は、家族や親類縁者全てが死んでしまったようで身寄りはなく、幸い僕を追及する者はなかった。


 そして、美しき五月、我がドイツは負けた。

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