第80話 生きる価値のある
「で、ですね。是非とも私たちの目指す演奏会に参加協力してほしいというわけです」
「ドイツ全土からの有志が西ベルリンへ集まるんですよ。素晴らしい企画です」
二人の若者が、薄いタンポポコーヒーを飲みながら熱弁をふるっている。
エミールはコーヒーを飲まない。
若い頃はビールと濃いコーヒーが手放せなかった身だが、敗戦と逃亡生活を経てすっかり健康志向になってしまった。
コーヒーは心臓に悪い。ドキドキしてしまう。眠れない。悪夢を見る。命が縮む感じがする。
面と向かって渋い顔をしたエミール含め、三人の前の粗削りな木のテーブルには、教会に配るための演奏会の企画書とチラシがのっている。
戦前ベルリンで活躍したユダヤ人作曲家の作品『レクイエム』を、同じ西ベルリンの聖三位一体福音教会で演奏しようという趣旨だ。
宗派を超えた教会、そして一部のキリスト教閥の政党、そして教育団体も協賛に名を連ねている。
南、北、西。共産党独裁下に無いドイツの各地からの希望者が集まり、平和を願うコンサートになるという。
その演目を読み、スタッフを目にしてエミールは目を疑った。
曲の名は『Requiem für ein lebenswertes Leben』。
生きるに値する命のためのレクイエム。
作曲者はイサーク・ヅィンマン。
戦争前、ベルリンの音大でオペラの教鞭をとり若き音楽学教師、作曲家として活動していた人物だ。
エミールの背を冷たい汗が伝い、胸の奥がしびれるほどに高鳴った。
知っている。自分はこの曲も、作曲者もよく知っている。どこでどのような活動をしていたかも。
戦争が始まる前、彼の最後の作品の写譜だといって、弟子のセルビア人女学生ミリヤナが配ってくれた楽譜の曲だ。
親衛隊に入る際、他の楽譜類と一緒に故郷に郵便で送ったが、激しい空爆にあい焼失してしまった。
だが題名は忘れもしない。同じ曲だ。
「珍しいタイトルのレクイエムだね。新曲かい?」
第二次世界大戦後、ヨーロッパのクラシック音楽は大きく変わった。
戦前からある無調音楽がより先鋭化され、もはやエミールのような中年は理解できない前衛的なものが幅を利かせていた。
「いえ、この作曲者ヅィンマンの、戦争前の作品なんですって。だから今どきの曲よりは音は取りやすいと思います。しっかりとしたやや古典的な和声の作品です」
エミールはチラシを読むふりをして、若者二人に尋ねた。
「戦前の作品という事だが、このヅィンマンという作曲家は、今も活動をしているのかね ? あまり聞かない名前だ」
「彼は名前が示す通りユダヤ系で、ベルリンで生まれ育ちましたが、密告に会いスイスへの亡命に失敗し、収容所に送られた後、足取りが途絶えています。おそらくその地で命を絶たれたろうと言われています」
やはりか。エミールの鼓動は鎮まることはなかった。
自分が収容所で、新たな囚人たちを追い立てて『選別』に向かわせていた時、ありったけの上着を着こみ、全財産を身に着けたユダヤ人たちをたくさん見てきた。
中にはベルリンの音大の同じキャンバスで学んだ友人や教員もいた。
カトリックの修道女の衣装を着けた女性達も、第一次大戦でドイツのために戦った元兵士もいた。
『選別』された彼らは生きられなかった。
「現代音楽というよりはもうすこし昔なので、僕らにしてみたら難しくはないと思うのですが、伝統的な教会音楽、ドイツ音楽家と言われると違います。
なので、希望者の大半を占める高齢の信者さん達には、なかなかとっつきにくいらしく……」
「だから歌の経験者を探しているんです。ハンスさんの、この前の教会での初見のソリストは大変に素晴らしかった。ぜひぜひお願いします」
「本番は、いつなんだい? 」
エミールは冷淡に尋ねた。
参加する気は3割もない。
伝統的な演目ならいざ知らず、ヅィンマン先生の、殺されゆく障碍者やロマ、同性愛者、ユダヤ人のためのレクイエムだ。
自分が祭壇に立ち歌う姿など想像できない。そんな案件に近づくことなどできない。
ふと、束ねた企画書の何ページ目かに、参加予定のスタッフたちの名があった。
楽譜の出版社、楽器の製作会社、照明、録音、教会関係……そして『楽譜提供、総合舞台演出 ミリヤナ・アシュバン』
エミールは眩暈を覚えた。
戦争中、プラハ郊外のテレジン収容所にドキュメンタリー映画の撮影スタッフとしてやって来た、凛としたセルビア人。
若い頃と変わらず、親衛隊員となった自分に臆せず耳の痛い言葉を浴びせかけた女。
撮影が終了し、一行が帰途についたと同時に、プラハのゲシュタポに逮捕を命じたのだが、逃亡されたと聞いた。
彼女は生き延びることができたのか。
「ちょうど一年後です。どうですかハンスさん。大事な演奏会なんです。ぜひぜひ力を」
「いいよ」
意思に反し、喉の奥から声が出た。
「本当ですか!? この地区の有志合唱に参加してくださるんですね」
「ああ」
エミールはとり憑かれたように言葉を発していた。
「いいよ。参加する。僕でよければ」
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