第75話 僕はここにいる

 ソビエト軍が間近に迫るまで、僕らはケーニヒスベルク市街の外郭に何重もの溝を掘った。

 本来なら『塹壕』と言うべきかもしれないが、プロの軍隊の手による、機能的に掘り進められた立派なものではない。

 どうにか中に入り、体を隠せるだけでしかなく、雨が降ったり、雪解け水が凍り付いたりまた溶けて、ぐじゃぐじゃの粘土質の泥になってもそのまま。

 側壁に木を打ちつけて固めたりも出来ないしろものだ。

 いうなれば、警察大隊がユダヤ人たちや裏切者、スパイや逃亡兵を射殺する時に、撃たれる者自らの手で掘らせる大穴。上から銃で撃ち殺される、逃げ場のない大穴。それにそっくりだった。


 僕らはそこにじっとしていた。

 国民突撃隊と言ったって、お上からろくな装備品も渡されない。

 銃は親父が狩猟に使っていた、何十年も前の古いものだ。

 

 不意にすぐ近くで砲弾がさく裂した。

 数メートル前の被弾穴に飛び込んで逃れてきた、ハンス爺さんの体が二つか三つに破断され、空を飛んだ。内臓がひらひらとリボンのように舞う。

 そのすぐ脇の地面を這いつくばって、後退しようとしていた八百屋のユーリが、僕が潜むこちらの穴に飛び込んできた。

 恐怖で大便を漏らしたのか、強烈な悪臭のする四肢で僕に抱き着いてくる。


「こわい、怖いよ」

「わかった。いいから離れろ」


 僕は叫んで、全力でしがみついてくる彼の手足を引きはがそうとした。

 泥のぬかるみか、奴の便か。

 分からないほど臭いねばねばが、べっとりと僕の体に付く。


「いい加減にしろよ」


 やっと奴を引き離したと思ったら、パアンと甲高い音が響いた。

 とたんに周囲が真赤になり、頭を吹つ飛ばされぱっくりと口を上げたユーリの体が、空高く踊った。

 途端に目の前が、舞い上がる泥と砂で真っ暗になった。

 いかん。目に入ると傷つく。

 僕はとっさに瞼を閉じたが、やや後に目を開けた時も、さらに経っても視界は暗いままだ。

 なぜだ。もう夜になってしまったのか。

 いや、そうじゃない。

 僕の左後ろから、奇妙な角度で薄ぼんやりとした光が差し込んでいる。

 とすれば、これは砲弾が直撃した後の砂塵と煙か。

 しばらくすれば見えるようになるのか。


 鳥の声がわずかに聞こえた。

 恐怖で気が狂った男の叫び声、こんな縁もゆかりもない土地まで来て死にたくねえよと叫ぶ、ベルギーから徴兵された男の声もする。

 なのに全体は妙に静かだ。

 先ほどまでピュンピュンと空を切り、地面や同胞を切り裂いていた銃の音も、炸裂する砲弾の、腹に響き内臓を揺さぶる重低音も聞こえない。

 目の前に、手足を妙な形でひん曲げた男の死体が転がっている。

 胸から腹にかけて大きな破片でも喰らったのか、腹腔がぱっくりと裂け、内臓をさらけ出していた。

 あれは誰だ。八百屋のユーリか、ハンス爺さんか、14歳だという本屋のせがれのルドルフか。

 しばらく待てば、この目に飛び込んだ砂や灰や埃が涙で洗い流されて、何が起こったのか、どのくらい酷い状況かわかるだろう。

 でもおかしい。いつまでたっても、仄明るい一角を残した空は暗いままで、僕のすぐ目の前に転がっている死体以外は見えない。

 とはいえこの闇の中、仲間の誰かが助けに来てくれるかなんてことは考えられない。

 そこまで期待しちゃいない。


 不意に、今は離れてしまった、かつての仲間たちのことを思い出した。

 ホテルの女性スタッフたちはどうしているだろうか。

 一月の敵の砲撃の後、手持ちの荷物をまとめ、他の避難民と一緒に隊列を組んで、徒歩で出発したはずだ。

 そのあとすぐ、市街に陣を張った軍人たちから、地上の路は既に人や荷馬車で溢れかえっているし、ソビエト軍が途中の西に通じる地帯も占領していると聞いた。

 彼女たちに残された道は、凍った海の上を歩き、ポメラニアに続く細い砂州を渡ってドイツに向かって進むしかない。

 軍人たちは、女や子供老人たちが、陸の上でも海の上でもバタバタと凍死して、薪のように真っ黒に凍りついていると言うが、本当だろうか。

 彼女たちにはなんとか逃げ延びてほしい。


 両親……年老いた彼らは、グダニスクの近くの港まで行って、大型の避難船に乗ると言っていた。

 名前は、そう、確かヴィルヘルム・グストロフ号。

 そこから護衛の船に守られて、ドイツの港を目指すと。

 昔の知り合いの伝手で乗船手配してもらえたのだと。

 そう言って、早々とケーニヒスベルクの街を離れた。

 20万人近い市民がここに残されたというのに。この運命の違いは何だろう。


 運命。そう、運命はいつも一方通行だ。

 後戻りすることも、やり直すこともできない。

 ベルリンで学べなくなった後、何人かの教授たちのようにロンドンやアメリカ、スイスに逃れられれば、僕はまだ音楽をやっていられただろうか。

 でも、もう無理だ。

 僕の耳はいま千切れて、数センチ前の地面に落ちている。

 先ほどまで聞こえていた気がする、塹壕で敵の砲撃と射撃の餌食になっている奴らの声。

 それすらも聞こえない。

 まして、僕の好きだった音楽など。

 待てよ。僕はどんな歌を歌って来たんだっけ?

 どうした。なにも浮かんでこないぞ。

 僕は確かに音楽を勉強していた。仲間と歌い、演奏していた。

 なのに、その歌がちっとも出てこない。思い浮かべることすらできない。

 音楽は地獄の状況の前に、こんなに無力だったのか。

 芸術が平和な美しい世の中になるよう貢献できるなんて、誰かがご高説ひけらかしやがった気がするのだが。


 芸術は、無力だ。


 目の前の黒い霧が晴れてきた。

 僕は見た。

 目の前に転がる、内臓をぶちまけて転がっている体。それは、自分だった。

 軍服代わりの防寒服に、名前が書いてある。

 ゲアハルト・シュミット。


 僕は、目を閉じた。


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