第74話 戦場にいた・3

 1945年1月27日。

 東プロイセン東部、ソビエト軍との前線付近から雪崩を打って流入する避難民を持て余したナチ党大管区指導者エーリッヒ・コッホは、彼らを港町ピラウ(現ロシア・バルチースク)から出発する大型避難船に詰め込み、西方へと送り出した。

 約1800人の民間人、1200人の傷病兵。

 そして、誰よりも東プロイセン人民に檄を飛ばし、締めあげ、西に逃れようとする人々を『敗北主義者』と罵り、鉄道切符を買う事すら妨害していた、ナチ党大管区指導者エーリッヒ・コッホその人が乗っていた。

 コッホは全ての責任を、前年11月にドイツ国防軍司令官として赴任したばかりのオットー・ラッシュ将軍に押し付けた。

 自分はベルリンに去り、そこから部下たちへ役に立たない「指導」を打電するのみだった。


 忌々しいガウライター、コッホ(Gauleiter)を載せた最初の船の夜間航海は、確かに成功した。

 だがこれに続くはずだった避難船はことごとく沈められた。

 自由都市ダンツィヒ西の湾内で、バルト海で。


 1945年1月30日。

 ダンツィヒ湾の西ゴーテンハーフェン(現在はポーランドのグディニヤ)の港から荒天で波高いバルト海へ、大型客船ヴィルヘルム・グストロフ号が出航した。

 東プロイセンから逃れてきた1万人近い軍人軍属・避難民を満載し、大荒れの海に漕ぎ出したのが午後3時過ぎ。

 我も我も、乗せてくれと追いすがる、小舟に乗った避難民の群れを押しのけての出航だった。

 敵対するソビエト海軍にとって、この海域での制海権は未だ盤石なものではなかったが、数少ない魚雷艇や潜水艦が北の海を哨戒していた。

 その中で、たまたま発見されたのが、こぼれんばかりに人々を詰め込んだヴィルヘルム・グストロフ号だったのである。


 1月30日夜8時05分、荒れ狂う海上に激しく上下する船の灯りを、ソビエト海軍潜水艦s-13はとらえた。

 乗組員は、すぐにそれが軍艦ではなく民間船であることを理解したが、追跡の手は緩めなかった。

 激しくうねる高波の間に、一時間以上全速力で追い続けたうえ、夜9時08分、3発の魚雷を発射した。

 それらはいずれも左舷の艦首付近と中央部に命中し、船内にはたちまち凍れる海水がなだれ込んできた。

 命からがらの避難に疲弊し、高波に翻弄される船内で眠れぬ夜を耐えていた人々は、たちまち大混乱に陥った。

 救助用のボートもカッターも充分に下ろすことが出来ず、まして船内深く詰め込まれていた人々が甲板まで出てくるのも間に合わず、魚雷命中から1時間あまり後、船は横転し、沈没した。

 現在のポーランド、シュトルベミュンデ沖の厳寒の波間に、9800人余の人々は沈んでいった。

 ゴーテンハーフェン(グディニヤ)港から追随した二隻の護衛艇は、余りの荒天に、沈没現場に近づくことすら難しいありさまだった。


 1945年1月に始まる東プロイセン避難民の、ドイツ本国や占領国デンマークへの海上避難輸送を「ハンニバル作戦」という。

 ドイツ海軍元帥カール・デーニッツの指示のもと、残存のドイツ海軍船舶をはじめ漁船、小型船などあらゆる船を用いて実行され、約90万人のドイツ系民間人と35万人の兵士が海を渡り逃れた。

 だが撃沈された船舶は、先のヴィルヘルム・グストロフ号に留まらなかった。


 2月9日、ダンツィヒ湾の都市ピラウの港を出たドイツ海軍の輸送船シュトイベン号は、同日真夜中、ソビエトの潜水艦s-13の発射した2発の魚雷を受け、30分も経たぬうちに沈没した。

 3500人余りの兵士と海軍関係者、800人の避難民は極寒の冬の海に飲まれ、大半が溺死するか凍死し、救助されたのは600人前後だったという。


 東部戦線の絶望的な状況が隠しきれなくなりつつある4月16日。

 約7000人の兵員輸送船ゴヤ号もまた、ソビエトの潜水艦に見つかった。

 船団を組み、ダンツィヒ湾とバルト海を画する細いヘル半島を出航、沖を航海中のことである。

 本来ゴヤは、潜水艦の追跡を振り切れるほどの速力を持つ船だが、船団の一隻がエンジンの修理に時間を費やしたせいで、減速せざるを得ず、機雷敷設潜水艦の攻撃にさらされる事態に陥った。

 日付が変わる直前、発射された2発の魚雷を受けた輸送船ゴヤは、艦体中央部で大爆発を起こし、ものの3分余りで海中に没した。

 約7000人と言われる乗船者のうち、救助されたのはわずかに183名ほどである。


 一方、凍死者や餓死者を出しながら、凍り付いた東プロイセンの大地をさまよう陸路の避難民は、比較的安全に思われた避難船が沈没させられているのを知らなかった。


 敗戦直前の4月末、ドイツ北部エルベ川河口近くのノイエガンメ強制収容所から、中立国スエーデンに収容者を逃がそうとしていた民間の船団が、ハンブルグ近くの港を出た。

 ヨーロッパ各国の捕虜を満載し、リューベック湾を進む3隻の船に、イギリス空軍は襲いかかった。

 かつてハンブルグから南アメリカへと航海していたクルーズ船「カップ・アルコナ」、輸送船「ティールベク」、病院船「ドイッチュランド」の3隻が沈められ、保護を期待し乗り込んでいた数千人の捕虜たちは海に沈んだ。

 ソビエト、ポーランド、フランス、デンマーク、オランダの兵士たちだった。


 5月8日のドイツ敗戦までに、撃沈された避難船の数は158隻にのぼる。


 そして、敗戦一か月前の4月初め。

 全方位にわたりソビエト軍に包囲され、避難も禁じられたケーニヒスベルク市民たちは、絶望的な戦いを強いられていた。

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