第66話 小さな訪問者
6月。ドイツの辺境東プロイセンにも輝く夏が訪れる。23・24日は北欧の伝統・夏至祭りが催されるのだ。
元々は北の短い夏の日、太陽を称えそのエネルギーを取り込もうという、キリスト教伝来以前よりバルト海周辺で行われてきた古い祭りだ。
ナチスがやって来てからは、キリスト教(ルター派や、隣国ポーランドの影響でカトリックも多い)よりむしろ、ゲルマンの古い民族色を残す行事として奨励されるようになった。
なので戦況が悪化するまで、夏至祭りは冬のクリスマスより盛大に行なわれたのだ。
僕らのホテルも、毎年地方の村からわざわざやってきて、海に近い丘で松明を焚き花冠を被って踊り明かす、祭り客でにぎわう。
リトアニア人にとってもドイツ人にとっても楽しみな日なのだ。
当然それに向けて、早い時期から季節の新野菜の料理や、豚肉料理に添える甘いベリーソースの材料、秋から仕込んでおいたキノコや野菜の塩漬け、サラミや果実酒などを駆使して準備に取り掛かる。
ホテル厨房のシェフも助手も下働きの通いの婦人たちも、腕に寄りをかけて春先から保存食作りに励んできたし、新鮮な食材を夏の市場で物色する。
僕はと言えば、豚や芋や穀類を馬車に載せて売り込みにやってくる、近郷の農家に吹っ掛けられ、古参スタッフに叱られる日々だった。
(ドイツ本国帰りの坊主だと舐められてしまうのだ)
6月初めのある日、ホテル裏手の厨房近くの勝手口を荒々しく叩く音がした。
「何でしょう、またナチの奴らかしら」
厨房のベテラン助手ルータおばさんが、練り粉を捏ねながら不安そうな顔を上げた。
ドアを叩く音は何度も繰り返される。
「うるさいな。料理に必要な集中力がそがれる。叩きのめしてやる」
コック長のヨーナスが、パイ生地を伸す木の棒を持って進み出した。
今夜のメインディッシュは松の実と干しプラム入りのひき肉パイ包み焼きなのだ。
「あああ、ヨーナスさんちょっと待って。神聖な我らの伸し棒が穢れてしまうじゃないか。僕が行ってみてきますよ」
僕はあわてて彼を押し留めた。
実際、週に何度もナチの奴らはやってくる。
自分達の事務所の下の階と言う事を差し引いても、怪しいものやスパイを匿ってはいないかの検分、と言う名の、要はつまみ食い目当てなのだ。
彼らの好物のシュヴァイネブラーテン(豚すねの煮込み)やルラーデン(薄切り肉の野菜巻き)、レバーケーゼ(ひき肉のロースト)、シュヴァイネハクセ(豚すねの炙り焼き)の時は特に、漂う匂いに誘われるごとくいかめしい顔を作ってやってくる。
そして
「毒見だ。お前達現地民は信用ならないからな」
とこちらの返事を待つこともなく、そこらへんの調理スプーンやフォークをひっつかんで遠慮なく食べていく。
全く躾のなっていない、野卑なハンスどもだ。
鳴り続く連打僕はうんざりしてドアを開けた。
「分かりました。分かりましたよ。聞こえています」
なるべく下手に、丁寧に。
だがそこにいたのは破れた服に鼻血をだし、あざだらけの顔をした男の子と、怒りで顔を真っ赤にした作業着姿の農夫だった。
「ドイツ人の旦那、この坊主がですね」
「ええと、こちらはホテルの勝手口でして、厨房に繋がる裏口です」
男はしまった、というふうに口を閉じた。
「もしかして、ナチスお役人の方々に用があるんですか? 私がお取次ぎしましょうか?」
「どうでもいいよ坊主。俺はユダヤ人のネズミを一匹捕まえて、引っ立てて来ただけだ」
「それがこの子……ですか?」
「そう。こいつは警備大隊から逃げ回っている異教徒の小僧でさあ。恐らく森の中に隠れていたんだろう。俺の地所のジャガイモ畑に忍び込んで、引っこ抜いて食べようとしやがった」
農夫は思い出し怒りを新たにしたようで、改めて子供の首をつかんでひっぱり上げた。
男の子はもう散々ぶちのめされたようで、顔が腫れあがり、抵抗する様子もなくぐったりしている。
農夫が力説する『新じゃがを盗もうとした』件は、夏至の前は特に重要なのだ。
なぜなら短い北国の夏、新じゃがや初物の夏野菜たちは、大地の活力の象徴のような、夏至祭りの間のご馳走なのだ。
東プロイセン、リトアニアは中世以前からユダヤ人のとても多い土地柄で、経済的にも文化的にも大成した偉人は多い。
音楽、文学、哲学、演劇。経済学に法学、医学。
厳格なカトリックであるポーランドからの移民も多かったのだろう、ドイツの他の土地より、諸民族の生活はわけ隔てなく馴染んでいた。
そこにナチがやってきて暴力と脅迫での差別政策を始めると、人々のユダヤ人を見る目は変わった。
この農夫のように、市民が逃亡者になったユダヤ人や彼らを保護する隣人たちをゲシュタポや市民大隊に密告し、見返りを貰う。
そんな世の中になったのだ。
僕は農夫の名前と住所を聞きだし、ゲシュタポの幹部に取りつぐかを改めて尋ねた。
この国には密告による褒賞目当ての人間が多いのだ。
事務所の様子を窺うと、大規模なパルチザンの摘発があるのか、ドイツ人や現地リトアニア人の民兵たちが殺気だって武器を持ち、移動の準備をしている。
僕は肩をすくめ、ホテル会計の金庫を開け、いくばくかのまとまった金を取り出した。
「役人たちは忙しそうで殺気立っている。僕がこいつを預かって引き渡すから、この金を持って帰ってくれ。奴らが協力者に逃走者を引き渡した時にくれるのは、だいたいこのくらいの金額だ」
農民はマルク札をポケットに詰め、自慢げに顔を上げて帰って行った。
見渡すと、男の子は部屋の隅にじっと身を潜めこちらを睨みつけている。
垢じみて泥と汚物にまみれたぼろをまとい、何日も体を洗っていないのだろう、鼻を突く異臭がする。
殴られた痣だらけの腫れた顔から覗く瞳は灰色で、ぼさぼさに汚れ埃と汗で固まった髪は金髪に近い薄い褐色だ。
この辺の北方ユダヤ人には、薄い髪と目の色をした、白人と変らない外観の人が多い。歳は10歳前後だろうか。
少年はわずかに顔を上げ、上目づかいで僕を観た。
「兄さん、僕を殺すんでしょう?」
「僕は、殺さないよ」
「あんたが殺さなくても、ドイツ兵に引き渡すんでしょう?」
暗い瞳と声に、僕は飲み込まれそうになった。この子は身も心も、もう半分死んだも同然の存在なのだ。
「そうだな。なんというか…」
存在を知られれば、僕はこの場でホテルの上の階に行き、兵士たちの慌ただしさをよそに寛いでいる将校に、このユダヤ人の子を渡さなくてはならなくなる。
その時、風に乗って銃声がした。
そんなに離れていない、運河を渡り目抜き通りを抜けた街外れで、またパルチザンかスパイの処刑があったのだろう。
銃声は間を開けて何発も続いた。
子供は怯えるでもなく、気難し気な固い表情で、床に座り込んだ足を縮め、身を固くしている。
「僕を殺すんだったら、その前にジャガイモか豆かパンを食べさせてくれないか?」
僕は考える間もなく、子供の手に昨日の古くなったパンを握らせていた。
客が遺した余り物で、もうガンガンに固くなっているが、すりおろしてケーニヒスベルガー・クロプセ(ケーニヒスフベルク風肉団子のクリーム煮)に使うためにとってあったのだ。
そして、周囲に誰もいないと見計らい、手を引いて裏口から出た。
運河の渕に出ると、少年は震え出した。
縛られて川に突き落とされるとでも思ったのだろうか。
僕はそのまま、専用の桟橋に留めてあるホテル専用の小型船に連れて行き、甲板下の船員室に押し込んだ。
きれいな水を桶にくみ、汚れた服を全部脱がせ、シュトットゥガルトから買い付けたホテル仕様の石鹸で、頭の先から足の先まで洗った。
少年の性器の先はユダヤ人の習慣にのっとって割礼してある。ドイツ兵がユダヤ人とそれ以外の子を見分ける要件の一つだ。このため男の子は特に匿うのが難しい。
すっかりきれいにすると、子供に船倉に隠してあったサラミと、コケモモのジャムを食べさせた。
男の子は面食らい、勧められるままにかじりついた。
「うまいか?」
男の子はこくりと頷いた。
「家族はつかまったのか? 」
男の子はもう一度頷いて、呟いた。
「僕が森の木の実採りから戻ったら、目の前で妹と母さんが撃たれてた」
彼は再び森に戻り、畑の野菜を盗んだり、同情した人から食べ物を恵んでもらったりして生き延びてきたという。
「お前は生きのびたいか?」
子供は食べる手をとめて、じっと僕を見返した。生き死にの選択権はこの子にはないのだ。
「生き延びたいんだったら全てを忘れろ。君は今日からリトアニア人の孤児だ。ユダヤ人じゃない」
男の子は目をぱちくりさせて、唇を動かした。
何か言いたそうだったが、言葉が出ないらしい。
「名前も、出自も新しくして……そうだな……名前は『ニコラス』。パルチザンの襲撃を受けて家族を殺され、さまよっていた孤児だという事にしてやる。このホテルで働くんだ。いいね」
子供はこっくりと頷いた。まだ頭が事態について行かないようだ。
僕はホテルの上長の元に、ぶかぶかのシャツを着せた少年を連れて行き、記憶喪失の焼け出された孤児として引き合わせた。
彼『ニコラス』はこうして僕らホテル・カイザー・ヴィルヘルムの最年少のボーイとして、住み込みで働くことになった。
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