第65話 ホテル・カイザーヴィルヘルムへようこそ・1

「じゃ母さん、行ってくるよ」

「行ってらっしゃい可愛い息子。今日は夜勤かい ?」

「その『可愛い息子』って言うのやめてくれないかな。僕はもういい大人なんだから」


 今日から夜勤が二日続いて、昼間は待機だから、帰りは水曜日になるよ

 母親に告げてアパートの階段を駆け下りた。


「足元に気を付けるんだよ、ころぶんじゃないよ。愛しいいゲアハルト」


 また言っている。

 良い歳した25過ぎの大人なのに。

 母さんはいつまでも僕を子供のように扱う。

 どこに行くのか、いつ帰るのか、誰と行くのか。

 ギムナジウムに通っている時分の、半ズボンをはいた少年のように世話を焼きたがるのだ。

 以前から僕への依存しがちだった母さんは、僕がベルリンから帰った後ますます干渉がひどくなった。

 でも父さんは黙って笑っている。


「お母さんはとっても不安で、お前のことが心配で心配で、神経を病みそうなくらいだったんだよ。少しくらいの世話焼きはやらせておいてやりなさい」


 母さんの心配性は分かっているし、原因はベルリンでの僕の素行にもある。

 イサーク先生を庇い突撃隊と喧嘩をして、ゲシュタポにしょっ引かれたときは、心配で卒倒したそうだ。

 以来、帰って来た自分はお坊ちゃま扱いだ。


 本当は泊まりを伴うホテル勤務にも反対していたらしい。

 朝出かけて夕方にはきちんと帰ってくる、教師か役所の職員か、店員が良かったのだそうだ。

 だが生憎、僕が地元のホテルにさっさと職を決めて来たので、母さんは口を挟む暇もなかった。

 決める前に相談くらいしてほしかったのにお前ったら。

 そう、耳にたこができるくらい愚痴られた。

 勘弁してほしい。

 僕はもう、独立した大人なんだ。

 本当は家を出てホテルの職員アパートに住みたいくらいだ。

 お願いだから家から通ってとしつこく訴えるから、不規則な勤務体系なのにいちいち家に帰っているのだ。


「気分転換になっていいじゃないか。

 俺たちなんかホテルで軍人が暴れたとか、酔っぱらって娘を連れ込んだとか、こと がある度に呼び出されて駆けつけなきゃいけないんだぜ」

「そうそう。一階と最上階のドイツ軍将校たちがうるさいんだ」


 僕、ゲアハルト・シュミットはベルリン音大での学びを終え、故郷のケーニヒスブルクで老いた両親と暮らしている。

 場所は市街の真ん中、大聖堂のすぐ近くだ。

 とりわけ金持ちではないが、父は名産品である琥珀の輸出関連の仕事に従事し、息子の僕をベルリンの大学に行かせられるくらいの財力があった。

 ベルリンから戻った僕は市内でも歴史あるホテルに職を得た。

 ある程度英語が出来る事を買われ、ホテルコンシェルジュとでもいうか、態のいい何でも屋を任ぜられたのだ。

 勤務先のホテルは市内を流れるプレゴリヤ川の運河に面した5階建ての明るい外観で、一階をドイツ軍の宣伝局が事務所代わりに使っている。

 最上階はその将校たちの宿舎だ。

 毎朝門にハーケンクロイツの旗を立て、磨き上げた窓にも目立つ朱い党旗を掲げる。

 それも僕らホテルマンの仕事だ。

 調度を整え、建物内を綺麗に保ち、将校や出入りの軍人、役人たちを満足させる。

 そして一般の利用客もきちんともてなす。

 そう、ここケーニヒスブルクはドイツ・東プロイセンの首都で、中世後期から続く重要な都市なのだ。


 東の友軍の前線方面から、ソビエトの赤軍が侵攻しつつあるという話がちらほらと聞かれるが、まだ街には戦禍の影は無かった。

 船も、鉄道も市電も、運河の渡し舟も食料や物資を満載して運行している。

 僕らのホテルは軍宣伝局の詰め所なので、市民が知りえない情報も、立ち話や軍人同士のお喋りを通して漏れる事がある。

 最近も、ラインハルト・ハイドリヒSS大将の弟が、ベルリンから当地に向かう列車の中で、銃でわが身を撃って死んだとの噂が伝わってきた。

 なんでもその弟は、ナチス党の宣伝部隊に所属して広報誌の取材や編集の任についていたが、裏でユダヤ人を逃がす活動をしていたのが知られ、自殺したらしい。

 その噂を僕らにもたらした、ベルリンから来た食品商人の顔は青ざめ微かに震えていた。

 このケーニヒスベルクの地でも、ユダヤ人は連行され、一掃されている。


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