第64話 光と空の音を聞け

 海岸のコテージに着いた日の夜、疲れ果てベッドでぐっすり寝ている姉妹を起こすのをためらった。

 彼女たちにしてみれば長い間人目を避けて隠れ家で暮らし、そのうえ親と別れて見知らぬ東洋人の男と鉄道で長旅をしてきたのだ。

 言葉は分からないがデンマーク人のレジスタンスたちに笑顔で迎えられ、お腹いっぱい温かいスープと魚料理を食べ、温水浴で体も洗えた。

 ようやくたどり着いた温かなベッドで、あどけない寝顔を相寄り添って眠る少女たちをこのまま心行くまで寝かせてやりたい。レジスタンスメンバーも僕もそう思った。だが、深夜のうちに移動しなければならない。

 皆は優しく姉妹を起こし、身支度をさせた。

 姉妹たちも聞き分けよくきびきびと動いた。

 しっかりとした靴を履き、コートの下に荷物を隠し、彼らは海岸に向かった。

 入り組んだ浅瀬のごつごつした岩場を下り、案内人の言う通り大きな岩かげに3人寄り添って身を潜めていると、岩かげから小さな漁船が現われた。


「日本人とユダヤ人だね」


 節くれだった大きな手の、屈強な船員が甲板に立ってこちらを観ていた。


「そうです。日本人のシンノとユダヤ人の姉妹です」

「話は聴いているよ。話をしている暇はない。乗りなさい」


 船員が船を留めている間、僕は少女たちの手を引き岩場を降りて行った。

 冷たい波が足首を洗い、靴の中まで水が入って濡れる。

 切り立った岩場の上から、今にもドイツ兵のカンテラがそこらを照らしそうで僕は内心びくびくした。

 誰だってわが身は可愛い。僕だってそうだ。

 ベルリンに戻った時はこんな状況に身を置くとは想像だにしなかった。

 だがその街には僕の『仲間』がいた。

 ヘルマンにハンナ、そしてキム。

 彼らにとっては僕なんて、利用価値のあるヤーパンにしか見えなかったかもしれないが、僕は彼らを仲間だと思っていた。

 だが今、その仲間、友人達。誰もいない。


 夜のパルト海のデンマークとスウェーデンの国境。

 漁船には先客がいた。5人のユダヤ人家族。

 みな金髪に薄い青や灰色の目。真っ白な肌に三人の子供たちの頬にはそばかす。みな白人にしか見えない。

 コートやマフラー、帽子やセーターを重ね着してまん丸の地蔵のように着ぶくれていた。

 彼ら5人と、僕とユダヤ人の幼い姉妹の3人は、船の狭い甲板で炭の入っていた麻袋を頭からかぶり、荷物や釣り具の間でじっとしていた。

 屈強な甲板員は揺れる船の上で仁王立ちになり、一時も休まず監視を続けている。

 風がぼうぼうと吹き付け、被り物の隙間から剣のような冷気が容赦なく一同を刺す。

 僕はコートの前を広げて姉妹たちを抱きくるんだ。

 ドイツで長く隠れて暮らしてきた彼女たちは、持参の衣類も限られている。

 僕のコートの両身頃を毛布代わりにして、姉妹たちはじっとしていた。


 被った麻袋の裂け目の、レースのようにささくれた隙間からはただひたすら北の冬空が見えていた。

 ベルリンよりさらに高緯度のデンマークとスウェーデンの国境。

 僅か数キロしか離れていないが、ドイツ軍の監視の目を盗んでの航行だ。

 最高速度で突っ切ることなどできない。

 岩場に隠れつつ岩礁を避け、船はじりじりと進んでいった。


「夜だけど明るいね」


 姉妹の妹が囁く。


「白夜っていうんだよ。私は絵本で読んで知ってるわ」


 姉の言葉に僕は苦笑した。

 北欧の白夜は実際は夏至前後の、いつまでも太陽が沈まない夜だ。

 今は月が雲に包まれながらまわりの空を幻燈のように照らし、明るい中心から夜空の端の墨色の水平線まで、灯りのグラディエーションを作っているのだ。

 波の音。船のエンジンの音。甲板員の足音。それらが静寂の中に響く。


「あと少しで夜が明けるよ」


 僕は姉妹にそっと囁いた。

 ふと視線を感じて頭を回すと、向こうの家族の子供もこちらの言う事をじっと聞いていた。


 数キロの海路を約一時間かけて、漁船はスゥエーデンに着いた。

 海岸の入り江に船が留まるころは、すっかり夜が明けていた。

 分厚く重なった濃い灰色の雲の切れ目から、海の上まで陽の光が差し込んでいる。

 先ほど麻袋の裂け目から見た月の光と全く違う、力強く温かい日差しだ。

 僕はほうっとため息をついた。


 じっと耳を澄ませていると、船の音と波の音に重なる一つの音に気がついた。

 教会の中で、聖歌隊の声の他に天使の歌のように聞こえる高い音。

 それが僕たちを迎えるように海の上の空いっぱいに響いている。

 これは『光の音』だ。僕はそう思い、我知らず笑みが唇に浮かんだ。


「おひさまの足音が聞こえるね」


 姉妹と、別家族の子供たちの丸い目が僕に集まった。


「え、聞こえないよ」

「どんな音?」

「どんなふうに聞こえるの?」


 今までドイツ軍を警戒し、最小限の囁き以外の声を我慢してきた子供たちは、不思議そうに口々に呟いた。


「教会で楽器の音の他に『天使の声』が聞こえる時があるだろう? 今もそれが聞こえるよ」

「おじさんだけに?」

「私たちには聞こえないの?」


 安心したのか、子供たちは矢継ぎ早に話しかけてくる。

 船員たちはゆっくりと船を港に近づけていた。

 僕は手持ちの荷物、日本から持ってきた古い本革の鞄を開け、柔かい手巾に包んだ小物を取り出した。


「この器具で、空気と光の音を読み取るよ。聴かせてあげる。いいかい、こうして…」


 僕は布の中から取り出した音叉を、船の板に軽く打ち付けた。

 すかさず根元を姉妹の姉の耳に寄せる。


「聞こえた !シーンていう音が」


 私にも、僕にもと子供たちが顔を寄せてきた。

 僕は次々と音叉を打ち付け、435ヘルツの音を聞かせた。

 金属が震える純音は、静まり返った空気の中、子供たちの耳に真っ直ぐに届いたようだ。


「聞こえる。不思議な音が」

「私にも聞こえる」

「それが、空気と光の中から集めた音だよ」


一番年かさの少女が嬉しそうに声を上げた。


「私は分かるわ。これは『子供の魔法の角笛』の音よ。おばあさまに読んでもらったことがあるわ」


 おばあ様達とはずっと会えないし、絵本も置いてきちゃったけど。

 心の蓋が溢れて外れたのか、少女は大声で泣き出した。

 やっと泣くことが出来る心になれたのだろう。

 余計なことをしたのかもしれない。

 父親と母親があわてて少女をなだめにかかった。

 僕はそっと音叉をしまった。


「ほらお嬢ちゃん達。ランチはスゥエーデンで食べられるよ。お迎えが来てる」


 港には連絡を受けた仲間たちが、子供たちと僕を迎えに来ていた。

 僕らは無事スウェーデンに上陸した。

 首都ストックホルムの日本大使館には駐在武官の小野寺信陸軍少将がいる。

 開戦前から幾度も日本に危機を伝え続けている人物だ。

 彼に会って、ハインツのこと、キムやヘルマンたちのこと、ベルリンで僕が体験した色んな事を話したい。

 僕は姉妹たちと別れ、西の海岸からストックホルムまでの長い鉄路を、このことだけを望みに過ごした。



 小野寺駐在武官は絶望的なヨーロッパ情勢を把握していた人物で、左遷同然の北欧駐在ではあったが、日本が少しでも世界の地獄に巻き込まれないように、必死にヨーロッパ情勢の分析や、ナチスの高官から密かに入手した情報を流し続けた。

 だがそれらの貴重な情報が、全て軍部により握りつぶされていたと分かるのは、終戦後のことである。

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