第67話 小さなパルタイゲノッセ

『ニコラス』という名前を彼につけたのは、僕のとっさの思い付きだ。

 クリスマスに子供が楽しみに待つサンタクロースが、元々はカトリックの聖人セント・ニクラウスで、最後は死んでしまうという縁起でもない由来くらいしか知らない。

 ともかくも、僕は彼に糧であるパンを与え、甘いジャムを与え、仮の名前をあげた。

 それから先は彼自身が、自分の運と技量で生き抜けるかどうかだ(もっとも正体がばれたら僕も処刑されるのは必至である)


「イグナスさん、いい加減解放してよ。僕は髪なんかどうでもいいんだよ」

「そうはいかない。ホテルで働くと言うんなら、たとえ下働きの小僧でも身だしなみはきちんとしないとな」


 お客様サービス係のリトアニア人イグナス氏は、元は金持ち相手の美容師だったという。

 とある顧客の令嬢と駆け落ち寸前の関係まで行って、命を狙われケーニヒスベルクに逃げ込んできたという。

 この話をするとき、いつも青白くトネリコのように痩せた細面に、気味の悪い緩みきった笑みを浮かべる。

 だいいちそんな恋物語なんて、ホテルスタッフは飽きて誰も聞きたくない。

 彼は今、そばかすだらけの坊主ニコラスを中庭に座らせ、小さな体に白い布を巻いて、髪の毛を切ってやっている最中だ。


 放浪の間、少年の薄い褐色の髪は伸び放題で、保護したときはしらみまでいた。

 石鹸と酢水でよくよく洗い、金属のくしで髪の根元に食いついた虱と、頭皮に産み付けられた卵をかき落とし、短く切る。

 年相応に、子供らしく。

 それだけなのに、イグナス氏は昔を思い出したのか、襟足のかりあげ具合や横髪の具合、前髪のバランスと、ああでもないこうでもないと時間をかけすぎている。

 面白そうだと寄って来た休憩時間の婦人厨房員たちも、呆れて帰ってしまった。


「まあ、こんなもんかな。見違えたよ坊主」


布をとると、鏡の前にはこざっぱりとした頭の健康そうな子供が立っていた。 

それから、教会の慈善箱や役所の奉仕箱から貰って来た子供用の下着、シャツにズボン、靴下に上着と着替えさせ、ニコラスはいっぱしの外観になった。

 小さなお仕着せにエプロンをかけ、あちこちに伝言を届けたり手紙や品物を届けたり、彼はくるくると働いた。

 ホテルに常駐するナチの隊員たちにも、彼は可愛がられた。

 小さなホテルマンと呼ばれ、いつの間にか子供サイズの軍服まであつらえられ、兵士たちと一緒に写真を撮られる始末だ。

 ニコラスは時に彼らに貸し出された。

 ゲットーに収容されたユダヤ人たちを、鉄道で南の収容所に送り出す際、子供たちが喚いたり騒いだりしないように、肩から下げた小さな鞄に軍から預けられたキャンディーを一杯に詰め、子供たちに渡す役目だ。

 ユダヤ人の子は、小さな軍帽を被った子供兵士が自分達と同じユダヤ人だとは気づかない。

 殴られるよりだいぶましだとキャンディーを受け取り、従順に貨物列車に乗り込んでいくのだ。

 再び降りるときは、死に向かうレールが終着点についた時だ。

 公には誰も聞いた者はいないが、僕らは何となく気付いていた。列車の先には死しかないことを。


「別に何とも思わないよ」


 駅からの帰り、軍服からホテル用のお仕着せに着替えて彼は僕と歩いた。


「僕は、今はたまたま送り出す方になっているだけさ。運とみんなのおかげでね」


 大人びた口を利く彼は知らない。

 ナチの軍人たちと撮られた写真が『一番小さなナチス党同士』として軍の宣伝材雑誌に載っていることを。


 僕らは『ニコラス』の本当の名前を知らない。

 彼も言おうとしない。自分の身の上を話しても何の意味もない事を、10歳で理解しているのだ。


 彼をどこに住まわせるか、我々ホテルスタッフの間で短い話し合いがもたれた。

 従業員大部屋に住まわせるのもひとつの案として上ったが、それには僕が反対した。

 彼はユダヤ人の常として子供ながらに割礼をしている。

 着替えの際、それを観られたら怪しまれると思ったのだ。


「みんなも朝や夜の忙しい時に、子供がいるとイライラして変に気を遣うだろう?」


 それに寝泊まりする時くらい、ナチの兵士が大勢出入りするホテルの建物から離してやりたかった。

 自分の家で引き取って一緒に暮らしてもいいよ、と言う女性従業員もいたが、結局ホテル専用の小型船の老船長と、運河に係留した船の中で住むことになった。

 船長は若い頃に子供と奥さんを亡くし、以来ずっと一人暮らしだ。

 行水や食事はホテルの従業員設備を使えばいいし、ホテルから徒歩30秒もかからない。

 運河に面したホテル専用桟橋に常に繋がれている、買い出しに使われる古い船だ。

 ニコラスも気楽だろう。

 執念は従業員用の古びた寝具を運び込みながら


「ユダヤ人じゃない、と言うだけで生きやすくなるんだね」


 と呟いて、肩で風を切って歩いた。

 そう。

 民族が違うだけで世の中を渡る道が断たれる者もいれば、周囲に祝福されながら歩んでいく者がいたりするのだ。


 ニコラスはホテル小型船の船室で寝泊まりし、朝起きると桟橋の水場で顔を洗い、歩いてホテルに出勤する。

 他の従業員に混じって制服に着替え、小さなエプロンをつけて客の朝食サービスに立つ。

 コーヒーポットを持ち注いで回ったり、食べ終わった食器を片づけたり一人前に働く。

 食事のサービスが終われば客室の清掃と準備、昼食の準備。

 その合間に慌ただしく自分の食事をとったり、ナチの事務所に呼ばれて仕事を手伝ったりもする。


 午後は買い出しのスタッフと一緒に船に乗る。

 船長の運転で運河を進み、市場で食材の買いつけに行くためだ。

 山ほど買い込んだ材料を、台車に載せられるものは載せ、残りはチップを渡してホテルまで届けてもらう。

 新鮮な肉や野菜、果物やバルト海の魚。その夜のディナーのメニューに合わせて様々な材料が必要になるのだ。

 戦争が長引き不足してきたとはいえ、東プロイセンの首都ケーニヒスベルクには、まだ物資があった。

 お客様にお出しする葉巻や紅茶、コーヒーは街の中でも歴史ある、格式の高い店で買い付ける。

 子供のニコラスは足を踏み入れたことはないだろう。

 そもそもナチの奴らがやって来てから、ずっとユダヤ人出入り不可になっていたから。


 少年はよく働き気転も効いたので、ホテルマンたちから可愛がられた。

 お客様の靴を磨き、厨房の洗い物、洗濯場の手伝いなどくるくると実によく働き、休む間も惜しんでいるように見えた。

 買い出しの際に船長やスタッフにちょっとしたおやつを買ってもらったり、店で試食をさせてもらうのが楽しみのようだった。


 僕らは分かっている。

 そんな『逃亡者ごっこ』は長く続くはずもないのだ。

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