第55話 地下への階段

 キムたちの話は正直僕が薄々予想していたとおりだった。

 彼らはベルリンの反ヒトラーグループと組み、ユダヤ人をデンマーク経由で中立国スェーデンへ逃がす活動に関わっていたのだ。

 それに必要な情報のやり取りは、教会のパイプオルガンと楽譜を使ったものだった。

 逃亡幇助に関わる人名・場所・日時などの情報は楽譜に書き直して伝達される。それがキムたちが讃美歌として歌っていた古ネウマ譜だ。

 近代記譜法の楽譜が生まれる以前から長い歴史を持つネウマ譜は、時代や地域により表記の仕方が大きく異なる。

 一例をとるなら、現代に伝わる、4本の譜線に四角い音符が書き込まれている書式はかなり新しい。

 古くなればなるほど音符そのものも譜線も存在せず、歌詞(祈祷文や雅歌、詩篇)の上に直接記号と、冒頭に基音を示す印が書かれただけになる。

 一見すると回虫がのたうっているような、ペンの書き損じのようなただの線だが、それぞれに名称と意味がある。

 ペス、リクエッシェンス、メディクリテル、ヴィルガ、トラクトゥルス、サリクス、プンクトゥム、クリヴィス、トルクルス。これらラテン語の名を持つ短い記号は、音の動きや装飾、音色を表す。

 さらに比較的新しい四線四角ネウマ譜も音符の形そのものに名前と意味があるのだ。

 小さなひし形のクリマクス、アルファベットのNの字のようなポレクトゥス、ノコギリ刃に似たクリスィマ、長音を表すロンガ、単音を表すプレヴィス。

 中世ヨーロッパの司祭や修道士はこれらの決まり事を憶え、ほとんど丸暗記で歌ったのだ。

 キムたち教会の仲間たちは、これらラテン教会の遺産を暗号として使った。

 ただし歌詞に仕込んだのではない。

 楽譜の左に置かれた主音を指示する記号に基づき、歌詞の上の記号すなわちネウマそのもののスペルの何番目を読んでいく、と関連付けて伝えたのだ。

 近代四線ネウマの場合も同様に、音符そのものの名称、次いで音符の上のネウマの該当スペルを読んでいけば情報を伝えられる。


 彼らは暗号譜の受け渡し場所にも気を配っていた。

 そこで活躍するのがオルガニストとその助手だ。

 二人は彼らの持ち場であるパイプオルガンの中に隠したのだ。

 しかも外側の目立つパイプではない。オルガンの上や左右に、威圧するように仰々しく並ぶパイプは、実は見せるためだけのものである。

 演奏で鳴る本物のパイプは、設置された壁面とオルガン本体の間、それこそオルガンの構造を熟知した技術者しか知らない点検口から入った中にある。

 その本物のパイプの中、演奏に必要な風と空気の流れを邪魔しない隙間に隠したのだ。

 礼拝後に堂守とオルガン助手がこっそり仕込み、決まった時間に仲間に渡す。

 讃美歌集の中に紛れ込ませてしまえば、部外者にはまずわからない。

「この親子の情報もそうやって伝えたものだ。あとは僕らが作ったスェーデン発行の交通許可証をもたせ、仲間がドイツから鉄道でデンマークに、さらに海伝いにスェーデンに送る」


 僕はなんとなく下っ腹が痛くなる思いで彼らの話を聞いていた。

 自分が日本とドイツの間で、ふらふら定まらない生活をしている間に、キムは自分の意志で仲間を見つけ、危険を犯しつつ活動に参加していたのだ。

 僕が話をされたと言うのは信頼されたから、と考えていいのだろうか。

 特に戦争開始以降のゲシュタポや親衛隊の恐ろしさは、外国人の僕らにも伝わってくる。

 本音を言えば、できるだけ関わり合いになりたくないのが本音だ。だがもう遅い。僕は聞いてしまった。賽は投げられたのだ。

「そんな大事なことを僕に喋ってしまって…フランツたちは承知しているのかい?」

「その点は先週相談済みだ。君に気づかれたら話して仲間に引き込む。もしくは」

 ここでキムはグッと身を乗り出し、僕の目を覗きこんだ。

 真っ黒いなんの光もない瞳に、みっともなく慄く僕の姿が映っている。

「もしくは殺す」

 冗談だろう?

 そう言おうとして見返した彼の目の奥に、尋常でないほど冷たい光が溢れ、僕の慌てた姿をかき消した。

 僕には言葉を飲み込むしかない。

「それじゃ僕は帰るよ。君には当座なにも依頼しない。真面目に仕事に励んでくれ。ハインツ氏との繋がりもそのままにね」

 彼らが僕に目をつけたのは、やはりその繋がりを見たからか。仕方がない。


 僕は保存食棚の奥に潜む親子に挨拶し、ハンナと二人地下室を出た。手にザワークラウトの瓶と、さくらんぼの砂糖漬けの壺を持って。

 キムはもうしばらく地下に留まり、時間差を開けて会場に上がり、夕食を共にして帰って行った。


 翌日もその次の日も、僕はいつもどおり通信社に出勤し、変わり映えのない雑事や取材の根回し、事務仕事に精を出した。

 たまに決まった花屋で花を買い、ハンナたちに託された通信用紙を細く捻って茎の中に挿し込み、指示された見知らぬ人の墓に備えたりもした。

 あとから仲間がやってきて、花を処分するふりをしつつ紙を抜き、更に他の見知らぬ誰かの手に渡すらしい。

 そうしてたくさんの人の手を経由して、行動は実行されるのだ。

 地下室の親子はいつの間にか姿を消し、しばらくするとまた別の家族がやってきては潜んでいた。


 人妻であるハンナとキムは本当に付き合っているのか?

 僕はたまに思い出した。

 でも、そんなことはどうでも良いのだ。

 僕らは託された役割を全うする。

 そのために『日常』を目立たずいつもどおりに生きる。

 平凡の中にこそ神は宿るのだ。

 ハンナが誰と寝ようが、キムが自分を何人だと思っていようが、どうでもよろしい。

 愛も恋も、僕の周りを過ぎてゆく季節の移り変わりのようなもので、けして僕自身の内部に食い込んでくるものではない。

 まして人に恋情を抱くなど、僕には永遠に理解の外なのだ。

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