第54話 仲間・3
物陰に潜む僕の目の前で、ハンナは買い物かばんを下げ、外出用の上着を引っかけ出て行った。
夕飯の材料の買い出しに行くのだろうか。大家の婆さんと一緒に、地下の保存庫にたくさんの食料を貯め込んでいるくせに。
だがそれにしては上等の服とよそ行きの靴を履いている。
まるで、日曜日に正装して教会に行く時みたいだ。
僕は目立たないよう人の歩く流れに身を置き、彼女の後を追った。
彼女は女優のような踵の高い靴でずんずん歩く。
ブランデンブルク門を過ぎ、ツォー駅から西側に伸びる目抜き通りクーダムへと彼女は進んだ。
ここは『選帝侯の進んだ道』という名の通り、賑やかなカフェや劇場、映画館、商店が左右に並ぶ、豊かさの象徴のような通りだ。
アレクサンダー広場とはまた違った華やかさだったが、かつて通りをにぎわせていた本屋や化粧品、香水、薬を扱うユダヤ人の店は、突撃隊やヒトラーユーゲントによって繰り返し破壊され、閉店を余儀なくされた。その後富裕層でもあった彼らはすっかり姿を消していた。
何でも、遠い国へ移住させられているらしい。
彼らの「国」はエジプトの北の紅海の先。カナンの地と言うらしい。彼らはそこに帰ったのだろうか。
そんなのんびりとした話ではないだろう、と僕も薄々感じていた。だが彼らがどこに移されたのか、誰もはっきりと口に出して疑問を呈しはしない。
自分達の国の遙か東…東方で起こっている戦争の気配を感じるばかりだ。
ユダヤ人たちが姿を消した後に入って来たのが、「東」という徽章を着けた服を着た、言葉の通じない、暗い目をしたロシアやポーランド、コサックの年若い労働者たちだったから。
クーダムの先、カイザー・ヴィルヘルム記念教会の近くで、大家の嫁・ハンナは歩みを緩めた。
教会の壁にもたれて、休憩するふりをして視線だけ周りに巡らせ周囲をに目を配っている。
教会の中からゆっくりと出て来たのは、長身に仕立ての良い長めの上着をまとったキムだった。
僕は街路樹に隠れて眺めながら、唖然とした。
貞淑な出征軍人の嫁のはずのハンナが、買い物鞄を下げたままキムと固く抱き合ったのだ。
互いの耳元で囁きながらキスを交わす、その姿は熱烈に恋をする男女そのものだ。
国家憲兵隊に見つかったらきつくお灸をすえられてしまうだろう。
なにせゲルマンの女性とアジア人の男性が、人目をはばからず公共の場で抱き合っているのだ。
ふと、彼らの手がもそもそと動いている。
体でも弄り合っているのかと、僕は目をそらして帰ろうとした。
デバガメは僕の趣味ではない。
ところが動きが少々妖しい。
ハンナはキムの上着の中の体に手を回し、背中を抱きしめるふりをして、ズボンの背中に小さな紙を押し込んでいるようだ。
キムも彼女の胸に片手をやる態で、ポケットに指を滑らせている。
それらの動きはほんの一瞬で、余程凝視しないと分からない。
だが、見間違いではない。何かがおかしい。不自然だ。
2人は教会の前から離れ、賑やかなクーダムの喧騒に混じって歩きだした。
僕は距離を置きながら、見失わないように自然を装い跡を追った。
こういう時、通信社の見習い職員の仕事が役に立つ。
キムとハンナはクーダムのはずれの路地に入った。
確か大学時代のオペラ仲間、エミールとマリーのアパートが近くにあったはずだ。
オペラ「ラ・ボエーム」の練習の後、執事の車で送って行ったことがある。
そのころから界隈は猥雑で、ベルリン動物園の獣の声が時折り響き、若い芸術家たちが安下宿に暮らしていた。
ナチ政権になって街の賑やかな混乱は鳴りを潜めたが、キムはまだこの学生街に住んでいるのか。
そしてハンナ。
『貞淑な』出征軍人の妻、同居している姑にいつも遠慮して言いたいことを飲み込むような女性だが、先ほどのキムと抱き合う時の情熱、そして怪しい動きは何だろう。
僕は二人を追いつづけた。
彼らは街角の薬局に入った。
薬の並ぶカウンターにタバコと代用コーヒーと少しの席がある、行き場のないベルリン市民の吹き溜まりのような小さな空間。
彼らはそこのカウンターに並んで座り、二言三言囁き交わしている。
僕も重いドアをできるだけ静かに開け、気付かれないように入店した。
彼らはハーブティーを飲んでいる。
僕は壁の帽子掛けにハットを架けるふりをして、二人の後ろに回った。
「君たちの微笑ましいデートの前に、僕の部屋から出て来たというのはどういう事かな、マダム」
二人の後ろをすれ違いながら、僕は囁いた。
彼らは化け物でも見る様な顔で振り返った。
全く気付いていなかったのか。この僕の、素人臭い尾行もどきに。
僕は指で、表に出ようと示した。
全く無表情で立ち上がったキムは、やはり僕よりずっと背が高く威厳がある。
ハンナもあわてて立ち、何事か言い訳しようとしたその口に、キムが指をあてて黙らせた。
「じゃ、僕らの下宿へ戻ろうか。時計を巻き戻すみたいにね」
「ハンナ、今日の夕飯は何だい?」
「玉ねぎとじゃがいもの重ね焼きよ、お母さん」
「また野菜かい。私達はいいけど少しは肉っ気のあるものも恋しいねえ。日本人の下宿人さんもそう思っていると思うよ。私達はいいけど」
結局よくないじゃないか。
大家であるお祖母さん、ハンナにとってはお姑さんが揺り椅子に掛けたまま平坦な声で呼びかける。
帰宅した僕らはそっと廊下を通り抜けると、台所へ直行した。
ブランデンブルク門を通ると街の雰囲気が違う。
下宿がある地域は中心部と郊外のギリギリの境、学生街と閑静な住宅街の混在する区域だが、街中を警戒に歩き回る警官やゲシュタポの数が違う。
それだけ平穏な、事件の少ない地域なのだろう。
台所の角を床の取っ手に手をかけ、地下の食糧庫に通じる扉を開ける。
少し大きな屋敷ならどこにでもある、酒やワイン、ザワークラウトやジャガイモを保存しておく大きな地下室だ。
僕たちは床板を閉めると、階段を伝ってそこに下りて行った。
突撃隊や親衛隊、ヒトラーユーゲントの行進する足音も、罵声もラッパの音も聞こえない。
静かな街の地下室。ハンナが電気のスイッチを入れた。
天井から下がる裸電球が、薄暗く辺りを照らした。
壁に沿って何段もの棚が並び、漬物の樽やワインの瓶、瓶詰の保存食が並ぶ。そこに、うごめく人影がいた。
僕はぎょっとして声を出しそうになり、慌てて両手で口を押さえた。
青白い顔にうす汚れた衣服、黒い髪にくぼんだ大きな黒い目の女性と男の子が、棚の裏側に座り込んでいたのだ。
「さて、シンノ。どこから話そうか」
キムとハンナは僕を挟んで両側に座り、じっと僕の目を見つめた。
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