第53話 仲間・2

 再会後しばらく、僕と接するキムの態度はとてもよそよそしかった。これは間違いない。

 仕方がない。ドイツ国内や占領地で恐れられている親衛隊の大幹部ラインハルト・ハイドリヒ、その弟ハインツ・ハイドリヒと接点のある通信社の臨時社員だ。距離を盗られないと考える方がおかしい。

 話の流れとは言え、久し振りにあった友人とその仲間に、僕はなぜそんなことまで話してしまったのだろう。

 今も現役で音楽の世界に身を置いている、しかも営業努力など考えなくてよい、教会音楽家の彼らに嫉妬したのだろうか。

 僕は自分で言うのも何だが、人のことなどどうでもよいマイペースな人間だと思って来た。

 だが一人だけ、ずっと気にかかる、呑み下そうとしても出来ない喉に刺さった魚の骨のような人物がいる。

 それがキム・スギョンだ。

 彼とは同じ『日本人』として、学内でもオペラ製作集団でも街内でも、必ず二人で一組のペアと認識されていた。

 僕は日本の内地で生まれ育ち、彼は『日本』となって久しい朝鮮半島で生まれ育った。ただそれだけの違いだ。同じ天皇陛下のご膝下にある国民だ。

 僕はそう思っている。だが彼はそうではない。

 自分のことを『朝鮮人』だと思っている。君と僕とは違うという意識が、近くに居ても離れていても頻々と伝わってくる。


「君とは友人でも同胞でもない」


 そうした空気が背中全体から発散されているのだ。

 なぜだろう。

 朝鮮が日本の保護下になってもう30年以上経つ。

 その間の市街地の整備、生活に必要な施設の充実、衛生状態・教育体制の改善、なかでも理不尽なる被差別階級制度の廃止は朝鮮の人々には善政と認められてよいと思う。

 日本の高等教育機関、軍学校への進学も勧められ、出世の階段を昇る人々も大勢いる。日本本土に稼ぎに来て財を成す人も多い。

 良き兄弟国として、荒海のような世界で弱い亜細亜の地域を保護していくのは、日本の大事な勤めでもあると僕は教えられたし、そう思っている。

 それは…半島の人たちからすれば、多少嫌なことはあるだろう。

 僕もヨーロッパの地で色々な差別を受けて来たし、皮肉な仕草でからかわれた。

 だがそれを跳ね返してこその亜細亜の民族というものだ。

 キムにもいずれ分かってくれる時が来る。


 そう思っていたが、何度か教会に通い、音楽士の人々も交えて言葉を交わし、お茶を共にするたびに大分和らいできた。

 いい傾向だ。

 人と人は理解し合えるものなのだ。


「シンノ君、頼みがあるんだ。この楽譜をブランデンブルク門近くのウンターデンリンデン沿いの古書店に売ってきてくれないか?」


 いつもの日曜日の礼拝後のお茶。フリードリヒに頼まれた時、正直嫌だなと思った。

 日本大使館の近くは気が重い。

 キムには出入りしないのかと勧めたが、僕自身も『大使館に出入りできる恵まれた邦人互助会』がうっとうしくてたまらないのだ。

 向こうは戦時下ドイツの首都ベルリンに留まる数少ない日本人、しかも僕…商社や大企業の社員でもない音楽家くずれの通信社手伝いという男に興味がある風情で、見かけると距離を置き眺めて噂をしている。

 そうした同胞の目は、時にゲシュタポより厄介だ。


「まあ……いいですよ……」


 あからさまに気が進まない態で返事をした。

 どんぐりの代用コーヒーをもう一杯もらおうと配膳部の窓口に立つと、ホールの隅を横切る婦人がいる。

 教会で奉仕するご婦人たちは珍しくもないが、その姿容ははっきりと見おぼえがある。なんなら昨日も見かけてあいさつした。僕の下宿先の大家のお嫁さんハンナだ。

 彼女とはたまに日常会話くらいするが、教会に通っているなんて話はちっとも出なかった。しかも近所に小さな教会があるのに、なぜこんな離れた教会へわざわざ通っているのだろうか。

 僕は思わず声をかけようとしたが、ハンナの足は速く、あっという間に教会を出て姿を見失ってしまった。


「なんだいシンノくん。気になる御婦人でもいたかね?」


 オルガン助手のヘルマン氏が面白そうに声をかける。オルガニストのフリードリヒ、賛美歌歌手のキムと一緒、いつものメンバーだ。


「いえ、今大家のお嫁さんがいたような……」


 さては家賃を貯めているのか? だから追いかけてきたのかな。

 教会音楽家軍団は構わず笑顔で一巻の本を手渡してきた。


「開けてみていいですか ?」

「いいよ。ただの古い修道院の賛美歌集だがね」


 開けてみると、いつもこの教会で目にする、古いネウマ譜の楽譜集だ。

 余り上質でない紙に、かすれ気味に印刷してある。


「貴重な資料じゃないんですか?」

「いいんだよ。パイプオルガンのまわりを整理していたら出て来たものだ。もう歌われない古い賛美歌の本だけど、こういうのがたくさんあるんだよ」


 ヘルマンはいかにもかび臭そうに鼻をしかめた。


「売って得たお代は、次の礼拝で献金にしてくれ」


 なるほど。

 古くても持ち主にとって価値の乏しそうなものは、好事家の手に渡る方が良いらしい。

 僕は受け取り、月曜日にウンターデンリンデンの古書店に寄った。

 かつて通っていた大学から遠くない。

 店内外に後輩たちの姿をまだ見かける。

 僕は懐かしさと恥かしさでいっぱいになった。

 ヅィンマン先生たちとオペラ上演に向けて邁進していた日々。

 その時から僕は、どれほど前に進めただろう。


 肖像画でよく見るゲーテ像のような年寄りの店主が、店の奥に座って売り物の本を読んだまま、眼だけ上げてじろりと僕を見る。

 この楽譜集を売りたいのだが、と差し出すと、本の出どころはどこだと尋ねる。


「ダーレムのキリスト教会ですよ」


 あそこか、そうか。

 店主は口の中でもごもご言いながら本を受け取り、金を掴ませた。


「また来なさい」


 そう言いながら、積み上げた古本の間に押し込んで、また読みかけの本に目を落とした。

 暢気なものだ。

 盗難に遭ったらどうするんだろう。

店の表通りを、ヒトラーユーゲントの旗を持った半ズボンの集団が元気に行進して行った。


次の日、仕事を早めに切り上げた僕が下宿に戻ると、僕の部屋から大家のお嫁さんが出て来たところだった。

留守中に掃除をしてくれる契約などではない。なにより勝手に部屋に入るとは失礼極まりないではないか。

向こうは帰宅したこちらに気付いていない。

僕は不審に思い、そっとあとをつけることにした。

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