第56話 されど我らが祖国・1

 季節が巡り年が明けた1942年の冬。

 僕は久方ぶりにベルリンの親衛隊本部に呼ばれた。

 向かったハインツ・ハイドリヒの執務室は相変わらず広々として殺風景な、典型的なナチス建築の部屋だった。

 以前執務机の近くに置いてあったチェロも、見当たらない。

 音楽を楽しむ彼の情熱が下がってしまったような、冷ややかな気配が漂っていた。


「シンノ、君はこうしたものを目にしたことはあるか?」


 彼は机に向かったまま僕を呼んだ。顎をわずかに動かす。近くに寄れと言うのだ。

 僕が歩み寄ると、脇に控えている警備兵の体勢が明らかに変わった。

 下手な動きをしたら即座に撃ち殺される。そんな冷たい殺気が彼らの目線と、ささいな体の動きから発散されている。


「自分にとってはただの小汚い書きつけなんだが、君に観てもらいたいんだ」


 机の前まで来ると、ハインツ氏は汚らしそうに何かをつまんで、放ってよこした。

 なるほど、黄ばんだ紙の上に飾り文字で文言がつづってある。


「これは、聖書の文言ですね。恐らく讃美歌用に書かれたものでしょう」

「そうか、君はこれが読めるのか?」

「はい。貴方のお父様も恐らく読んで歌えると思いますよ。これは古い讃美歌の楽譜です」


 手にとってもっとよく見て見ろ、とハインツは指示した。

 目を寄せると、楽譜の隅の、ちょうど手に持つ辺りが赤黒いしみになっている。他にも点々と茶褐色のしぶきが散っているようだ。


「歌ってみてくれ。君はそれが読めるんだろう?」


 背中を冷や汗が伝った。ハインツは明らかに『かま』をかけている。


「でもこれは、貴重な物じゃないんですか? この書式は数百年前のものですよ」

「かまわん。大した価値のあるものじゃない」


 僕は仕方なく歌い出した。描かれているのはミサ固有唱の『犠牲の仔羊』だ。

 何度も聞いてきた曲だし記譜法も分かっているので、すらすらと歌えるはずだが、僕は途中で何度もつかえた。

 楽譜に染みついていてるのはどす黒いものは明らかに、血だ。

 ではこれを持っていた人間は……


 慎重に声を出した。

 僕は歌い手ではない。オペラプロジェクト時代もずっと楽器担当だった。ただし音感には自信がある。

 ネウマ譜の頭に表示されているドミナント(基音)を意識しながら、出来るだけ正確に、淡々と。


「君はあまり歌はうまくないんだな。意外だった」


 歌い終えた僕に、ハインツはさも愉快気に声をかけた。


「楽器屋なんで。分かる範囲の精一杯でやりました」

「よろしい。じゃ今の歌を採点してもらおう」


 彼が部下に合図をすると、隣りの部屋から三つ揃いを着た年とった男が姿を見せた。いかにも研究者と言った風情だ。


「今の歌はどうだったかね?」

「完全に楽譜通りです。少尉殿」

「別に妖しいところはないか? 自分はこの譜面を見ても、どういう音楽なのかさっぱりわからないのだが」

「記譜法に照らし合わせて、彼の歌に怪しいところや間違ったところはありません。ただの聖歌の譜面です」


 そうか、とハインツは呟き、男と部下たちを下がらせた。


「君は最近教会の音楽家や坊主たちと親しくしているようだが、あまり近寄らないことを進めるよ。今はまだ日本人だから目こぼしされているが、このままだと大使館も勤め先も、僕も君を庇いきれなくなる」

「どういうことですか?」


 僕は急に早く鳴り出した鼓動を気取られないように、必死に冷静を装い微笑みながら訪ねた。


「君の今持っている楽譜は、昨日諜報行為の嫌疑で射殺された女が持っていたものなんだ。ウンターデンリンデンのベンチでね」


 微かな手の震えを、僕は必死に抑えようとした。


「もう帰っていいぞ。今度は我が家でまた合奏をしよう。坊主や教会音楽家たちは外してな」


 ハインツは不機嫌に言い放った。


 彼の執務室を辞し、親衛隊本部から出て来た東洋人を見て、道行く市民や建物に出入りするナチは妙な顔をした。

 それはそうだ。同盟国とはいえヨーロッパの中では目立つアジアの男が、私服で『禁域』から出て来たのだ。

 ハインツ・ハイドリヒの知り合いと知ったとしても、ゲルマン純血至上主義の彼らからすれば、内心面白いはずはない。

 プリンツアルブレヒト通りからウンターデンリンデンに向かって歩きながら、先ほどの血が凍るような『歌の時間』を思い出していた。


 僕が手にして歌った楽譜は、暗号だ。

 一枚のネウマ譜の中に協力者の個人情報、保護すべきユダヤ人とその家族、脱出させるためのルートや手はずなどが詰まっている。

 幸いナチの御用音楽学者には見破られなかったが、いつ感づかれるかと背中を冷たい痺れが走りっぱなしだった。

 すれ違う女性、後ろから近づく男性、交差点で視線が合った老人。皆が自分を監視し後をつけている気がする。

 職場の通信社支局に入っても、机の下や椅子の背、電話機や資料の間など、何か仕掛けられていないか、さりげなく調べてしまった。


「信野君、なにか探し物でもしているのか?」

「いえ、特に大事な物ではないのですが……」

「掃除婦のクララに頼んでおくとよい。どこに紛れていてもきっと探し当ててくれるよ。きっと」


 彼女は猟犬みたいに鼻が利くからね。

 その何気ない編集長の一言に、僕は飛び上がりそうになった。

 猟犬、ナチスの犬。ゲシュタポや密告者たち。

 そう。他の日本人たちと違う目で見て見れば、このドイツはオオカミや犬たちの跋扈する危険な都なのだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る