第50話 同胞の声・1
ドイツがナチス政権になってから、教会での礼拝も変わった。
ナチスの宗教政策はまず徹底的なユダヤ否定から始まったから、旧約聖書の朗読は廃止されたし、キリストがベツレヘムで生まれたユダヤ・ナザレの人であること自体が無かったこととされた。
ナチス絵画で、金髪碧眼のイエス像まで見たことがある。
もっともヨーロッパ人顔のイエスやマリア、聖人たちは古来珍しくなかったから、ナチ独自の発想と言うわけではない。
聖歌の歌詞もベツレヘムやユダヤの地名が出てくるところは多く替えられた。
だが改訂前の歌詞で歌う勇敢な聖歌隊もあった。
先鋭的なところでは、ナチの主張を取り入れた『積極的キリスト教』なる奇妙な一派も結成された。
僕はキリスト教の音楽は好きだが、聖書の教えを守っていれば人は救われると言うなら、そもそも人類は憎みあわないし、戦争も無いのではないかと皮肉な思いが頭をかすめないでもない。
敬虔なキリスト教徒として過ごしている人たちが、ユダヤ人やロマや有色人種に公然と暴力を振るうのは、キリスト教的な『愛の御業』とやらに反していないのか。
仏教と神道の国(と対外的には思われている)日本人が、知ったかぶりをしても仕方がないのだが、僕にはわからない。
そうはいっても『ナチス式礼拝』とやらはそうそう広く浸透はしていない。
日曜日に伝統的な教会に行くという習慣は、ここベルリンでも残されている。
僕の大好きなバッハやシュッツ、プクスフーデの礼拝用の音楽が、大オルガンで奏でられるのを聞かれるのはやはりドイツならではだ。
日本では、神田のカトリック教会といえども、壁一面に作りつけられた巨大パイプオルガンを荘厳に鳴らす、とはいかない。
その日曜日も、僕は教会に足を運んだ。
ミッテ区の大きな教会ではなく、地下鉄にのって南西部の郊外へ。
大きな邸宅やカイザー・ヴィルヘルム研究所が建つゆったりとした美しい街並みの中に、凛としたプロテスタントの教会が佇んでいる。
イエス・キリスト教会という親しみやすい教会は、僕が急ぎ足で入堂した時、まさに日曜礼拝が始まる寸前だった。
備え付けの聖書(新約聖書だけだった)と聖歌集を手に取り、大聖堂の端に座った。
アジア人が珍しいのか、礼拝前の祈りの顔を上げてじろじろと視られたが、僕はもう慣れてしまった。
礼拝は伝統的なプロテスタントの司式に忠実なものだった。
ナチスが推奨するゲルマン万歳の式次第ではない事にホッとした。
牧師の説教の後で、素晴らしいオルガンの音色と成人男声による讃美歌、バッハのコラールが流れてきた。
退堂の音楽は幾重にもオルガンの音色が重なり絡まり合う、これもバッハの教会音楽。
コラールを歌いきるバスバリトンの声に、僕はふと聞き覚えがあると気づいた。
礼拝が終わり信徒たちが整然と列をなして帰っていく。
僕は献金を済ませると列に逆らい、聖堂の片づけに掛かろうとしている男に近づいた。
きちんと外出用の上着を着て献金箱を回収する男は多分、堂守だろう。
「あのう、もし許されるのなら階上のオルガンを見せていただけませんか?」
「あなたは……」
僕の典型的アジア人の容貌を見て、堂主は怪訝な顔をした。
それはそうだ。
しかも献金を集めているという最悪のタイミングで近づいてきたのだ。
怪しまれるに決まっている。
「僕は日本の音楽家です。ベルリンの学校で音楽を習い、いったん帰国して戻ってきたところです。あの素晴らしいオルガンを拝見したくて、お願いします」
僕は彼の手の中の献金箱に、なけなしの札を差し込んだ。
どうしても歌い手の正体が気になったのだ。
「音楽家の方ならいいでしょう。特別に鍵を開けて、御覧に入れましょう」
堂主はポケットから鍵束を出して、バルコニーに昇る階段の錠前を開けた。
「階上はオルガニストと讃美歌歌手しか、使う事を許されていないんです。大事な我々の財産なので」
僕たちは狭く急な階段を昇り、バルコニーに着いた。
壁一面のオルガンのパイプの前に、急な段差で聖歌隊の席がある。
思ったよりも狭い空間だった。
パイプオルガンの入り組んだパイプや弁の足元に人間が居させてもらう、という態だ。
中心に祭壇に背を向ける形で、半はパイプ群に飲み込まれるようなオルガニスト席があり、黒い服を着た男が鍵盤に鍵をかけ、楽譜を片付けていた。
彼と時折言葉を交わしながら、やはり讃美歌の楽譜と聖書を開き打ち合わせをしている若い男。 切れ長の目に背の高い、逞しい体つき。
「キム ! キム・スギョン !」
僕は思わず大声で叫んだ。
オルガニストとキムはぎょっとして顔を上げた。
青白く、やや細面になってはいたが、僕らのボエーム・グループのバスバリトン、キム・スギョンに間違いない。
僕は懐かしさでいっぱいになった。彼はまだ音楽を続けていたのだ。
思わず近寄り手を取ろうとした。
なのに帰ってきた言葉は冷たかった。
「止まれ。日本人」
鋭い目で僕を見つめ、遮るように片手を伸ばした。
日本人。ヤーパン。今キムはそう言い放った。でも彼も朝鮮の生まれ育ちではあるが、ここドイツでは日本人として保護されているのではないか。
彼は何のためにそんな言葉を使ったんだろう。
「キム、久し振りだから挨拶しようと…いったん日本に帰って、またベルリンに戻ったんだよ」
だが彼の表情は動かなかった。厳しい、岩に刻まれたような表情で僕が近づくのを拒んでいる。
「キムくん、彼は知り合いかい?」
見かねたように、オルガニストが声をかけてくれた。
最初の驚きが治まったのか、とても穏やかな表情だ。丸顔に優しい目をしている。北方ドイツの鋭角的な容貌とは違う。
「僕を忘れた? だとしたらとても残念なんだけど…」
場の重い雰囲気にたまりかね、僕は後ずさりをし始めた。
「おい、日本の人。そろそろバルコニーから下りてください。オルガニストや歌手の後始末の邪魔をしてはいけない」
堂主が掃除道具を引っ張り出しながら、階下から叫ぶ。
キムはゆっくりと讃美歌集をオルガンの脇の本棚に置き、オルガニストに応えた。
「彼は日本人の子弟で音楽科の学生でした」
「ふうん。じゃ君たちは友達ってこと?」
キムはそれには答えなかった。
「数年前まで一緒にベルリンの音楽学校で学んでいました。同じ先生について」
「ああ、じゃああの」
「イサーク・ヅィンマン先生についてオペラを学んでいました。僕たちは」
僕は胸を張って答えた。
あの日々は、まぎれもなく真実の日々であるからだ。
「じゃあ僕も知り合いになりたいものだ。教会の中庭のテーブルで待っていてくれるかい? 婦人会の方々がケーキとコーヒーの喫茶を開いてくれているから」
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