第51話 同胞の声・2

 このケーキの大きさがドイツ、と言う感じだな。

 ダーレムの教会婦人部の女性が皿に載せてくれたジャガイモのケーキ、カルトッフェルトルテを眺めて思った。

 どんぐりの代用コーヒーを一口飲み、フォークで切り分けた大きな一片を口に入れると、ほんのり甘い、洋食のコロッケのような味が広がる。

 ケーキと言うより粉吹きいもだ。

 僕の微妙な表情に気付いたご婦人が、真面目な顔で説明をしてくれた。


「これは昔からあるジャガイモケーキよ。ふかしたジャガイモを潰して泡立て卵とお砂糖かはちみつを混ぜて焼いたものなの」

「ドイツの生活の知恵ですね。こちら小麦粉は入っていないのですか?」


 以前実家出入りの菓子業者が、メリケン粉が品薄で値上がりしたと、母に勘定の弁明している記憶がよみがえった。


「ええ。ジャガイモのでんぷんが入ることはあるけど、小麦粉は入らないのよ。でもドイツ人にとってはお婆ちゃんや母親の作る家庭の味なの。東洋のお国には無いのかしら」

「日本にもこういう料理があります。美味しいです」

「あら嬉しいわ」


 ここは安全だからゆっくり過ごして行ってね。そういうと、婦人は集会室隣の厨房に消えた。


「日本のコロッケを思い出すかい?」


 先ほどとは打って変わって、こちらも寛いだ様子のキムが話しかけてきた。


「ああ。でも日本ではおかずの主役になるジャガイモが、ケーキになって出てくるとは思わなかったよ」


 オルガニストと隣に座った小柄な男性が、不思議そうに顔を見合わせた。

 ドイツではジャガイモはメインのおかずにはならないのだ。

 蒸したり焼いたり、キャセロールでグラタンのように焼いたりして頻繁に食卓に上るが、あくまでも添えの野菜料理で、主役ではない。

 少なくとも平時の食卓ではそうだった。

 だから日本ではジャガイモ料理がメインディッシュになると聞き、新鮮な驚きを覚えているらしい。


「君はずっとベルリンにいたんだね」

「まあ、いろんなところに行ったり戻ったりだね」

「日本人会の人達も君のことは知らないと言われたから、どうしているのかと思ったよ」

「意識的に、ああいったお歴々には近づかないようにしているからね、面倒だし」


 強い語調に僕はハッとした。


「君こそどうしてベルリンに戻って来たんだい ? 音楽を続けるため ?」

「日本で馴染めなくて、婚約者とも別れてね。上海や香港に少しずついて、結局戻ったのさ。この街に」

「物好きだねえ。じゃまた学校に通っているのかい ?」

「いや、日本の通信社で雑用係をしているよ」


 オルガニストとキムの眉がびくりと上がった。


「僕たちに近づいても何も情報なんてないよ」


 オルガニストがにこやかに話に入って来た。


「いえいえ、偶然素敵な教会に入って、素晴らしい音楽を聞いてキムの声だと思い出したんだ。偶然だよ」

「……駐独大使の大島氏は元気かい? 通信社の人間なら定期的にあうんだろう?」

「ああ。元気いっぱいだよ。おかげで知り合いたくもない人物へのお使いにも駆り出される」

「へえ。例えば?」


 これ以上は喋らない方が良い。

 僕は三人の食いつきぶりに奇妙な胸騒ぎを覚えて、あわててケーキを頬張り代用コーヒーで飲みくだした。


「君も日本人会に顔を出したらいい。意外なお歴々と知り合いになれるかもしれないよ」


 じゃ、来週の礼拝に。また聞かせてもらいにくるよ。

 僕はそそくさと立ち上がった。

 三人はまたねと手を振り、椅子から立ち上がらなかった。

 随分と、僕らは離れたところまで来てしまったんだな。

 キムの態度と顔色を思い出しながら、僕はドイツに残ったものと出戻ったものの感覚の違いに考えを巡らせていた。


 それからも僕は何度も、地下鉄に乗ってベルリン南西ダーレムの教会に足を運んだ。

 相変わらず堂々たる威容のカイザー・ヴィルヘルム研究所の前を通り、その研究所の築いてきた偉大な功績に思いをはせる。

 ヨーゼフ・メンゲレ、フリッツ・ハーパー、オトマール・フェルシュアー。

 いずれも科学大国・技術大国たるドイツの綺羅星のごとき研究者だ。

 特に窒素肥料の研究をしたハーパー博士は、ユダヤ人ながらプロテスタントに改宗している。

 彼も職場に近い、このイエス・キリスト教会で祈りの時を持ったのだろうか。


「キム。僕らがバラバラになった後、君は一度も国に帰らなかったのかい?」


 この週末もまた、礼拝の後のコーヒータイムに、キムとオルガニストのフリードリヒと、カルカント(オルガン助手) のヘルマンとテーブルを囲んだ。

 今日のコーヒーのお供はカルトッフェル・クーヘン。ふかしたジャガイモを練ったビスケットだ。


「ああ、帰る金もなかったし、大使館に無心に行くのもうっとうしいしね」


 元々人づきあいが派手な方ではなかったが、数年会わない間に更に孤独の陰が増したようだ。


「ああいうところにしょっちゅう出入りしている人種は、僕は苦手なんだ」

「学生のころ、大使館主催のパーティーで歌ったりしていたじゃないか。来客も大島大使もご機嫌だったから、色んな事を融通してもらえるかもしれないのに」

「僕は君と違う。ああしたお歴々と社交をするのなんかまっぴらだ。君はあそこの集いに入ってブンヤの特性を生かして情報入手とかできるか?」


 考えるまでもなかった。あそこに集うベルリン上流階級日本人たちのような方々とうまくやれないから、僕は一人でベルリンに来たのだ。

 そして孤独で気楽な事務方家業をしている。


「僕も苦手だな。人のことは言えないか」


 東洋人二人の苦笑を、ドイツ人オルガン組は穏やかに微笑んでみていた。


「シンノ、君は毎週のように礼拝で音楽を聞き入っているけど、自分はもうやらないのか? あんなに何でも弾けたじゃないか」


 そうだね、日本に一度帰ってから全く音楽をやらなくなったね。そう答えて僕は思い出した。


「ああ、そういえば奇妙なアンサンブルは経験したよ」

「奇妙な?」

「変った人と組んで、弦楽二重奏を」

「へえ、誰と?」


 キム達はあままり関心が無いように尋ねる。正直会話に詰まった繋ぎの相槌のようだ。

 僕は言おうか言うまいか迷ったが、その態度にちょっとカチンときた。


「ある人の、弟さまとだよ」

「ある人?」

「金髪の人物の、弟さ」


 三人の姿勢が変わった。ようやく僕の話を正面から聞いてくれる。僕は話してしまいたい欲に負けた。


「金髪の山羊、ハイドリヒ氏の弟とだよ」


 三人が息をのむのが分かった。

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