第49話 パンツァーファウスト
ハインツ・ハイドリヒ氏が編集に関わっているという『パンツァーファウスト』は、広く一般国民向け、という雑誌ではない。
軍隊内の宣伝誌で、国防軍の機甲宣伝中隊が取材、印刷、発行を担っている。
彼はSS中尉であり、同時に国防軍の将校でもあるのだが、二つの組織に所属するのは当時珍しくはなかった。
彼の兄ラインハルトも、親衛隊のトップエリートでありながら、国防軍の空軍士官を兼ねていた。
即興演奏合戦で好感触を与えたのか、僕はなぜか、彼にしばしば呼ばれた。
ゲシュタポ本部のビルにも何度か行ったし(大層気が進まなかった)、国防軍兵士が集うビヤレストランの場合もあった。
もっと付き合いが進むと自宅に招かれることさえあった。
大半は彼の気の済むまで楽器の演奏に付き合う。チェロに合わせてピアノを弾いたり、彼の気の置けない友人たちとビールの席にご相伴にあずかったりだ。
ハインツ氏はおおらかで、一見して直情的な性格だ。
比較的早い時期にナチス党に参加したのも、党のマッチョな精神面が気に入ったからかもしれない。
ハインツ夫妻には子供が5人いた。
僕らが書斎で即興演奏に興じていると、庭に面した窓からのぞき込んだり、ドアを開けて、邪魔をしないように椅子にちょこんと掛けて、父親の演奏を眺めたり。
そんな時のハインツ氏は、心穏やかで優しい父親そのものの顔になる。
僕は知っている。
極めて残酷で、暴力を振るう事をためらわない人物でも、それを仕事と認識している場合、場を離れれば全く平凡で穏やかな市民に戻ることを。
ドイツでも日本でも、仕事と思えば何でもできる根性は変らないのだ。
ハインツ・ハイドリヒは、事務所の椅子に腰かけて記事をまとめる、事務仕事が得意なタイプではなかった。
親衛隊の大物の弟だというのに、自分で取材に出かける。時に東方の占領地にまで足を延ばし、みずから写真を撮った。
彼の所属する機甲宣伝中隊は専用の軍用車を多数所有し、時には列車を借り上げて遠方に足を延ばした。
担当するのは軍隊内の機関紙だが、他の中隊では専属のカメラマンが映写機や録音機を携帯し、映像を撮っていた。
それらの素材は編集され、例えば『ドイツ週刊ニュース』のようなニュース映像として映画館で上映されるのだ。
宣伝隊のメンバーは多く出入りも激しく、しばしば古い国境を越えて遠方まで行くので、彼らの動向を掴むのは大変だ。
真面目でプライドの高い親衛隊員というよりは、むしろ技術畑の職人集団といった風情で、上官であるハインツ・ハイドリヒやヨアヒム・フィッシャーの性格を反映してか、比較的自由で親しみやすい人が多い気がした。
僕がハインツ氏に気に入られた理由は、音楽の要素以外、よくわからない。静かに潜って暮らしたい身にとっては、実のところ若干迷惑でもある。
彼は『兄と違い』なるほど大らかだった。
学校の運動部のキャプテンといったノリで、冗談と豪胆と仲間との交わりを愛していた。仕事中は知らないないが、単純で裏表のない気のいい男に思えた。
家族と音楽を愛し、自分がゲルマン民族の文化保護者(と思っている)ナチ党員だと誇りを持っていた。
ある時、編集部の執務室に呼ばれ、彼の『面倒な事務作業』に付き合う羽目になった。機関紙に載せる写真の選定し、その写真に相応しい文章を考えるという、一番楽しく一番苦しい作業だ。
彼らは現地ドキュメントよろしく宣伝写真を組み合わせ、もっともらしいストーリーを作り上げて、無辜の民を救うドイツ軍神話を作り上げる。
読者が嘘の匂いを嗅ぎつけるかどうかなどは問題外なのだ。
ハインツ氏は頭をひねり、彼が蓄えて来た「教養」を絡み合わせて、記憶の中から引っ張り出し、コーディネートする。
その合間合間に僕に話しかけ、東洋の話、かつてヒトラーユーゲントも行ったという『東京』や『宮中』の話を聞きたがるのだ。
将軍の時代の侍集団から近代的な軍隊になった際、軍楽隊の音楽をドイツやフランス、イギリスなど複数の国から取り入れたという事実は、ハインツ氏の好奇心をくすぐるに充分だったようだ。
「君たち日本人は、歴史も民族も違う国々の思想を取り込むのに長けているんだな」
彼らにしてみれば、節操なく誇りに欠けると感じたかもしれない。だが彼らゲルマン民族にしてからが、古代ローマ末期に北方から異動し、ローマに順応して来た民族ではないか。
「どうだ。君もナチス党員に登録してみては。特別枠で入隊できるよう計らってやってもいいぞ」
僕は耳を疑った。
この『金髪の死神の弟』は、どういうつもりで一アジア人を誘っているのだろうか。
しかも事あるごとにその誘いは繰り返されたし、語調から判断するに、まんざらからかっているだけでもなさそうだ。
彼らにとって、僕が何かしらの利用価値有りと思われていたら、迷惑だ。
「大島大使をまずお誘いください。あの方なら喜んで入隊なさるでしょう」
「ああ、ドイツ人よりゲルマン化しているという話題の男だね。それはこっちが勘弁だよ」
なぜだかハインツ氏は、大島大使は歓迎しないようだった。
ハインツ氏だけではなく、開戦以来ナチの幹部の大勢は、大島氏を『鼻を突っ込みすぎ、前に出過ぎる男』と持て余し気味のように感じた。
もちろんそんなことは誰にも言わない。
僕はのらりくらりとハインツ氏の誘いを交わし続けた。
忘れたころに、今度は
「美しく気立てのいいドイツ女性を紹介してやろう」
と言われた。
ナチ党には親衛隊の純血主義にふさわしい女性を育てる花嫁学校の制度まである。そこでふさわしい女性を見繕ってあげようというのだ。
僕は丁寧にきっぱりと断った。
「故国日本に婚約者を置いてきていますので」
「そうか。それは残念だな。君みたいな男が独りでいるのはもったいないと思ったんだが、相手がいるならそう言いたまえよ」
婚約者は『いた』が、彼らに僕のプライベートまで教える義理は無い。
僕は他の日本人が不思議がるくらい、また記者の先輩方には面白がられ、煽られるくらい、ハイドリヒ家の弟の傍にいる羽目になった。
僕が望んだわけではないのに。
音楽の才が身を助けたのだと言われるが、そんなことはない。
ほんの少しあるとしたら、その才はユダヤ人のイザーク先生に伸ばしてもらったのだから、ナチスにとっては皮肉なものだ。
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