第43話 立ち尽くす母・3

 ふわんふわんと赤ちゃんが泣きだした。


「エミリア、どうしたの。おしっこ出たの? お腹空いたの?」


 お尻が濡れて気持ち悪いのかもしれない。薄い青い目から涙をはじき出しながら、娘が大声で呼んでいる。


「どれどれ。ママが見てあげる。おっぱいで足りなかったら、アンナおばちゃんが作ってくれたジャガイモのつぶしたのもあるのよ」


 マリーはふらつきながらベッドを降り、赤ん坊用のベッドに歩み寄った。アンナの勤め先のドイツ人医師夫婦が自分たちで作って、生まれてくる娘にとくれたものだ。


 ベルリンから戻った時、既にエミールの子を宿していたマリーに、周囲は優しかった。

 特に駐留して来たドイツ人たちは皆親切で、何くれとなく世話を焼き、食べものや衣服をくれた。

 自分の古くなった服を縫い直したのよと、赤ん坊用の服やおむつ、おくるみ布や、戦場に行った子供が小さい頃使っていたというおもちゃまで。

 赤ん坊が生まれた時も皆祝福してくれた。

 元気でよく泣く女の子は、父親がエミールと言う名だからエミリアと名付けた。

 戦争が終わって彼とまた一緒に暮らす時に、娘だとすぐわかるように。


「あなたのお父さんはね、とっても歌が上手なのよ……」


 何て小さな冷たい手だ。僕に暖めさせて。

 そう歌いながら、彼は私の手を取って両手で包み込んでくれた。始めはお芝居で。すぐに本当に。

 エミリアはすくすくと成長し、もうマリーの母乳だけではとても足りず柔らかな離乳食も食べる。

 とても丈夫な可愛い子だ。

 エミールも見ればたちまち好きになるに違いない。きっと。


 バリンと大きな音を立てて窓ガラスが割れた。床にキラキラと光る砕けたガラス片が散らばり、石が転がる。

 外から石が投げられたのだ。

 細かいかけらがベビーベッドにとんでいないか。マリーは裸足で床を走り、駆け寄った。

 足の裏にじゃりという痛みが走り、床に赤い足あとが付いた。

 同時に大勢の男たちがドアを突き破り踏み込んできた。

 マリーは寝間着のままエミリアを抱き、囲まれた男たちに連れ出されて行った。


 足がズキズキする。

 ガラスが刺さったままの裸足で、マリーは引き立てられていった。

 やせ細った寝間着姿の女を囲んで歩き続ける男たちは、皆無言だった。

 血走った目で銃を肩にかけ、土と埃と汗に汚れた服を着ている。

 中に数人、独特のベレー帽をかぶった男たちもいた。

 家の周りの小路から、街の大通りへと出る。

 大勢の女たちや子供、若者達が道端に出て、激した目でマリーを見つめている。

 ずっとベッドに寝たきりで、こんなに長く歩いたためしのなかったマリーは、ふらふらと歩みが遅かった。


「もっと早く歩け」


 並んで歩く民兵に、銃の台座で脇を小突かれた。

 台座がエミリアの頭に軽くあたり、赤ん坊は火が付いたように泣きだした。


「視ろよ。ドイツ野郎の赤ん坊だぜ」

「恥知らずの子は、やっぱり泣き声もドイツなまりだな」


 売女。あばずれ。娼婦。

 よく見知った街の人たちが、口を極めてマリーを罵る。

 どうしたんだろう。この間まで私の体を気遣って、エミリアに可愛いねと笑いかけてくれた人達なのに。

 まわりのゲリラの、年若い少年のような男が、当惑した素振りでちらちらと赤ん坊を見ている。

 次第に集まり、昂った感情を母子にぶつけてくる群衆のエネルギーに、抵抗運動の戦士たちも手こずり、疲れているようだった。

『大丈夫ですからご心配ありませんのよ』と声をかけた方が良いのかしら。でも黙っていた方がよさそう。マリーは全く恐怖を感じなかった。


 街の小路のあちこちから、マリーと同様に男たちに囲まれ、小突かれながら歩いてくる女たちが見えた。

 市庁舎前の広場に着くと、噴水の前に一際大きな人だかりができていた。

 見ると、街灯から男が数人吊るされていた。

 首が不自然に伸び、全身血だらけで顔が青黒く膨れている。

 両目にテーブルナイフが突き刺さったまま、晒されている。

 ドイツ人たちと関係する役所や機関で働いていた、事務職の男たちだ。

 

 人だかりの中、彼らの死体の下に置かれた椅子で、マリーはアンナを見つけた。

 殴られ頬を腫らし服を引き裂かれたアンナは、椅子に座らされ髪を刈られている。

 短く切る、なんてものじゃない。バリカンを持った男たちの手で、粗雑に坊主にされているのだ。

 白い地肌がみるみる広がり、椅子のまわりには美しい赤みがかった金髪が束になって落ちる。


「お似合いですよ、マダム」


 アンナの体を押さえつけた男は、厭味ったらしくドイツ語で囁いた。

 最後の毛束が刈り取られ丸坊主になると、興奮した女たちが続々と近寄った。歓声を上げ塗料でアンナの頬、ひたい、破かれ大きくはだけた背中や胸元に鍵十字を描いていく。

 アンナは顔をしゃんとあげ、視線を遠くに投げていた。この先には何が見えているのだろうか。


「何を見ているの?」


 街で偶然見かけたように、マリーは無邪気な声をかけたが、その途端、背中をずいと押された。


「次はおまえの番だ」

「さっさと台に昇れ。椅子にかけろ」


 こちらを見たアンナが男たちに怒りを向け、殴り倒された。


 マリーは椅子に掛けた。

 子供の頃、孤児だといじめられて泣いた噴水の前に置かれた椅子は、ついこの間までドイツ軍の詰所の事務室にあったものだ。


「どんなふうに致しましょうか、ドイツの奥様」


 鋏を手にした男が顔を覗き込んで笑う。見たことのない顔だ。

 彼はマリーの背後に回り、一つに縛っていた髪を乱暴につかむと根元から切り始めた。

 サクサクと鈍い音がして、切れない鋏の歯に髪が絡まり引っかかった。

 かまわず鋏を進められ、マリーの髪は顔のまわりにほろほろと落ちた。

 顔にかかったのか、胸に抱いたエミリアがまた泣き始めた。

 バリカンを構えた男が声を荒げた。


「こっちは散髪待ちのお客さんが何人も残ってるんだ。この邪魔なガキどっかへやっちまえ」


 古びた銃を肩にかけ煙草をくわえた男が、マリーの手からエミリアを取り上げた。

 取り返そうとして立ち上がり、男につかみかかったマリーは、反対に肘で押されてもんどりうって転んだ、

 服が裂け、周囲から怒声と共に藁や馬糞、土塊が飛んできた。

 男は面倒くさそうにエミリアをアンナに渡すと、マリーを乱暴に引き起こし、また椅子に座らせた。

 切れないバリカンで頭を刈られながら、マリーはぶつぶつと呟いていた。


 Salve regina, mater misericordiae:

 vita, dulcedo, et spes nostra, salve.

 Ad te clamamus, exules, filii Hevae.

 Ad te suspiramus, gementes et flentes,

 in hac lacrimarum valle.


 元后よ 憐れみ深き御母よ

 我らの命、慰め、及び望みなるマリア

 我ら追放されしエヴァの子なれば

 御身に向かいて呼ばわり

 この涙の谷に泣き叫びて

 ひたすら仰ぎ望み奉る

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る