第42話 立ち尽くす母・2

 マリーとアンナはここアルザス地方の小さな街の生まれだ。

 初等学校を終えると仕事を求めてベルリンに向かった。

 戦争がはじまり、フランス人と見做された2人はドイツの地に居ずらくなり、鉄道で実家のある街に帰ったが、街の中は人々の姿が消え、がらんとしていた。

 公共機能の維持のために最低限残った人々に聞くと、昔からのフランス系の住民はみな、遠く南西部の村に強制移住させられたという。

 リムーザン地方のオラドゥール・シュル・グラヌ村といった。

 教師だったアンナの両親も、マリーの育った孤児院と修道院の人々も、既婚の友人たちも、そこに行ってしまったという。

 さらに、子供たちはアルザス学校と呼ばれる移転者専用の学校に通っていると、町の職員は話してくれた。


 市街は、戦時中にあって空襲も爆撃も受けなかった。

 近くの山中では、連合軍と敗走するドイツ軍との激しい戦闘があったようだが、市街地は美しい中世後期の牧歌的な建物と、ベランダや窓、庭に咲き乱れる花で美しく彩られた平和な光景が続いていた。

 街の空気が変ったのは、ドイツ軍がフランスから撤退してからだ。

 ドイツ人が雪崩を打って国境を越え、ドイツ本国へと姿を消した後だ。


 ベルリンに住んだ経験があり、ドイツ語をフランス語と同等に使えるアンナは、帰郷以来ドイツ兵の為の町の病院事務員として働いていた。

 同僚はほぼ全員ドイツ人か、ドイツ系フランス人だった。

 医師も看護婦も患者も大半がドイツ兵で、彼らはベルリンの話を聞きたがった。

 アンナ達はドイツ人に乱暴に扱われたこともなく、住民も一見平和裏に共存していた。

 街の店に買い物に来る若いドイツの兵士たちも、そばかす顔にまだ子供のようなあどけなさで、特に粗暴でもなかった。


 ベルリンを発つ時既に妊娠中で、故郷に帰って来てからも体調がすぐれないマリーは、家で寝たり起きたりしながら裁縫の仕事をしていた。

 明るい性格でドイツ人同僚に人気のあったアンナは、看護師や軍医からよく菓子や食料を貰った。

 それらは持ち帰り、つわりと貧血に苦しむマリーに食べさせた。近所のフランス人住民におすそ分けする時もあった。

 ドイツ人同僚が家を訪問したり、逆にドイツ人宅に呼ばれたりすることもあったが、周囲から白い目で観られたりすることもない、と思っていた。


 フランスが連合軍の手で解放されたと知らされるまでは。


 ドイツ人が去る代わり、フランス南西部に転居していたフランス人住民が少しずつ戻って来た。

 ドイツ軍病院は一時閉鎖されアンナは職を失い、ブドウ農家の手伝いで僅かな金を得なければならなくなった。

 働くことは苦ではない。アパートには身重の親友が帰りを待っている。

 それに、戦争はもうすぐ終わるだろう。

 ドイツ兵と恋仲になる事もなく、女を武器に金や食料を得る事もなかったアンナは、住民と共に静かに戦争が終わるのを待ってた。

 空は青く高く、山は緑。川は日差しを映し輝いている。日々は美しい。


 だが、時が経つにつれ、街には他所からやって来たレジスタンスの男や女、一般市民のなりをして武器を持った「マキ」と言われる市民兵達が増えてきた。

 彼らの向けるまなざしは、アンナを凍り付かせるに充分だった。


「マリー、牛乳を買って来るわね」


 日差しがまぶしい。今日も暑くなりそうだ。

 家の壁や塀に這う蔓バラの香りをかぎながらアンナはスカーフを被った。

 このところ、アパートのまわりを目つきの悪い男たちがうろついている。

 彼らから顔を隠すように、ベルリン時代に買ったシルクのスカーフを髪に巻き、顎の下で結んだ。

 木戸を開け、白っぽい光が溢れる表の道に出た途端、背後から男の声で呼び止められた。


「おい、ドイツ女」


 アンナは振り返らなかった。

 私はドイツ女じゃない。生まれた時、ここはフランスだった。私はフランス人だ。

 突然肩をつかまれ、体ごと後ろに引っ張られた。


「やめてよ」


 振り払おうと頭を振ると、自分を取り巻く数人の男たちを見た。その周りに、鋭い目つきの女たち。

 いずれも近所の人たちではない。


「俺たちと一緒に来い」


 男の一人がアンナの肘を掴んだ。


「どうして? 私は何もやっていないわ。牛乳を買いに行くところよ」

「なにもやっていない、だと?  この裏切り女が」


 忌々しそうに男たちが近寄り、アンナの背中や両腕、肩を押さえつけた。

 痛い、痛いわよやめて。


「分かったわ。抵抗なんてしないから離して。でも家に赤ちゃんがいるのよ」

「ドイツ野郎の子供だな。分かっているんだ」


 男たちの一部と女が、木戸を蹴飛ばしてアパートの中に入っていった。


「やめてよ! マリーは体が弱って伏せっているのよ」

「うるさいメス豚。指示するのは俺たちの方だ」


 背中を押さえていた男が後頭部を殴った。

 アンナは目のまえに星が散り、よろめいた。

 男たちにこづかれつつ歩き出すしかなかった。

 顔を上げて前を見る。

 空がどこまでも高く青く、鳥が楽しげに鳴き交わしながら飛んでいる。

 周囲から


「ごらんよ。悪びれる風もないよ」

「威張って胸張ってさ」


 と聞こえよがしの女たちの声がする。

 昨日まで


「赤ちゃんとお友だちの具合はどうだい?」


 とアンナに声をかけてくれていた、小間物屋のおかみさんと、郵便局の事務員だ。

 遠くで修道院の鐘が鳴った。


『もう正午なのか…』


 陽の光がまぶしすぎる。空を見つめるアンナは目を細めた。

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