第41話 立ち尽くす母・1
窓の外からプンと甘い香りが漂ってくる。
隣家の木塀一面に這うスイカズラの赤みがかった卵色の花の房から流れてくるようだ。
風向きが変わったに違いない。
午前中はブドウ畑を渡ってくる、青く瑞々しい匂いが家の中を吹き抜けていた。
もう陽が傾き始めている。
1944年夏。
ドイツとフランスの国境アルザス地方の田舎町は静まり返っていた。
フランスの西部からアメリカを筆頭とした連合軍が来た。ドイツ軍は6月に起こった郊外での激しい戦闘に負け、ライン川を越えてドイツ国内へと敗走して行った。
なぜか戦禍に巻き込まれず両軍勢も過ぎ越して行った、中世の南部ドイツ様式そのままの街並みの町は、奇妙で落ち着かない静けさに満ちていた。
白い壁に黒い木組みが映える煉瓦屋根の家の窓辺には、木造りの細長い植木鉢が並べられ、燃えるような赤や濃い珊瑚色のゼラニウムが太陽に向けて花茎をのばし、こぼれんばかりの花をつけている。
花の香りを載せた風が吹き抜ける部屋の中には、青ざめやつれた寝間着姿の女がベッドに伏し、傍らの赤ん坊を寝かしつけていた。
マリー・ブーランジェだった。
彼女は1月に出産していた。エミールによく似た金髪の、よく泣く娘だ。
エミリアと名付けたその娘に生気を吸われつくしたのか、彼女は心が壊れたまま、産後の回復もままならずベッドに伏せる日々が続いた。
体調のいい日は起きて赤ん坊に乳を含ませ、おむつを洗い、我が子の体を拭いてやったりするのだが、調子が悪いとそれも出来ない。
出産から半年経つと言うのに、傷口からは黒い血が少しずつ垂れ、腹痛も続いていた。
ベッドで赤ん坊の傍らに伏しながら、マリーはしばしば夢想の世界に浸った。
眠る娘に、ベルリンでキムに聞いた、極東の昔話を聞かせてやるのだった。
それは夏に咲き乱れる赤い花「サルスベリ」の昔話。
『むかしむかし、海に近いとある村では海に住む竜が暴れていました。
そこで海の事故を避けるため、毎年、竜の神様に女の子を犠牲として捧げる祭が開かれていました』
赤ん坊はほわほわとあくびをして、目を閉じた。
うっすら桃色の頬の産毛が、風に微かに揺れている。
鳥の声が遠くから聞こえる。そして小さく大きく響く、通りの人々の声も。
『ある年、村の金持ちの一人娘が生贄に選ばれました。
歳をとった両親のたった一人の娘でした。
両親と娘は泣き明かしましたが「さだめ」を変えることはできません。
娘は深夜に村を出て、海にそそり立つ絶壁の上で竜を待つことにしました。
そこに一人の、旅の修行をしている王子様が通りかかりました。
悲しみに暮れる美しい娘に、王子さまは一目で恋に落ちました。
そのとき竜が暗い海の底から湧きだしましたが、王子様が勇敢に戦い見事に討ち果たしました。
村の人々や娘の両親が駆けつけて、王子様を讃え娘と結婚してこの地にとどまってくれと頼みますが、王子は修行の旅の途中。100日後に花嫁として迎えに来ると誓って、ひとり旅を続けました。
100日後、村に戻ってきた王子は、美しい娘は病で死んでしまったと知らされます。
王子は嘆き悲しみましたが娘は生き返りません。
やがて娘の墓から一本の木が生え、赤い可憐な花を咲かせました。
100日間王子を待ちつつ死んでいった娘を偲び、その花は
百日紅と呼ばれるようになりました』
「マリー、牛乳を買って来るわね」
アンナが赤みがかった金髪をとかしつけ、鞄を手にした。
「だからちゃんと寝て体を休めておくのよ。赤ちゃんが寝ている開いただけでも」
「わかったわ。ちゃん眠る」
「あとは、あったら果物と甘いパンも手に入れてくるわ」
アンナはラジオを消した。
先ほどから鳥の声に混じり、荒々しい口調のアナウンスが流れていた。
フランス西部のノルマンディーに上陸した連合軍が、ドイツ軍を次々と打ち破り、つい最近パリを解放したというのだ。
民兵やパルチザン、様々なバックボーンのゲリラ部隊が主導権を争い、残されたドイツ兵を痛めつけている。
外国に逃げていた軍人や指導者たちが戻って来る。
それらの情報が壊れかけたラジオから、ひび割れた声で流れ来た。
アンナにとって、心身が弱ったマリーには聞かせたくない情報ばかりだった。
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