第26話 死の都・1

 第二回の演奏会に向けて、準備は細々と続いていた。

 指揮者のイサーク先生が姿を消したとはいえ、演出助手のミリヤナと練習ピアニスト兼音楽助手のシンノが残っており、規模を替え体勢を整えれば実現は可能とカンパニーは踏んでいた。

 前回公演時、練習の初期から指導者の傍にいて、ノウハウや音楽の作り方、アプローチの仕方に触れていた二人だからである。


 演奏会のメンバーはぽつりぽつりと集まってきた。

 とはいえ国外に出てしまったユダヤ人学生もいて、主に器楽方面での人集めは難航した。

 次の演目と決めたエーリッヒ・コルンゴルトの「死の都」の音楽は難物だ。

 複雑な和声と、ワグナーばりに大がかりなオーケストレーションが、作曲家の出世作であるこのオペラの持ち味だが、学生たちも先生も、フルオーケストラ演奏など初めから無理とわかっていた。

 だからヅィンマン先生は、オーケストラ譜を解析し、ピアノと弦楽、木管群と少数の金管楽器という室内楽に編成し直していた。


「これなら君達こなせるだろう? 」


 眼鏡のふちをずり上げながら、面白そうに大声で励ますヅィンマン先生の顔が、譜面を見た一同の頭をよぎった。


 名場面集とはいえ、複雑きわまるミステリー仕立ての筋書きも、歌手の演技も観客に伝えなくてはならない。ただ立って向かい合い歌う、ではコンサートと変わりない。

 旋律がそのまま劇のストーリーを語ってくれる「ボエーム」と違い、文学作品「死の都ブリュージュ」を題材にとった耽美的な作品である。

 亡き妻に心囚われたまま女優の若い肉体にも心奪われる男と、貞淑で美貌の死んだ妻マリー、そして彼の心を亡妻から奪おうとする野心満々の若い女優マリエッタ。

 マリーとマリエッタは二役で、演じ歌い分けなければならない。

 そんな役は、か細い可憐なソプラノのマリーには無理だ。声質も個性も違い過ぎる。

 誰もがそう思ったが、彼女はぜひやらせてくれと強い調子で申し出た。

 演出と音楽面の中心であるシンノとミリヤナは、顔つき合わせて悩んだが、やらせてみる事にした。


 エミールは能面のような無表情で、練習に参加していた。

 マリーは彼のアパートを出て、どこかに身を寄せ、そこから練習に来ているらしい。

 愛する少女は手元にいない。とうに羽ばたいて出て行ってしまった。

 狭い屋根裏で、貧しい生活の中で愛し合った可憐なマリーは、画学生相手に裸でモデルを務め、体も提供する女だった。

 それも自分の生活力のなさゆえに。


 だがマリーはまだ『彼らの仲間』だった。

 カバレットの地下のワイン蔵や閉店後のビヤホールの練習場に現われ、シンノのピアノに合わせてマリエッタと亡妻を歌い演じるのは、まぎれもなくやせっぽちで寂しげな陰のある彼女だ。

 音楽が鳴ると、亡き妻に捧げる主人公パウルの思慕を踏みにじる誘惑者に豹変し、また亡き妻のリュートを手に取り優美に歌い上げる。

 劇中でもっとも有名なマリエッタの『リュートの歌』は、途中からパウル役のテノールが加わり、声と心を重ねる。

 リュートを弾きながら強い目で男を見上げる野心家のマリエッタに、パウルはなぜか亡き貞淑な妻の面影を重ねてしまい、誘惑に負けそうになるのだ。

 マリーは稽古で歌いながら、パウル役のエミールを大きな目でひたと見つめる。その瞳の奥には暗い情熱がたぎっていた。

 そして稽古が終わると恥ずかしそうに背中を丸め、そそくさと去っていく。

 自分の元を去った女を、エミールは追いかけられないでいた。


 1935年初夏。

 ベルリンの目抜き通りに、ウンターデンリンデンの名の由来となった並木の菩提樹が、黄緑色の花の房となって咲く。

 その重たげに垂れ下がった地味ななりをした花房から、得も言われぬ清々しい香りが通り一面に立ち込め、風に乗って行く人の鼻をくすぐる。


「最高だな」

「ああ、最高だ」


 楽器を抱え正装に身を包んだキムとシンノ、二人のアジア人の青年は、菩提樹の芳香を胸いっぱいに吸い込んだ。

 6月。梅雨のないドイツ北方・ベルリンの街は日によっては盛夏かと誤解されそうな強い日差しに覆われる。

 ベルリンに暮らす学生として、貴重な音楽の『仕事』を依頼され、二人の青年はミッテ地区の官庁街にそびえる日本大使館に来たのだ。

 当時の日本大使は華族の武者小路公共子爵で、白樺派の作家・武者小路実篤の実の兄である。


 大使館主催のパーティーはしばしば催され、現地の芸術家や優秀な学生が演奏を務めた。

 この度はベルリンに住む富裕な日本人家族の他、駐在陸軍武官である大島浩が懇意にしているナチ党の幹部も招かれ、バリトンのキムの歌うシューベルトやシューマンは好評を博した。ユダヤ人ハイネの詩につけられた曲は、大使館側から演奏不可と指示されていたが。

 朝鮮半島生まれの朝鮮民族であるキムが、日本人として異国の日本大使館で、オーストリア、ドイツの作曲科の歌をドイツ語で歌う。

 当時少しもおかしなことではなかった。

 だが彼は大儀そうに拍手をするドイツ高官や、在ベルリンの金持ちの商人の妻たちの目線に不穏なものを感じた。

 我々の国の高等教育のおかげで、この朝鮮人はここまでの歌唱技能を身に着けた。

 そんな植民地の子供を見下ろすような気色を、キムは感じずにはいられなかった。

 歌の伴奏ではピアノ、さらに弦楽四重奏の演奏ではヴァイオリンを器用にこなすシンノは、そんな目線とは無縁だ。

 なぜなら彼は、日本の金持ちの子弟だから。

 演奏後の、大使館付きコックが腕を振るったケーキやクッキーのテーブルを囲み、コーヒー、紅茶、ワインを傾け社交に興じる、そんな会話の中でもキムは如才なく振る舞いながら、完全に『上流階級の日本人』そのもののシンノの所作を見つめるのだった。


「君達、私が車を出すから乗りたまえ」


 演奏と午後の茶会が終わると、駐在武官の大島浩が二人に直々に声をかけた。

 キムとシンノは顔を見合わせた。

 ありえない事だ。


 ウンターデンリンデンを走る大使館のベンツの中で、大島は終始上機嫌だった。

 幼い頃から日本に住むドイツ人家庭に預けられ、ドイツ式の厳しい教育を受けていたので、言葉もふるまいも音楽の好みもドイツ人以上に『ドイツ的』で知られていた。

 彼はひっきりなしに早口で語りかけた。

 君達のドイツでの学びは素晴らしい。

 音楽の底に流れるドイツ精神と、日本の心が完全に融合している。

 以前から我が同胞子女のヨーロッパでの音楽コンクール等の活躍が目立っているから、君達もどんどん挑戦して、日本人の優秀さを本場の人間に披露してほしい。


「僕もオペラやオペレッタが好きでね。先日もベルリンのカバレットに美しい歌姫の演奏を聞きに行ったよ。彼女の名はアンナ……アンナ・ドゥリックとか言ったかな?」


 キムとシンノは息を飲み、顔を見合わせた。

 大島が指示を出し、シンノの高級アパルトマンの前で車は止まった。


「僕はオペラが好きと言ったが、やはりワグナーの楽曲が最高だと信じる。反対にどうも好きになれないのが……『ラ・ボエーム』だね。学生に毛の生えたような、甘い連中が世の中を嘗めている様子がどうもけしからん。君達はそうは思わんか? 」


 運転手が先回りしてドアを開け、二人の若者は下りた。

 心なしか顔が青ざめている。


「君達に忠告しておく。余計な事に心惑わされず真摯に勉強したまえ。その方が身のためだ」

「ご心配なく。自分たちは日本人として故国に泥を塗らないよう、真剣に学んでおります」


 日本人として。シンノの言葉を聞きつつ、キムは心の中で繰り返した。

 ざらついた響きが耳を刺してゆく。


「それはよかった。頑張りたまえ」


 快活な笑顔で二人を励ました大島の目が、一瞬眇めた。


「我々は善良な日本国民は国の威信をかけて保護するが、盟友ドイツ国から不良分子と目された者は、守る義務も必要もないのでね」


 重いエンジン音を響かせて、ベンツは去っていった。


 豪奢なアパルトマンに入るシンノに別れを告げ、キムはベルリンの裏通りを歩いた。

 ウンターデンリンデンの菩提樹の香りは、風に乗って何ブロックも離れた下町まで漂ってくる。

 薄暗い古ぼけたアパートの密集する路地の角から、ふらついた足取りの女が出て来た。


「ただいま」

「おかえり。さっきまで大使館のパーティーで歌の仕事だったよ」


 キムは足元のおぼつかない女に手を差し伸べた。


「あたしも今帰ってきたところよ。一人でいると寒くて」

「モデルの仕事かい? 」


 寒いってことはないだろう。もう初夏だよ。

 キムが広げた腕に、すっぽりと包まれた小柄な女は、マリー・ブーランジェだった。


「人が居ないと、寒いのよ。体温が風に吸いとられていく感じ」

「君は詩人だね」


 そうよ。裸の酔っ払い詩人。

 小柄なマリーを大きな手に抱えるようにして、キムはアパートの階段を昇った。

 5階の隅の粗末部屋。重い木のドアを開けてもらうと彼女はよろめくように入り、その場にしゃがみ込んだ。

 随分呑んだんだな、このおチビさんは。

 キムがドアを閉め手を差し伸べると、女はぐいとその手を引っ張り、無理やり男の体を寄せた。


「寂しかった。私を置いて行かないで。私の前から黙って消えないで」


 絡みついてくる女に、キムは呟いた。


「君は、それを言う相手を間違っているよ」

「だってあなたは優しいじゃない」

「『あなたは弱い』の間違いさ」


 俺は弱いんだ。技術を磨いたと思っていても。このベルリンでも、日本人社会の中でも。

 女のブラウスの裾から素肌に手を這わせながら、男は呟いた。

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