第25話 歌の翼に君をのせて・2
重いドアを開けカフェを出たエミールは、ポケットに手を突っ込んだまま、ずんずん歩いた。
もう7月も終わるという真夏の午後。ドイツでも北のベルリンと言えど気温は上がる。早足でマルクト広場を横切るエミールの体は熱く、青ざめた顔には玉の汗が吹きだした。
道行く若い女たちはみな薄着だ。
夏物の洋服の、ひらめくスカートの裾から伸びるむき出しの足に、カールした髪の毛先がかかる首筋。薄手の生地のワンピースは、胸元のボタンがはちきれんばかりに窮屈そうだ。
女たちのざわめき、お喋り、笑い声。皆が自分を挑発しているようで、エミールのざわついた心がさらに波立つ。
久し振りに大学の門をくぐっても、気分は晴れなかった。
広い敷地のここかしこに、SSやゲシュタポの屈強な制服の男たちがいる。
しばらく足を向けないうちに、学内の締め付けは急速に厳しくなっていた。
だがその物々しさも、エミールの虚ろな目には全く入らなかった。
音楽学部の練習室に、見慣れたオペラメンバーの姿はなかった。
いつも床や椅子に掛け、楽譜をめくっていたシンノもキムも、楽団の他のメンバーもいない。
いつも楽器の置かれた場所は綺麗に片づけられ、無造作に重ねられた楽譜の束や譜面台、メトロノームも消え去っていた。
学内のどこからか、学生が練習している楽器の音は聞こえる。
だがピアノに合わせてオペラの練習している歌声や、連れ立っておしゃべりしながら、いつの間にか台詞が歌になってアンサンブルを始めてしまう、声楽家の卵たちがいない。
遠くから合唱が聞こえる。
ヒトラーとナチが好むという、ワグナーの『ローエングリン』だ。
恋と、若さと、失敗とほろ苦い笑いは、キャンバスから一掃されてしまったようだ。
自分達がオペラプロジェクトに夢中でのめり込んでいる間に、世間と『音楽の力』は変ってしまったのだ。
エミールはたまらず学部を走り出た。
美術学科の校舎に入ると、ぷんとテレピン油と絵の具の匂いが漂った。
オペラ「ボエーム」の上演準備中、常に漂っていたものだ。
背景美術を描いたり、小道具に『汚し』を入れるミリヤナたち美術学生の、体や髪にしみ込んでいるのだ。
音楽と美術と舞台の演技。それが一つになった『至高の空間』を、自分達は作ろうとしていたのに。
「イワン!ミリヤナ!いるか!? 」
片っ端から空き教室のドアを乱暴に開けて回るエミールに、教室を使っている画学生は
「いきなりなんだ」
「外部の者が邪魔をするな」
と罵った。
一番奥の、壊れかけた画材倉庫のような部屋を開けると、彼らはそこにいた。
二人とも課題の画の仕上げをしている。
「どうしたエミール」
「珍しいわね。美術学科に来るなんて」
振り向いた二人は、金髪を振り乱し荒んだ目をした青年を訝しく見つめた。
「どうした。追われているのか ? 」
イワンが周囲を警戒して囁いた。ミリヤナが静かにドアを閉める。
校内の至る所にゲシュタポが入り込んでいるのだ。どこで聴かれているかわからない。
「いや……追おうか追うまいか迷っている」
「何を? 」
ミリヤナは注意深く筆とパレットナイフを隠した。
エミールの様子は正気ではない。暴発して何を仕出かすか分からない。
「マリーだ」
「別れたのか?君ら」
躊躇いがちに聞くイワンの襟に、エミールはいきなりつかみかかった。
「知っていたんだろう、君達だって。知らないとは言わせないぞ ! 」
「何をだよ。落ちつけ」
イワンの方がずっと力は強い。たちまち手首をつかまれ反対にねじ伏せられた。
「マリーの……ヌードモデルをやってて……おまけに体も売っていたってこと……」
ミリヤナとイワンは顔を見合わせた。
「君達のお仲間連中が、表のカフェで話していたんだ。画学生の間じゃ有名だって……」
黙ってないで何か言えよ。
エミールは二人に詰め寄った。
言葉の勢いとは逆に、目から光が消えている。
「知っていたよ」
イワンがエミールの手を離した。
「やっぱり……」
離された両腕をだらりと下げて、エミールはふらふらと後ずさりした。
「薄々そんな気はしたんだ。このところずっとあの子の言動は不安定だった」
軽い嗤いが片方の口元に浮かぶ。
「貧乏が嫌になったんだな。こんな稼ぎのないろくでなしの俺との」
「あの子が自発的にやっているとでも思うの? 」
ミリヤナがぴしゃりと諫めた。
「今まで黙っていたし、出来たら一生内緒にしておきたかったけど……マリーは少女の頃からずっと体を売って生きて来たのよ。でもあんたに会って、愛されて一緒に住むようになって、そんな暮らしからは足を洗ってた」
「オペラプロジェクトのためにまた始めた、と笑顔で言われたよ。エミールには生活の心配しないで音楽だけやってほしいからって。自分にはアンナみたいに店で歌う技量はなくて、持ってるものは身体だけだから、それで『仕事』を再開するんだって……」
「俺 ?」
「そうだよ。お前に会って辞めて、お前のためにまた始めたんだ」
そんなのはうそだ。彼女は根っからの売春婦なんだ。男に求められるのが楽しいんだ。そういう女なんだろう? そうだって言ってくれ 。
絶叫したエミールは、涙をたたえた目でイワンとミリヤナを睨みつけると、ふらふらと教室を出て行った。
巡回中の警官が何事かと走ってきたが、錯乱した様子のエミールと、立ち尽くすイワンとミリヤナの姿を見ると、口笛を吹いて冷やかした。
「若いっていうのは特権だね。どんどんやりたまえ」
「エミール」
ミリヤナが鋭く呼びかけた。
「オペラは続けるわよ」
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