第24話 歌の翼に君をのせて

「窓が開けっぱなしじゃないか。早く閉めて ! 」


 エミールのかん高い声が響いた。


 ベルリン・ツォー駅近くの古ぼけたアパート。テノールのエミールとソプラノのマリーの『愛の巣』。

 その屋根裏部屋の窓は開け放たれたまま、ごうごうと風が吹き込み、たたんだ衣類や楽譜、本や紙類が部屋中を舞っている。いかに夏のベルリンとは言え、埃っぽくて部屋の中がざらついていた。


「え、ああごめんなさい。ついうっかり」


 そんなくしゃみが出そうな風が渦巻く中、恋人のマリーはテーブルに突っ伏して眠っていた。


「今日は原稿料がもらえたからベーコンとラードを買えたよ」

「あらすごい」

「飯にしよう。僕がジャガイモをむくよ」

「ジャガイモ? 」


 マリーが訝し気に首をひねった。


「いもがあるの? 」

「何を言ってるんだ、仕事の帰りに買って来るって言ってたじゃないか。だから今日は『農夫のオムレツ』にしようって」


 マリーの顔は一瞬で青ざめた。

 ごめんなさい、買ってこなかった。


「私本当にそんなこと言った? 」


 私をだまそうとしてるんじゃないの? そんなこと言ってないわよ。


「そうやって、私を困らせようというんでしょ。何もできない役立たずって思わせて」


 私を牛耳ろうとする、ひどい人。嘘つき。


「そんなこと言ってないじゃないか。わかった。ジャガイモも卵もないんだね。でも大丈夫。昨日の固くなったパンを小さく切ってベーコンと炒めよう。ミガスっていうスペイン料理だ。ピカソの本で読んだんだ」


 こうなってくると厄介だ。

 マリーはこのごろおかしい。塞ぎこんだかと思えば泣き出したり、急にやけっぱちなふてくされた態度に出たり、笑いだしたり。

 仕事がうまくいっていないのだろうか。


「マリー、君よく眠れてる? 」

「寝てるわよ。なんで? 」

「君、最近おかしいから」

「ひどい ! 」


 マリーはいきなり飛び上がると、テーブルクロスを丸めてエミールに叩きつけた。


「ごめん、ごめんよ。でも前ならこんなこと絶対にしなかった」

「誰のせいでこうなったと思ってるのよ! 」

「え、俺 ? 俺のせい ? 」


 確かに余裕のある同居人じゃない。いつも貧乏だし、仕事もカバレットの演目の翻訳や、子供たちへの音楽指導、ちょこっとした書き物くらいでいつも貧乏だ。

 でもそれは付き合い始めたころと変わらない。

 このヒステリックな情緒不安定はもしや。


「君、もしかして子供ができたとか……? 」


 ドスッ

 マリーはペティナイフをテーブルに突き立てると、髪を振り乱して出て行ってしまった。



 いったい何だっていうだよ

 エミールは自分が辛抱強い方だと自覚していたが、今度ばかりは許す気にはなれない。

 言いたいことや、傷ついたと感じるような事があったら、お互いその場できちんと口にする。

 言葉で言わなければわからない。

 それは一緒に住み始めたころからの約束だったはずだ。

 あれはどうみてもおかしい。

 オペラグループが離れ離れになり、ヅィンマン先生が姿を消し、アンナも荒れた生活を送って外国人の愛人になっているという噂だ。そうした周囲の変化が彼女を不安定にさせているのだろうか。


「先を不安がっていても仕方がない。まずは目の前をしっかり見てほしいよな。例えば僕とか」


 昼飯を食いはぐれたエミールは、そのまままた階下に降り、街へ出た。

 安カフェに入ると、パンとピクルスとスープを頼む。

 薄いスープには豆と、小さな小さなベーコンが沈んでいた。

 腹にたまりそうもない。夕飯はどうなるのだろうか。


 二つ向こうの小さな丸テーブルに、画家の卵と思しき若者たちが三人、コーヒーを飲んでいる。

 ぷんぷん漂うテレピン油の匂いと、袖や背中にまで絵の具の着いた上着。オペラプロジェクトで組んだが学生たちを思い出した。

 演出助手兼大道具のミリヤナ。マルチェッロ役の画学生イヴァン。彼らはどうしているだろう。

 手紙を書こうか迷っているうちに月日だけどんどん過ぎてゆく。

 自分のような出来の良くない音大生に、将来はあるのだろうか。

 酒場で歌うのも圧倒的に若く美しい女性歌手だ。

 エミールは固いパンを千切って、スープに沈めた。

 少しでもかさが増せば空腹も収まるというものだ。


「そういえば例のモデルの子は最近どうだい?」

「えっと、誰だっけ。着衣かヌードか」

「『脱ぎっぷりのマリー』だよ。フランスから来た小柄なブーランジェ嬢」


 エミールのスプーンが止まった。


「とにかく勘が良いよな」


 ろくに床屋に行っていないであろう、ぼさぼさに伸びた金髪の男が言う。


「こちらのリクエストにも素早く反応してくれるし、ポージングのバランスもいい。『よるべなき少女』を匂わせる目つきもね」

「あっちの反応もいいんだよなあ」


 栗色の髪の男が目を細めた。口元がだらしなく緩む。

 エミールの手は完全に止まったままだ。


「なんだ。もうお試ししたのか」

「お前らもだろう? 」


 三人は楽しげに笑った。


「裸体スケッチ後のお付き合いも、短時間ならしてくれる」

「恋人が待っているから、と言いながら感度良好なのが、我らがマリーのいいところだ」

「あの、拒みながらも受け入れる二面性が良い」


 金を出せばどんなプレイも嫌がらないしな。

 三人の男たちの目が、彼女の行為を思い出したように空を泳いだ。


「兄弟。もう一杯ビールを奢るよ」

「俺たち本当に兄弟だったとはね。我らが娼婦マリーに乾杯」


 追加のビールジョッキを高く掲げる三人の画学生達を横目に、エミールは席を蹴って店を出た。

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