第27話 死の都・2
1935年。
ドイツはベルリン市街地のみならず、郊外、ブランデンブルク州、国を挙げて一大建築ブームに沸いていた。
次の年に開催を控えた『第11回オリンピック競技大会』通称ベルリンオリンピックのため、施設や空港、交通網の整備を急いでいたからだ。
前年の1934年から着工されたオリンピックスタジアム『オリンピアシュタディオン・ベルリン』、併設の競技用プール。選手村やホテルの建設、道路や空港の拡張。毎日至る所で建築機械の音や職人、監督官、工夫たちの賑やかな声が響いた。
「ナチス党政権のおかげで」景気や雇用も安定した、と思い込んでいる国民は、街が活気づくことを喜び、『ゲルマン民族の優れた点』を諸外国に披露する絶好の機会を楽しみにしていた。
とはいえ多くの庶民にとって生活はまだまだ苦しく、毎日をつつましく安全に、無難に過ごすことに執心しなければならなかった。
元々多くの国から芸術家や学生等多くの人が集まる都市ベルリンは、オリンピックの準備に出入りする世界各国からの入国者のおかげで、往年の活気を取り戻したように見えた。
だがその一方で、ナチスによる非アーリア民族、なかでもユダヤ人社会への締め付けと権利の剥奪は進行していた。
9月。
秋の声を聴く頃になっても、ベルリンの街は暑さに覆われていた。
目抜き通りの名前にもなっているリンデン(西洋菩提樹)、カエデ、プラタナス、トチノキなどの葉はまだまだ緑濃く、この大都市の住民に安らぎの木陰を提供する。
バイオリンケースを下げて豪奢なアパルトマンの石段を下りてきた、日本人青年シンノは、運転手兼執事が回した車に乗り込んだ。
しばらく走り、下町のアパートの前に留まる。
埃やゴミが風に舞う路地の前に佇んでいるのは、仲の良いバリトンのキムと、彼に肩を抱かれた元エミールの恋人・マリーだった。
ヌードモデルのなけなしの給料で買ったイブニングドレスは流行遅れで、靴の型もいかにも野暮ったい。
青ざめ痩せこけた顔に濃い化粧、髪は逆毛をたてて女芸人のように派手に結い上げている。
正装のシンノとキムは、女を挟んで短く視線を交わした。
「お乗りなさい。マドモワゼル・ブーランジェ」
わざわざ車を降りたシンノが、気取った声をかけた。
車は彼らがよく使う場末の安カバレットでもビヤホールでもなく、ミッテ区のとなり、瀟洒な世紀末様式の建物が並ぶプレンツラウアー・ベルク区の小劇場に、車は止まった。
キム、シンノ、マリーの三人の若者は楽屋口から(資材搬入口ではない)建物に入った。
こちらも正装の楽団員や学生歌手、舞台責任者のミリヤナが、挨拶をしつつすれ違う。
学生たちの顔には緊張が走っていた。
今日は、オペラプロジェクト第二回演奏会に向けた、資金集めのためのガラコンサートなのだ。
ドイツ歌曲や甘いワルツのデュエット、アンサンブルによる器楽の演奏、そしてプログラムには載せていないが、次回の演目『死の都』からのアリアや重唱の抜粋が予定されていた。
ユダヤ人作曲による楽曲の演奏は法律上では禁じられていないが、帝国音楽院から睨まれる対象ではあった。
6月24日にドレスデンのゼンパー・オペラで上演された、巨匠リヒャルト・シュトラウス作曲のオペラ『影のない女』の例もある。
後の巨匠カール・ベームの指揮によるこの日の初演は、ナチスにより激しく糾弾され、当時帝国音楽院の総裁だったシュトラウスはその職を辞せざるを得なかった。
ユダヤ系の詩人フーゴ・フォン・ホーフマンスタールが台本の作品だから、というのがその理由である。
故にコルンゴルトの『死の都』を演奏するかどうかは、プロジェクト内でも最後まで意見が分かれた。
圧倒的に美しい音楽だというのは、初演時から確立された評価ではあるが、危険を冒してまで、資金集めコンサートでやる価値があるのか。
だが『死の都』をガラコンサートに取り入れたいと強く主張したのは、ヒロイン・マリエッタ役のマリーだった。
「これを歌いきる事が出来たら、私は生まれ変われるかもしれないのよ。私はそれに賭けるの」
行きの車の中でシンノとキムに語ったマリーの目は、これまで見たことのない炎が燃えていた。
難曲が、彼女に火を吹きこんだのかもしれない。
ピアノ、ヴァイオリン、そして指揮と八面六臂の活躍をするシンノの苦労の甲斐もあり、ガラコンサートは順調に進んでいった。
プログラムはヒトラーが好むというオペレッタや寸劇、ワグナーも交えた多彩な構成で、インテリ層や軍人、外国人にも良い反応だ。
なによりドイツとその同胞である国から学びに来た学生たちが、神聖なるドイツ精神に満ちた音楽を披露するという事は、ナチ党員たちのプライドをくすぐるようだ。
一番の上座には、昼の正装を決めた日本の駐在武官大島浩が夫人、大使館の上級職員、富裕な在伯日本人達を従えて陣取り、軽食をつまむ手を止めて聞き入っている。
シンノとキムは音楽に造詣の深い武官の満足げな顔に安堵した。
壮大なハンス・プフィッツナーの『ドイツ精神について』のアンサンブルでプログラムが無事終わり、鳴りやまない拍手の中、ソプラノのマリーとテノールのエミールだけが舞台に残った。
静かにシンノのバイオリンが鳴り始め、弦楽器と木管が加わり、繊細な前奏を奏でる。
1924年の戦間期にベルリンで初演されたオペラ「死の都」の、ノスタルジックな愛の二重唱『マリエッタのリュートの歌』である。
目のまえにいる肉感的な若い愛人と歌っているはずが、いつの間にか死んだはずの貞淑な若妻と重なり、静かに歯車が狂いだす『死の都ブリュージュ』で繰り広げられるオペラ。
エミールの目の前にいるのは純真で恥ずかしがり屋のマリーなのか、見知らぬ男に体を開き、保護を求めて他の男にも抱かれるマリアなのか。
スポットで当たる照明の下、エミールは思わず向かい合った彼女の腕をとった。
とまどうマリーの歌声が一瞬揺らぐ間に、大島が卓上のナプキンを振った。
すぐに給仕が飛んできて大島と夫人、日本人客は席を立ち、ナチ党員だけが残った。
何だろう。婦人たちとの予定でもあるのだろうか。
舞台の袖から見つめるミリヤナと、バリトンのフランツ役「ピエロの歌」を歌うキムが視線を交わしたところに、照明が落ち、店内が真っ暗になった。
左右の出入り口、非常口が開き、黒い制服を着たSS(親衛隊)とゲシュタポの男たちが静かに入ってくる。
たちまち会場はざわつき、楽団は演奏を止めた。
エミールとマリーの声も止まった所で、大島駐在武官が流ちょうなドイツ語で話し始めた。
「会場にいらっしゃる皆さん、怖がることはありません。この素晴らしい音楽の場にネズミの泣き声を紛れ込ませた不届きな学生がいるのです。
私達大ドイツ魂を有する大人は、彼らを教え諭し、矯正させなければなりません。
アンコール前までの素晴らしい演奏を胸に、どうぞお帰り下さい」
舞台上にいたエミールとマリーは棒立ちのままゲシュタポに捕らえられた。
楽団の学生たちも、舞台の袖にいたミリヤナたちスタッフも、黒い骸骨印の帽子をかぶった集団に取り囲まれ、連れ出された。
「諸君、喜劇は終わった」
ミリヤナは腕をつかんで連行されながら、叫んだ。
レオンカヴァッロの殺人で終わるオペラ、『道化師』の最後の台詞だ。
オペラプロジェクトは崩壊した。
次の日、警察署からふらふらと出て来たキムとシンノ、二人のアジア人の前に、すっと車が止まった。
「迎えに来たよ。君達の身柄は大使館が管理し、手配がつき次第日本国に帰ることになる」
腫れあがった顔に乱れた髪、血と埃で汚れた正装姿の二人の学生は、車から降りた大使館職員たちに、乱暴に車に押し込められた。
なにか訴えようにも殴られ切れた口はうまく開かない。
「忠告したはずだ。これ以上リベラルな学生たちと付き合っていると、私達も守り切れないと」
車は乱暴に発進し、その日以来街から二人の姿は消えた。
エミールがアンナの小さなアパートを訪ねたのは解放されてすぐ、キムとシンノより2日程遅かった。
「マリーはいるんだろう?」
厳しい尋問のせいで痩せこけ青ざめた青年は、出て来たガウン姿のアンナに尋ねた。
アンナは無言で部屋の奥を指さした。
部屋奥の隅にはひどく狭い流しと、料理用ストーブのセットが据えてある。
そこで、髪を振り乱し虚ろな目をしたマリーが、ぶつぶつと何事かを呟きながら、憑かれたようにジャガイモの皮をむいている。
「美味しくなれ、美味しくなれって話しかけながら料理すれば、このちっちゃなしなびたお芋だって、立派なポテトパンケーキになるのよ……」
「マリー、迎えに来たよ。俺と一緒に帰るんだ」
エミールが正面に立っても、顔を上げたマリーの目はぼうっと濁っている。
「ジャガイモが、変わってくれないの。私は変ろうとしたのよ。私ができたんだから、このお芋さんだって美味しく変われるはずなのに」
「ああそうだね。剥いてくれる人によって、君もジャガイモも変る事が出来るんだろうね」
エミールはマリーの頬を思い切りたたき、腕を乱暴につかむとアンナの部屋を出て行った。
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