第21話 魔王・2

 6月30日未明。

 4時すぎ、ヒトラーとゲッベルス、後にレームに代わり突撃隊幕僚長となる大将ヴィクトール・ルッツェの乗ったユンカース機が、ミュンヘンの空港に降り立った。

 バート・ヴィスゼーのホテルに集った古参の突撃隊幹部、彼らについてきた隊員たちが逢いたがっている「俺たちのアドルフ」。

 突撃隊とナチス生誕の地であるここミュンヘンで、熱い政治論を戦わせビールを飲んで笑い、ヴェルサイユ条約下の理不尽について怒り、共産主義者たちに憎しみを燃やした愛すべき髭の男。


 だが彼は友との歓談をしに来たのではなかった。


 その足でバイエルン州の内務省に向かったヒトラーは、良識ある穏健派で知られたアウグスト・シュナイトフーバー突撃隊大将を逮捕した。

 彼は悪評のない誠実な人物だったが、ヒムラーやハイドリヒら後にSS(親衛隊)トップになる派閥と仲が悪かったと伝えられる。

 ほぼ同時にヴィルヘルム・シュミット突撃隊中将(人違いで逮捕されたとも言われる) も捕らえると、すみやかにレームたちの宿泊している保養地のホテルに向かった。

 夜が明けぬうちに一気に『クーデターの噂のある』一派を捕らえようというのである。


 ヒトラーは政権について以来、レームたち突撃隊の過激な行動に手を焼いてきた。

 まだ自分達ナチスが、ワイマール体制に対する一反対勢力に過ぎなかった時は、その反骨精神と暴れっぷりが大いに助けとなった。

 だが政権についてからは、彼らの過激な示威行為は全く逆に映るようになった。

 国防軍からは非協力的な鼻持ちならない態度が疎まれ、ヒンデンブルク大統領からも彼らを沈静化しろと、あからさまに不快感を示され続けた。


 ヒトラーは何度もレームたちに諭した。

 もうただの暴れ者の態度は許されない。政権与党ナチスの外面を傷つけるなと。

 だが彼らは聞かなかった。それどころか


『アドルフはベルリンに行ってから変わってしまった』


と不満をぶつけるようにすらなった。

 老大統領ヒンデンブルクの厳しい目、国防軍からの突き上げ、自分の意を無視した勝手な行動。

 それらはいずれも、ヒトラーの権威と力に対する挑発と、政財界からは捉えられ始め、密かに『第二革命』と呼ばれさえした。

 ヒトラーにとって、これまでの忠義や仲間としての情と、悪評とを天秤にかけるのは辛いものであったが、もう限界だったのである。

 彼はレームとその一派、古参幹部、敵対する政治家や遺恨のある役人たちの粛清を決めた。


 早朝5時30分過ぎ。

 ヒトラー達一行の車は、バート・ヴィスゼーの会員制ホテル「ハンセルバウアー」に急行した。

 レームやエドムント・ハイネス達の宿泊しているナチスの保養所である。

 襲撃の主力部隊、ベルリンから移動させたヨーゼフ・ディートリヒ率いるSS『武装親衛隊アドルフ・ヒトラー』の他に、テオドール・アイケ率いるダッハウ強制収容所の監視部隊も合流するはずだったが、まだミュンヘンより到着していなかった。

 ヒトラーは待たなかった。

 みずから宿舎に踏み込み、長年の『盟友』エルンスト・レームは逮捕された。


 就寝中の他の幹部の部屋も次々と襲われた。

 レームの副官でオイゲンの上官エドムント・ハイネスの逮捕は、まさに同性愛行為の最中だったとも伝えられる。

 そこに踏み込んだのは他ならぬ『俺たちの』ヒトラーだった。

 ヒトラーは汚らわしいものを見るような目で、真っ裸のハイネスと、同じシーツに包まる18歳の『愛の青年』を睥睨し、5分以内に服を着ろと怒鳴り出て行った。

 他の突撃隊幹部の部屋に踏み込むためである。

 だが他幹部の逮捕を済ませて戻って来ても、ハイネスはまだ服を着ていなかった。

 ヒトラーは激怒し、裸のまま逮捕しろと叫び踵を返した。


 ハイネスは、総統が自分達を邪推していると思い、続けて入って来たヴィクトール・ルッツェに命乞いをした。


 「何もしていない。俺は総統に対してやましいことなど何一つしていない。

 これはきっと誤解だ。間違いだ。お願いだ、助けてくれ」


 だが、総統自らの手で断罪されたも同然のハイネスに、その宣告を覆す術は無かった。

 長年着慣れた突撃隊の制服を身にまとうと、同じく慌てて着衣した金髪の「愛の青年」と共に廊下に叩きだされた。

 あとは車に押し込まれ、あらかじめ決められたミュンヘンの刑務所に直行するのみであった。


 同じ頃。

 森の中を姿勢を低くして一心不乱に走り抜ける青年がいた。

 テーゲルンゼー湖のほとりから連なるバート・ヴィスゼーの山中。

 藪の小枝や、刃物のように薄く鋭い木の葉や草で手足を傷だらけにしながら、必死に逃げているのは、下着姿の金髪の青年だ。

 彼オイゲン・ザックハイムは、上司のハイネスから夜のベッドに誘われたが、ブロツワフの空港に遅刻した副官のハンス・ウォルター・シュミットが急ぎ駆け付け、お役目はあっさりと交代になった。

 解放された途端『レーム親父』の部屋に引っ張りこまれそうになったが、哀れに思ったのか幹部の1人が用事を言いつけ、彼はその場を離れる事が出来た。


 車の整備を命じられたオイゲンが外に出ると、明け方の闇に紛れて「親衛隊」の乗った黒い車がこちらに向かってくるのが見えた。

 身をかがめタイヤの点検をしている自分の姿は、彼らからは見えない。

 招集され遅れて到着したメンバーだろうと、オイゲンは作業を続けた。

 眠っている突撃隊幹部たちを起こさないよう、静かに、音を立てずに。

 だが、すぐに状況は一変した。

 宿舎の中から大勢の走る足音、ドアが蹴破られる音、


「逮捕する」

「通路に出ろ」


 という怒鳴り声。もみあう音が聞こえた。


「全員逮捕しろ」

「直ちに服を着て出ろ! 」


 口答えをする兵士を殴る音。そして、耳について離れない特徴ある甲高い声。

『俺たちの』アドルフ・ヒトラーだ。

 レームやハイネスといった大幹部をなじる声も響く。

 逃げなければ。

 オイゲンは一目散に森の中に駆け込み、奥へ奥へと、木々と藪の一番濃いところを走った。

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