第22話  魔王・3

 18歳の突撃隊員オイゲン・ザックハイムは、崖を飛び越し、低い草地の地面を這い、樹木の陰に身を隠しながら走り続けた。

 逃げなければ。

 何が起こっているのかはわからないが、突撃隊は非常にまずい事態に陥ったのだ。


 彼は、自分達を取り巻く政治的な状況や駆け引きは、何一つ知らなかった。

 彼だけでなく他の隊員たちも、自分達が他の勢力からどう見られていたか、向けられる視線のベクトルがなぜ変ったのか、分かっていなかったに違いない。

 レームやハイネスといったトップクラス幹部でさえ、自分達がナチ党のお荷物で、国防軍やその他の勢力から排除を望まれていることなど、知らなかった。

 ただヒトラーの『最近の』側近、外交官の息子のヘルマン・ゲーリング、博士号を持つ学者のヨゼフ・ゲッベルス、音楽院を経営する作曲家の息子のハイドリヒ。

恵まれた家の子弟である彼らからは好意的には見られていない。それだけは肌で感じた。


 だがそれだけだった。


 気骨と覇気の塊たる突撃隊員である彼らは、街中で気勢を上げ、行軍し、敵対するものは力で打ち据えた。

 それがナチ党と親愛なる我らのアドルフを護ることなのだ。

 軟弱なワイマール政府の野郎ども、アナキストや共産主義者、社会主義者に対抗する反骨精神のある男達の集団でいるのが、突撃隊の務めだ。

 力が正義を作り、正義は力を欲する。

 それの何がいけないのか。


 夜明けだ。朝の光が森の切れ目に差している。

 森に切られた幹線道路の傍まで来てしまったのだ。

 オイゲンは危険な気配を感じて藪の中に身を隠し、這いつくばった。

 木々の根元から微かに透けて見える光景は、18歳の青年の全身を震え上がらせるに十分だった。


 ピカピカに磨き上げられた黒いホルヒの公用車と、兵員輸送用のトラックが車列を為して向かってくる。

 地面に顔をつけ土に汚れながら、潜んだ藪の枝をそよとも動かさないよう、彼は息を詰めた。

 彼から二十メートルも離れていない道路上で、車列は止まった。

 万事休す。

 観念したオイゲンの頭の中が真っ白になった。

 何も思い浮かばない。

 故郷も、親も、恋人のアンナのことも。

 死ぬ、俺は死ぬ。いやだ死にたくない。ただそれだけを思っていた。

 混乱して頭が痺れそうだ。

 藪の草を伝う小虫が根元から土を伝い、オイゲンの腕から首を伝う。

 トゲだらけの触手が皮膚を伝い歩く不快感も、彼は感じる暇がなかった。

 息を詰めて身を鎮める。


 だが、様子が少し違った。

 先ほどまでいたバート・ヴィスゼーに向かう車列が、道の反対側から姿を見せた。

 舗装もされていない山道を急ぐ車は、ホルヒの車列と、車から下りて待ち受ける幾人もの親衛隊員を見て止まった。

 我らのアドルフ・ヒトラーがゆっくりとドアを開け、専用車から降りた。

 対する、湖畔の宿舎を目指す車から下りたのは、突撃隊少将のペーター・フォン・ハイデブレックだった。

 シレジア蜂起鎮圧の戦いで重傷を負い片腕を失った猛将は、周知された時間よりだいぶ早いヒトラーと、その一行の異様な雰囲気を訝しんだ。

 彼の目線の先、車列後方の軍用トラックにはハイネスやレームたち、同じ突撃隊の大幹部が押し込められている。

 早朝にもかかわらず制服をきちんと着たハイデブレック少将は、すぐに全てを察し帽子を深く被り直し、静かに車の脇に立っていた。

 ヒトラーとその護衛の親衛隊の隊員たちは、荒々しく彼を逮捕拘束した。

 帽子を奪われ、側近と共に後方のトラックの荷台にぶち込まれる。


 ヒトラー達の車列が去った後、オイゲンは再び森を逃げだした。

 崖を飛び降り、藪を漕ぎ走る途中、針葉樹がうっそうと茂る中に狩猟小屋を見つけた。

 慎重に近寄り中をのぞくと、既に狩りに出た後で無人、周囲にも人の気配はない。

 小屋の軒先の樫の枝に干してある、ズボンとシャツと上着を拝借し、彼は背の高い草の中で着替えた。

 手も顔も土ぼこりだらけの、若い農夫そっくりになったオイゲンは、再び走った。

 ベルリン行きの列車に乗ろう。そして帰ろう。

 だが駅に近づくことはおろか、ミュンヘン市街に近付くことすらできなかった。

 街外れの一角に留まり様子をうかがっただけで、路や街角、路地、公会堂や役所、教会前など、目ぼしい場所に親衛隊や警察、国防軍の兵士が武器を構えて立ち、警戒のため歩き回っている。

 オイゲンは街中への潜入は諦め、再び草原に戻った。


 真昼の若緑色の牧草地を、ミュンヘン駅を出た国際列車が疾走している。

 その長い車両の連結部をじっと見つめるオイゲンは、心を決めて線路わきの藪から身を躍らせた。

 貨車と貨車の接続部に跳び込んで手をかけ、巻き込まれないよう足をかける。

 捕まらない。俺は逃げる。

 振動とスピードで手が震え、滑る。カーブで車体が揺れ、体が激しく振られる。


 俺は死にたくない。


 オイゲン・ザックハイムの悲鳴が渓谷に響いた。


 7月1日、エドムント・ハイネスは彼と同時に逮捕された突撃隊幹部、すなわちアウグスト・シュナイトフーバー突撃隊大将、 ハンス・フォン・シュプレーティ=ヴァイルバッハ突撃隊大佐、ヴィルヘルム・シュミット突撃隊中将、ハンス・ハイン(アルブレヒト・ヨハネス・ハイン)突撃隊中将らとともに、ミュンヘンのシュターデルハイム刑務所の中庭で銃殺された。


 一方ベルリンでもゲーリング指揮する粛清部隊が動いていた。


 新婚旅行中の突撃隊中将カール・エルンストは、送りこまれた部隊によってポルトガル領マディラ島のホテルで襲われた。

 新妻と彼らの運転手も負傷させられたが、新婚の夫カール1人だけがベルリンのリヒターフェルデ士官学校に連れ込まれた。

 彼は他の拘束された突撃隊幹部150名とともに、6月30日に銃殺された。

 最後までヒトラーの『裏切り』とは疑わなかった。

 バート・ヴィスゼーで逮捕されベルリンまで連行されたエルンスト・レームは、盟友ヒトラーの命令だと知らされ、絶望のうちに士官学校の独房内で射殺された。


 エドムント・ハイネスの『かわいい子』も7月2日の夜、ミュンヘンのリヒターフェルデSS兵舎で『武装親衛隊アドルフ・ヒトラー』によって殺害された。

 彼らの死は『叛乱』として大々的に紙面に載り、ドイツ駐在の新聞各社特派員によって遠い極東の日本でも報じられた。


 史実では、ハイネスと同衾の最中に捕まったのは、エーリッヒ・シーウェック(erich schiewek)という若い突撃隊員と伝えられる。

 彼はブロツワフの勤務地で、6月29日に初めてハイネスと引き合わされ、バート・ヴィスゼーに同行したという。


(現在、神戸大学のデジタルアーカイブ資料にて、大阪毎日新聞現地駐在員が当時送った記事を読むことが出来る)

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