第20話 魔王・1

 1934年春。

 オイゲン・ザックハイムは突撃隊の管区外への移動命令を受けた。

 ベルリン大管区から現ポーランドのブロツワフの所属になったのだ。

 ドイツ(プロイセン)領でブレスラウと呼ばれていたこの都市の南部には、ブレスラウ・ドゥルゴイ収容所があったが、1934年当時は粗末すぎるという理由で閉鎖されていた。


 幹部でもない一介の突撃隊員がわざわざ別の管区に移動するというのは奇妙な事だが、全てはブレスラウの警察署長に就任しているSA副幕僚長エドムント・ハイネスの命令だった。

 家族を連れて行くことはできなかったので、年上の恋人アンナはベルリンに残った。


 ブレスラウでは市の大隊に所属することになったが、暫くして落ち着くと、市中で権勢をふるう突撃隊と警察幹部たちの無法ぶりが、嫌でも目に付くようになった。

 予想に反してハイネスから呼び出されたり、無茶な命令を下されたりはしなかったし、彼の姿を観ることもめったになかった。

 彼は突撃隊の建物より、警察の庁舎にいる事が多かった。

 かわりに彼の恋人である『愛の青年』の悪評は山ほど聞いたし、目にした。

 金髪碧眼の美しい副官ハンス・ウォルター・シュミットである。

 彼と取り巻きは男同士の乱交パーティーを頻繁に開き、車で市中を走り回り少年(多くは男子高校の前で無理やり車に引き入れた)を連れて来ては夜通し嬲り者にし、朝になるとぼろ雑巾のように道端に放り出した。

 少年たちの多くは心身に深い傷を負い、長期入院を余儀なくされるか、自から命を断った。

 まれに『幹部のお気に入り』になり、尻の穴と口腔を代償に入隊するものもいたが、けして多くはなかった。多くの少年たちは文字通り『生贄』になったのである。

 そんなわけで、ハイネスのお気に入りシュミットと警察幹部の、市民からの評判はすこぶる悪かった。

 オイゲンは目立たぬよう、ハイネスが自分の存在を思い出さぬよう、息をひそめるようにして突撃隊の職務を淡々とこなした。

 一日でも早くベルリンのアンナの元へ帰るために。


 1934年6月28日。

 ヒトラーから、親友の突撃隊幕僚長エルンスト・レームに、幹部級のごく内輪の会合への誘いがあった。

 喜んだレームはミュンヘン郊外のバート・ヴィスゼーに集まるよう、子飼の幹部たちに招集をかけた。

 副幕僚長のエドムント・ハイネス、レームの副官でハイネスと共にレームとの同性愛の噂がある突撃隊大佐ハンス・フォン・シュプレーティ=ヴァイルバッハ、ハンス・ハイン、ハンス・ペーター・フォン・ハイデブレック等である。

 政務に多忙で、長く突撃隊から離れていた『俺たちの』アドルフ・ヒトラーが来るという知らせに、ハイネスは緊張した。

 小柄で、けして軍人としての武勲があるわけではなく、腕っぷしが強くもないが、妙な威圧感があるし、なによりレーム親父の盟友だ。

 このところお高くとまった国防軍将校(プロイセンの貴族や元領主がうようよいる)の顔色を窺い、自分たち突撃隊に『お行儀よく』協力しろというのが不満だったが、彼自身も田舎の庶民の出だ。

 きっと自分達をこれまで通り認めて、引き立ててくれる。


 党と彼ヒトラーのために、自分たち古参の隊員は拳やこん棒や銃に物を言わせて、反対者を叩き伏せてきたのだ。

 頭の芯までしびれるような衝動、力、屈服させる快感。

 それは突撃隊に入りたての、よく事情を知らない青少年たちの体を『開かせる』行為に似ている。

 レーム親父が『仲間になるのに必要な習慣』と呼んだその行為こそが、自分達をより強く親密にする。

 ハイネスは暴力的で欲望に忠実な男だったが、体裁は気にした。

 随行させようとした警察副署長のオットー・ティールマンはここしばらく病気がちで、ポーランド国境のブレスラウから南ドイツのミュンヘン郊外まで遠出するのは無理だった。

 気の置けない「愛の青年」、ハイネス副官のハンス・ウォルター・シュミット一人が彼に同行することとなった。


 6月29日朝。

 空港に着いたハイネスは、副官のシュミットがまだ来ていないことを知らされた。

 前の晩に自宅に数人の男娼を呼び、怪しげな薬を吸いながら一晩中交わったので、起きてこられなかったのである。

 ハイネスは烈火のごとく怒った。

 既にチャーター機は待機しており、ミュンヘンに向けて飛ぶばかりになっている。

 しかし呼びに行かせた職員の伝えるところによると、彼の「愛の青年」は麻薬と酒と乱交で、ろくに立てない状態だ。

 無理に連れて行っても、厳格なヒトラーや他のお歴々に咎められること必定である。

 とりあえずシュミットの身柄の確保を指示、処罰はミュンヘンから戻った後に回し、彼はオットーに代わりの若者を探させた。

 実直な副署長オットー・ティールマンは、あらかじめ署長のお気に入り候補と目をつけていた若い隊員リストを示した。

 リストの中に、ベルリンから来た18歳のオイゲン・ザックハイムの名を見たハイネスは、笑みを浮かべた。


 1934年6月29日午前。

 突撃隊員の詰所から呼び出されたオイゲンは、エドムンド・ハイネス突撃隊副幕僚長の身の回りの世話をする随員として同行を命じられた。

 チャーター機の座席に収まり残酷な笑みを浮かべるハイネスを、彼は心を殺して見つめた。


 6月29日夜。

 空港に着いたハイネスとオイゲンは、手配の車に乗り目的地であるミュンヘン郊外のバートヴィスゼーに向かった。

 そこはテーゲルンゼー湖の西側に位置する温泉地で、チロルに連なる山々と湖に面した風光明媚な保養地として人気があった。

「レーム親父」ことエルンスト・レーム突撃隊幕僚長も、持病の神経痛治療のため6月8日から滞在している。

 二人を乗せた武骨な黒い車は湖の近くに立つ会員制の保養クラブ『ハンゼルバウアー』に着いた。

 久し振りの『長年の恋人』レームは、以前より血色よく背筋も伸び、健康そうに見えた。

 バランスの取れた食事と適度な散歩、くつろいだ生活と美しい青年たちに囲まれた、政治の心配事から切り離された生活。

 それがレームののびのびとした態度に現われていた。

 私室でがっしりと抱擁したハイネスにレームは、アドルフが到着するのは明日と告げた。

 そして上官の荷物を持っておずおずと控えるオイゲンの、若いそばかすだらけの顔をちらりと見た。


「だから、今夜は久し振りに思う存分楽しもう。あの子を交えて3人でな」


 オイゲンは絶望的な気分になった。


 夕方。暗いチロルの山中に鳥や獣の声が微かに響く中、山道をとばして走る車があった。

 目を吊り上げ悪鬼のような形相で乗っているのは、無理に飛行機を飛ばして駆けつけた『ハイネスの恋人』副官のハンス・ウォルター・シュミットだった。

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